赤の炎 その3
聖都ミッションヒル教会本部、大聖堂。
そのテラスの一つで二人の枢機卿が他愛のない話をしていた。
元『青』の枢機卿だったナーシサスがティスタ河付近まで落ち延びているという、世間話。
その内容を共有する中、枢機卿の一人、『黄』のエデンベールが話を持ちかけた。
「ホッホッホ、ところで急な話なんだがの、ジュンパナ嬢にも動いてもらわねばならぬ、ヤバい話がある」
エデンベールが穏やかな笑みはそのままに、目を細める。
「エデン爺がヤバいって、国が滅ぶくらいのヤツってことか?」
「いいや。この惑星が滅びかねんヤツ」
「へぇ……」
エデンベールの言葉に、『赤』のジュンパナは不敵な笑みを浮かべる。
国が滅びるでは済まない。
全人類が滅びるでも足りない。
この世界が滅びるのだ。
これが唯の終末論気取りの呆けた老人の言葉ならば一笑するだけだが、これはそうなる未来が視える人間の言葉。文字通りの事が現実になりえる。
「ソイツはアタシでも『神託』が事前に必要ってことか?」
「そうさな。倒せはするが、それまでに周辺諸国が滅びるか否かほどの違いは出るかの。幸いにもおぬしの魔法と相性自体は良いし、抵抗もされぬ。様子見などせず最大火力で、とにかく一撃の下に一片の塵も残さず焼き払う。これが肝要」
「もし残ったら?」
「その時はこの大陸のありとある生命は塗り潰されるのう。じゃが、そんなヘマをおぬしはせぬよ」
「そうだな。で、抵抗されねえってのはどういうことだ?」
ふむ、とエデンベールは間をおいてジュンパナの問いに答える。
「其奴は、無理矢理一部分を不完全な形で召び寄せられているようでな、帰れるならばとっとと帰りたいと言ったところか。故に、火に弱いその顕現体を一発で焼き尽くせば問題ないわけよの」
「──まさか、ナーシサスが召喚したって? そっちを浄化した方が早くないか?」
「それが厄介でのう……どうも『神託』に干渉できる者が憑いたようでな。もう彼奴の未来が視えんのよ」
流石のジュンパナも耳を疑った。
「アンタが最近言ってる『神の恩寵』以外にそんな真似出来るヤツがいるってのか」
エデンベールが『神の恩寵』と呼ぶ存在。
聖書に存在が語られているのみのお伽噺とさえ言える、失われた魔法。その者はそんな神代の奇蹟を自在に振るうという。
本当にそんな奴がいるのかと問われれば、ジュンパナは未だ懐疑的でいる。
しかし、エデンベールはその真偽の確信に繋がる発言を決してしない。特級審問士がそんな隙を見せるわけがなく、口にしなければ『聖別』にかけることはできない。
『神の恩寵』について探るとして、元『青』は正気ではないし、新しい『青』は把握すらしていないだろうと考え、ジュンパナはその判断材料から除外した。
となると残りは『白』と『黒』だ。
『黒』は『神の恩寵』の話題について反応を見せたことはないが、一方で『白』は何かを知っている素振りを見せたことがある。以前アリヤが慈善活動の巡回に急遽サングマまで行ったという事実も、ジュンパナの勘に引っかかっていた。
もしこのとき彼女が、叔父であるテラインともっと親しくもっと密に情報交換を行なっていれば……そしてティンダーリア魔法学園の最新の内部事情を入手できていれば……彼女は『神の恩寵』を知ることができたはずだった。
そのことに気づいたとき、彼女は心の内で大きく舌打ちをするのだが、それはもう少し先のことになる。
そんな心の中で瞬間的に迸った思考を断ち切るように、エデンベールが閃いたように笑った。
「ホッホッホ! そうか、その手があった。早速お願いしてみよう。いやはや、やはり若者の発想というのは実に素晴らしい。私も随分耄碌したものだ。
『汝の隣人と常に助け合いなさい』――こんな基本的な教えさえ疎かになってしまうとは、彼奴のことを悪くは言えんの」
「は?」
「私のような老いぼれの只人よりも、彼奴の処分は『神の恩寵』にお願いしたほうが確実じゃろうて。奇しくも再び『天の試練』を想像通り受けることになるわけだの。ホホホッ! まったく羨ましい」
エデンベールのいつもの言い回しに、ジュンパナは顔を顰めた。
(……只人、ねぇ。アンタが“ただの人”だってなら、大抵のやつは猿か畜生だろ)
『赤』と『黄』は実力で成り上がる枢機卿だ。その座を彼は未だ守り続け、君臨している。少なくとも、ジュンパナはエデンベールがいつから枢機卿なのかを知らない。
