試験と入学 その6
「みりくとん・ぼーぷ・さんぐま、きょーじゅです。よろしくおねがいします」
初等部の教壇の上で、ぺこりと頭を下げるミリク。
ぱちぱちと拍手したり、じーっと眺めたり、飽きて外を見ていたり、子供達の反応はそれほど派手ではない。
初等部の一年といっても、年齢はまちまちだ。
六歳ぐらいの幼子もいれば、十三歳ほどの少年もいる。平均としては十歳程度といったところである。
しかし入学したての彼らが、教授という地位がどれぐらいありえないものなのかは理解できないことに変わりはなかった。コネなのかなとか考える擦れたものが少しいる程度だ。
他校ならまだしも、コネや家系だけで教授を務められるほど、ここの水準は易しくはない。
一方で一年生担当の一般教諭の女性は、理事長から五歳で教授に至るほどの常軌を逸した天才と聞いて、凄まじい横柄さや狂気を孕んでいないかと肝を冷やしていたが、ミリクのごく普通でむしろ礼儀正しいくらいの可愛らしい挨拶に拍子抜けしていた。
少々思考が停止したものの直ぐ様頭脳を再起動した彼女は、ざわつく生徒を手拍子で静かにさせ、授業を再開する。
「さて、それでは算法です。まずは数というものについて、考えてみましょう」
初等部から中等部は魔法云々以上に、魔法を正しく扱うための文章の読み書きや計算能力、体力や魔力そのものの鍛錬が占める割合が多い。
まだ義務教育という概念のないこの世界で、教会以外に平民にも開かれた高等教育機関があるというだけでも、キャッスルトン王国は他国よりかなり進んでいる。
だがつまるところミリクにはそれほど意味がある内容ではない。
しかしそれでもミリクは観測していた。
ただただ平凡で、けれど才能があると認められた子供達の、平和な授業風景を。
自由な意思を。
「そして私たちは、“失くすこと”と“何も無いこと”も、数にすることができました。これはとても凄いことです」
黒板に白墨で図示される数直線。『0』『-1』が書き足され、反対に延びていく。
「けれど、こうして並べてみると困ることがあると気付きます。例えば、パンひとつに対してその半分を表そうとすると……ここですね? でもここに数はありません。ですが半分というものは確かに有るのです。さあ、どうしますか?」
生徒たちは唸る。正解を知る者は始めから二年生に編入しているので、この場に即答できる生徒はいない。
それでも考える時間が与えられる。答えを知ることではなく、答えを導き出すこと。真理はただ他者から与えられるのではなく、求めようと自ら足掻いた者が至れる頂にある。
そう叩き込むことが、初等部の真髄。
だからミリクは、その様子を天上から俯瞰する。
「こうして小数や分数が生み出されました。これでこの直線は全て埋まった……のなら良いのですが、そうではありません。実はむしろまだスカスカなのです。そのヒントは、以外かもしれませんが小数にあります。しかし残念ですが、一旦私たちはこの旅を諦めなければいけません」
一部のノリ始めた生徒が、えーっと声を上げる。
それを嬉しそうに受け止めた教師は、さらに言葉を続けた。
「私たちの目的は直線を埋めるだけではなく、計算しなければならないからです。つまり足したり掛けたりということです。引いたり割ったりもするでしょう」
別の生徒達、特に年齢が上の生徒が露骨に嫌な顔をする。計算に苦手意識を持っているのだろう。
「ではこの旅が無駄だったかというと、そうではありません。みなさんはもう“引くこと”と“割ること”を知ることができました」
ミリクは、一般にそうではないとは口にしない。
乗法と呼ぶことができる二項演算は、ある集合の要素二つから何かしらを返す写像でしかない。
これには交換則や零元、逆元の存在など様々な要素が保証されている必要がない。
A×BとB×Aが、AやB自体と同じ集合の要素であるとは限らないし、両者が等しいとも限らない。
集合と演算の定義そのものが、自明に思えるあらゆる部分を都合良く定められて、初めてよく知る計算が成り立つ。
だがそんなことはどうでも良いし、ミリクはタルザムに訊かれなければ答えることはない。
正規の所持者を得た『賢者の本棚』は、新たな利用者を求めて己の有用性を喧伝する必要がない。
そう作られているミリクは、授業をただ黙って眺めているだけだった。
「計算は重要です。理解していなければ欺かれることもあるでしょう。なにより、正しい魔法は正しい計算の下にあります。そのためにも、自分の力で答えにたどり着けるようになりましょう」
ベルの音が響き、授業の終わりと昼休憩の始まりを告げる。
すると何人かの生徒がぞろぞろとミリクに近づいてきた。
その中でも二人の子供がミリクの前に出る。残りは彼らの取り巻きらしい。
「なあなあ、きょうじゅってことはさ! 父さまみたいなすげえ魔法つかえんのか?」
「すげえまほう」
この教室で最年少で最もミリクに近い歳の、六歳の少年が赤い髪と琥珀色の瞳を輝かせて尋ねてくる。
だがミリクには彼の言う“すげえまほう”という言葉の意味を適切に解釈できず、音声をそのままおうむ返しした。
「ちょっとレリー、失礼だよ。相手は教授なんだから。あ、ぼくはシンジェル。サングマの分家ってあの辺境伯領の伯爵家ですよね」
そこに、紺のリボンで後ろに纏めた美しい金髪揺らす、七歳の少年が割り込んでくる。明るい青の瞳から知性を感じさせる彼には、きちんと名乗るだけの分別があったようだ。
「だったら侯爵なうちの方が上だからいいじゃんジル。だいたいここは父さまのがっこうなんだぞ!」
「ならぼくは公爵家なんだからちょっと黙っててよ」
するとレリーと呼ばれた少年は不満げに頬を膨らませ癇癪を起こす。
シンジェルも宥めるようでいて、親の威光には親の威光だと言わんばかりに同じもので殴り返す。所詮は子供の知性である。
そのままやんやと口論から微妙に喧嘩のような状態になるが、二人の家格は実際このクラスでもかなり高い。
片や公爵家。片や侯爵家。
他の生徒はなるべく巻き添えを食らわないよう、そそくさと距離を開けていく。
「レイルウェイ・フォープ・ティンダーリア、シンジェル・ボープ・キーナ・キャッスルトン」
ミリクが流暢に二人のフルネームを口にする。まるで「よく知っています。そしてそれはとてもどうでも良いです」というような平坦な声だ。
二人は動きを止めてミリクの方を向いた。
「え、あっ、ひふれい。おほんひれひはは」
「やんあ、ひっふぇはおあ」
彼らはお互いの口や頬を摘まんで引っ張ったままだ。
「おれ、おなかすいたから、しょくどーでおべんとーたべます」
ミリクはそれだけ言うと、二人を放置して足早に食堂へと向かった。風のように人の隙間をすいすいすり抜けていく。
「……あ! 待てよー!」
「……ちょっと待ってぼくも行きますからー!」
シンジェルとレイルウェイはミリクの跡を追って教室から駆け出した。
クルセオン君が言っていた弟や、新キャラが登場。
彼らは一体どんな乗法になるのでしょうか。
次回はお昼御飯に魔法の授業に教授会です。