講義と兆し その4
おふろ^〜〜
育児使用人が浴室の戸を開けると、暖かく濡れた空気がラベンダーとオレンジの優しい香りを纏ってミリク達を包み込んだ。
レイルウェイの症状を聞いてライザが用意した香油が、四方の湯瓶に浮かんだガラスの容器から蒸気と共に立ち昇り、浴室全体を淡く満たしている。緊張を解し、入眠しやすくするものだ。
床や壁はパステル調の磁器のタイルが敷き詰められ、所々にアクセントとして透明感のある色ガラスが埋め込まれている。
そして中央に浅く湯が張られた浴槽は、金属製。これは極めて珍しい。
一般的に貴族の間で普及している浴槽は、磁器や琺瑯鋼板──成形した鋼板にガラス質の釉薬を焼き付け表面を保護したもので、保温性は落ちるが鋼板に魔法陣を組込めるため、安価な発熱の魔法が仕込まれたものが人気だ──、あるいは独特の香りと柔らかさを好んだ好事家が東洋の文化を真似たという木製だ。
なにせ当たり前だが、一部の貴金属以外は水気があるところに置けば錆びる。
故に多くの貴族はこの金属製浴槽を目にしては驚き、茶会やサロンでも未だ話のネタになる。
熟練した魔法使いの錬金魔法でしか作ることのできない絶妙な配合の合金鋼板は、湯水に触れていても全く錆びることがない。また金属にも関わらず少々厚みのある浴槽は内部が中空になっており、ガラス繊維の中綿とハニカム構造によって、強度を損なうことなく軽量化と高い保温性が実現されている。
サングマ辺境伯領が誇る武具生産から培われた金属加工技術と、寒さが厳しい山向こうの隣国から流入した当時最新の技術が融合した、採算度外視の超高級品。
王家に装飾を凝った同様のものが献上された話も有名だ。
金属は魔法を付与しやすいことから、金属製の、それも最も無防備にならざるを得ないサニタリー用品を献上できるということ自体が、王家とサングマ辺境伯家の深い信頼関係を周囲に示す政治的効果があった。もちろん王家直属の筆頭魔法使いによって、くまなく検査されているが。
だが今はそんなことはどうでもいいし! それどころではない!!
まずは御髪をお濯ぎいたしますね、とサングマ家の使用人とレイルウェイ付添いの使用人がミリク達の頭を洗う。
ミリクの青みを帯びた黒髪は、細く柔らか。その指通りは洗っている側も心地よい。
レイルウェイの赤髪は、固めで靭やか。その反発感は洗っている側も小気味よい。
ミリク謹製のシャンプーが洗い流されると、軽く水気をタオルで拭われ、コンディショナーが毛先から素早く揉み込まれる。
ナーバン教授の開発した美容製品として、王都ではそれなりに普及している高級嗜好品でもあるヘアケア用品だ。
こういった美容製品はレシピや複雑な錬成手順が秘匿されており、王都でしか生産されていない。当然サングマのような辺境では運搬にかかる費用もあってとんでもない値段になるのだが、不可解なことにサングマ家の女性はここ最近髪や肌が綺麗になったと一部で噂になっている。
真相は未だ謎だという。
二人は子供の髪なので、まだヘアマスクだとかトリートメントは不要だ。
シャンプーも洗浄力が適度に優しく改善されたことで、ケアと称して頭髪に油を直接塗りこむような真似をする者は殆どいなくなった。精々髪型を整えるスタイリングワックスや香油ぐらいである。
余分なトリートメントも洗い流される。ミリクの脛ほどの高さもない浴槽の湯には今日の分の汚れが泡に包まれ浮かんでいる。
レイルウェイの使用人が体用の石鹸を取り出す中、サングマ家の使用人は小袋を取り出し広げた。
「ミリク様、どうぞ」
レイルウェイが小首を傾げると、突然足下に違和感を感じた。