当然彼もジュンパナと同様、キャッスルトン王国から特級魔法使いの認定を受けている。
そして教会からは『黄』の資格、特級審問士だけでなく、『青』の特級誦経士・『黒』の特級鑑定士・『白』の一級治癒士・『赤』の一級祓魔士と全ての聖五色資格を一級以上で保持している。
これは、エデンベール一人で教会という組織としての機能のほぼ全てを賄えると言えば、その異常さ──少なくとも“只人”ではない──が分かるだろう。
(そのエデン爺が、自分の“駒”を使わず、依頼する、か……あー考え込むのはアタシの性に合わねえな)
ジュンパナは渦巻く考えをリセットするように口を開いた。
「で、アタシはいつどこに行けばいいんだ? 分かったから話を持ってきたんだろ?」
そして、彼女は言葉通り最大火力の一撃の下に、全てを焼き尽くし消し去った――――はずだった。
「ッ!!」
彼女は黒き異形の現れた場所まで、単独で移動してきていた。
付近に人影はおろか気配さえ無い。唯一の圧倒的存在も既に無い。
ジュンパナは半ば本能的に、聖剣を投げ捨てた。
しかし、もう遅いと言わんばかりに、その鋭利な切っ先から黒い煙が滲み飛び出し、広がるのは鼻を突く刺激臭。
聖剣が地を跳ね、彼方の樹木の一本に深々と突き刺さる。
ジュンパナは聖剣ではなく宙に不自然に居残る黒煙に注意を向けていた。
素早く魔力を体表へ高密度に展開し、その手には青白い炎の剣を出現させる。
身構えた彼女の眼前に現れたのは――
「わぷっ!? ████、██████!!」
「ばふばふっ」
黄色い外套を羽織り、頭からは兎の耳を生やした子供と、それを背に載せた黒い大型犬だった。
高速移動からの急ブレーキ的な状態だったのか、犬の背に跨っていた少年は思いっきり犬の頸部にめり込んでいた顔をあげて、不満の言葉、と思われる音を口にしている。
短い期間とは言え冒険者として世界を巡っていたジュンパナでさえ耳にしたことのないそれは、認識も発音も人間にはできないものだ。
「ばふん!」
「わぁっ! んむーぅ……!」
少年が地面に振り落とされた。若干涙目になりながら頬を膨らませて犬を睨み付けている。
だが犬のほうはまるで気にも留めず、犬は、いや、やはり犬に見えるだけで犬ではないのだろう。流体のように形状を崩し空中を駆け抜けたかと思うと、聖剣の刃に飛び込み世界からその気配を完全に消した。
「……」
ジュンパナは構えを変えずに、その奇妙な少年を改めて見据える。
人間なら11歳ぐらいの少年。
髪は人のそれとは異なる質感の朽ちた草葉のようなくすんだ黄緑色で、形だけで言えば長細い折れた兎の耳のようなものが頭部から二つ生えて揺れている。
こちらに背を向けて初めて見えたが、何故か全く役に立つ大きさではない蝙蝠のそれに似た皮膜の張った小さな羽が外套から僅かにはみ出て外に晒されており、臀部の尾てい骨辺りに頭髪と同じ黄緑色をした球状の何かが付いていて、ふるふると蠢いている──ぶっちゃけ兎の尻尾に見えた。
蒲公英色の外套からはダークグレーの膝丈半ズボンが姿を覗かせ、肘と膝から先は、緑の濁った金属光沢を持つ未知の素材でできた、昆虫を想起させる形状のやけに華奢な甲冑のようなもので覆われている。
肌の色は、曖昧。陶器のように白く、あるいは土のように浅黒い。ただ、血色の良い色には少なくとも見えない。
しばらく憮然と聖剣へ吸い込まれるように消えた犬?の方向を睨み続けていた少年は、はっと何かを思い出したかのようにこちらを振り向くと、かしゃかしゃと音を立てて近づいてくる。
ジュンパナは警戒を強めた。
「███、あ、シつれ、ン、んんーー。失礼しました。主さまから、《妻に手を貸してくれて助かった。礼に眷属である此奴を差し上げよう》と言伝をうけたわワ、たまマ、たワまって…た、ま、わ、っ、て、ます。
俺が! プレゼント! です!!」
ふふーん、と胸を張る少年。所々舌が回っていない。
こちらの言語を理解する知性を持っていると同時に、実際に発話する経験自体はまだ浅いというように、ジュンパナの目には映った。
「奥方様からは、ジュンパナ・マホディランにでっチほーこー?してきなさいと仰せつかったのですが、あなたがジュンパナ?
俺、ペレスコーン! 偉大なる風の主たる黄衣の王が眷属、b█あk██エーの一人! よろしく!!」
それは、極めて一方的な自己紹介だった。
俺も少年に「俺が! プレゼント! です!!」って言われてぇ〜〜〜〜〜そしてちむちむ行きたかった……