温かい。
発熱の魔法陣とは違う、お湯そのものが均等に温かくなっている。
下を見て、今度は声を上げて驚いた。
「うわっ、なんだこれ?!」
泡が凄まじい勢いで浴槽の中央のただ一点に集まっていく。
にも関わらず、全くそんなお湯の流れなど感じない。
押し潰し押し固まり、それは硬質な球状の一粒になって水面から離れると、使用人が拡げていた小袋に収められた。
お湯はすっかり綺麗になり、ついでに変えたてのような温かさになっていた。
「あっ、今のまほうなのか!」
レイルウェイが目を見開いてテンションを上げていく。
続いて、サングマ家の使用人が懐からとろみのある液体が入ったガラス瓶を取り出す。
その蓋を開けると、その中身がするりとティースプーン一杯分ほど宙に浮かんだ。
いつの間にか湯もカップ一杯分ほどが、球を成して浮いている。
そのまま二つの球が融合したかと思うと急激に変形し、ミリクの周りに羽衣のように薄く広がり漂う。
レイルウェイがそぉっときらめく羽衣に触れようとすると、不意にそれは膨らんだ。
「わっ!」
びっくりしてレイルウェイが手を引っ込めると同時に、ミリクの羽衣はふわふわの泡のマフラーに変化していた。
「すげー!!」
その鮮やかな衣装の早着替え(?)にレイルウェイは大興奮。
レイルウェイの使用人は、石鹸を持ったまま固まっている。
「さ、さわってもいいか?」
「いいよー」
今度は許可を求めたレイルウェイにミリクは許しを出すと、そのまま──レイルウェイに抱き着いた。
「ぴょァあっ?!?」
「えへへー」
今までの人生で上げたことのない種類の奇声を喉から発したレイルウェイは、ミリクに抱きつかれたまま全身を強張らせた。
身体の色んな所が触れ合っている。
そんなことはお構いなしに、泡のマフラーは縦横無尽にミリクの肌からレイルウェイの肌へと延びて拡がり、緩く密着する二人の身体の隙間にもニュルニュルと這い回る。
体感したことのない気持ち良さと恥ずかしさと興奮が頭と心で綯い交ぜになって、レイルウェイの顔は真っ赤に紅潮していた。
そんなアワアワハグハグタイムだが、三十秒ほどで終わった。
慣れ始めたレイルウェイがミリクを抱き返した矢先、泡が幻のように消え去ったからだ。
すると当然間には何もなく、何にも阻まれることなく、直に二人の身体が、肌と肌が、ぴたりと密着する。
「ふぇあァッ?!?!」
再び奇声が響くが、ミリクはするりとガチガチのハグから抜け出すと、そのまま浴槽から出た。
サングマ家の使用人が、いつの間にか手慣れた様子で構えていた柔らかなタオルで、その全身の水気を拭っていく。と言ってもミリクの肌には殆ど余計な水分は残っていないので軽くあてがうだけだ。
それはレイルウェイも同じで、足以外その身体は既に殆ど濡れていなかった。
ミリクが予備のタオルを持って全裸のまま、石鹸片手に立ち尽くしていたレイルウェイの使用人──を自称してきた女性──に駆け寄り、タオルを渡す。
同時に、その耳元でミリクが囁く。
「とけかけてますよ」
声をかけながら、しかしミリクは動きを一切中断することなく、そのままサングマ家の使用人の元へと、とてとて歩いていった。
レイルウェイを伴ってサングマの王都別邸にやってきたその女性は、胸元の──それは使用人にはありえない絢爛さだが、それでいて人の意識には上ってこない。認識阻害と知覚欺瞞の魔法が付与されている──ブローチに素早く魔力を補充する。
彼女は──██ではない。今は違う──ただの使用人だ。
レイルウェイは、使用人に身体を拭かれた後、ミリクと二人揃って寝間着に着替えさせられた。