黒の奔走 その1
漂う古びたインクの匂い。
部屋というには本来広いはずのその空間は、しかし大半が幾多の“壁”によって薄切りにされ、風の通りが考慮されていなければ息苦しさを感じる事だろう。
そして“壁”のように存在するそれは、壁ではなかった。
棚だ。
長年使い込まれたことで艶やかな黄金色を湛えた、天井まで伸びるチーク材の本棚。
その中を埋め尽くす、夥しい数の製本された書物。
それらの背表紙にはナンバリングが違うだけのまったく同じ題目が正確に刻まれ、整然と並んでいる。
『聖遺物目録』
魔道具によって清浄かつ冷涼な空気が常に穏やかに流れ続けるよう管理されたここは、キャッスルトン王国内の小国、ミッションヒル教国にある教会本部付属大図書館の一区画。
そこには他の区画同様、外部持ち出しを極力減らすために設けられた小部屋がある。
その扉が開かれ、入ってきた二人の男性が、積まれた本の山を処理し続ける女性のもとに近づく。
音を置き去りにしているような静かさで、しかし目まぐるしく動く女性の手は、背後に迫る男性に気づいてなお一切動きを停滞させることなく、顔を上げないままに口を開いた。
「猊下、それに……ああ、お久しぶりですバダンタム座下……いえ、もう“猊下”であらせられましたね。大変失礼致しました」
「あははは……こんなのですけど、ウチの子の中ではかなり優秀な子だったと思うのですが、こちらでの具合は如何でしょうか?」
二十歳手前ほどのその女性は、入室してきた男の一人、大司教から枢機卿に叙階されてもまるで雰囲気の変わらぬ若き恩人へ淡々と口では謝罪しつつも、その腕と眼球は作業を中断する気配がまったくない。
本を傷めないぎりぎりの速度でページは次々めくられ、依頼にあった条件に当てはまる遺物の情報が一字一句違わず速記で書き写されていく。
捉えようによっては不敬とも取れるその女性の態度に苦笑いする青年は、枢機卿に成りたてほやほやの『青』のバダンタム。
その実年齢は二十歳を越えた程度という異例の若さであり、青年と言って差し支えないはずなのだが、その見た目は相変わらず田舎の垢抜けない少年。卸したての上質な青の聖職平服を纏っているが、どう見ても背伸びした子供が父親の服をこっそり着ているようだった。
彼が王都の市民街にある市場へ買い物に行けば(そもそも枢機卿がそんなことをするのがまず大概おかしいが)、だいたい温かい目でおまけを付けてもらえる程度には見た目や立ち振る舞いが追いついていない。
そして相変わらず作業の手を緩めすらない女性は、言わばかつての“おんぼろ教会”時代の孤児、彼の妹分の一人だ。
同時に、バダンタムが第一王子夫妻との出会いを経て大司教になった際に教育の強化と己の無学を何とかする為に設けた“聖ラプサム教会学校”にて共に学んだ“一期生”の一人でもある。
そう、──大司教と同等の教育を叩き込まれながら孤児であるためにほぼ後ろ盾を持たず、その優秀さと手軽さから各地の対立勢力に引き抜かれた者達だ。
使い潰すことでバダンタムを孤立させつつ甘い蜜を啜ろうとしていた彼らの不正を告発し次々と逆に失脚させ、入れ替わるように成り上がっていった。
そうしてわずか五年余りで、他の枢機卿の人脈とも遜色ない“バダンタム派”を築き上げた、今や全員が司教以上の立場や権限を持つ──あの“一期生”だ。
「優秀だとも、バダンタム卿。そうでなければ、わざわざ私達の方から足を運んだりはしない」
「それは良かったです。セリンボン卿」
鷹揚とした様子で緩やかな笑みを見せる壮年男性は、黒を基調とした聖職平服を纏った中堅枢機卿、『黒』のセリンボン。
その様子にバダンタムはほっと胸を撫で下ろし朗らかに微笑みを返す。
「あの“一期生”を三名、私の直属に引き入れられたのは本当に良かった。信頼性の求められる仕事を安心して振ることができる上、私の手元まで上がってくる問題の量が四割は減った。何より無駄な人材が浮き彫りになるのと、比較を怖れより真摯に職務に励む者が増えた点が素晴らしいな」
後ろ暗い所のない者からすれば、ある種悪名高いとも言える“一期生”も極めて優秀な人材に過ぎない。あまりに優秀過ぎて変な薬とか使ってないかと確認したが、自家製の花草茶レベルの物だった。
そして何故か“優秀さ”についての話題になると、“一期生”達は口を揃えて、
〈ナグリの方が凄い。どうかしている〉
〈バダ兄に付き添い続けるなんて神経が鋼でも足りない。魔銀かなんかですよ〉
〈私や他の人間じゃフォローし切れないから、もうナグリがバダ兄さんと結婚した方が良いと思う〉
などとナグリ大司教の話になる。
彼もまた“一期生”であり、その中で最年少にして言わば主席のような成績だった。
ちなみにバダンタムは真ん中少し下ぐらいである。ナグリに付き添われヒンヒン泣き言をこぼしながら補習を受けた。
閑話休題。
自身の倍以上の先輩に同輩を褒められたバダンタムは、にへらっと照れ臭そうに笑みをこぼす。
一方で『聖遺物目録』の内容を複写する女性の手は未だ止まる気配もなければ、こちらに目を向けすらしない。
依頼で指定された条件が緩すぎて、書き出さなければならない遺物の数がとにかく多い。
しかし今回の依頼はそれなりの権威があるところから来たもの。加えて相応以上の献金もあったため、無碍にすれば遺物の管理を担っている組織としての信用に関わる。勿論手を抜くつもりなど彼女には最初から無く、あるのは他の作業との優先度とスケジュールの調整だ。
彼女は一日中この作業だけに拘っていていいわけではない。
「ところで、猊下自らがこちらにいらっしゃるというのは何か緊急の重大懸案でございましょうか?」
「察しが良くて助かる。とはいえそれほどの大事ではないのだが」
そしてセリンボンもまた当然ながら、こんなところで部下と長々談笑していられるほど暇ではない。彼女の問いに軽く首肯すると、連絡内容を簡潔に伝える。
「先日の『使徒の牧杖』の件を聖下に奏上したが、「調査は不要」とのお言葉を賜った」
『使徒の牧杖』――それは、聖書における『神の使徒』が持っていたとされる杖だ。
教会公認の聖遺物の中でも最古にして最上位のものの一つであり、ここミッションヒル教国の大聖堂地下保管庫にて厳重に保管されている。
一般市民はおろか王族にすら公開されることのない秘蔵の代物だが、当然定期的に異常がないか確認する者がいる。
それが遺物管理を司る『黒』の枢機卿セリンボンとその麾下にある聖職者達であり、目の前の彼女もまたその一人だ。
そして数日前、『使徒の牧杖』が普段と様子が違うことに気付きセリンボンへ報告を上げたのが、まさに彼女であった。
その報告した上司からの信じ難い言葉に、彼女はとても枢機卿相手にして良いとは言えない怪訝な表情をする。顔を上げず目録の文字上に瞳を走らせ続けている時点で、良いも悪いも無いかもしれないが。
ともかく彼女は思わず確認するように言葉を漏らした。
「……教皇聖下が、そう仰られたのですか?」
一聖職者風情が、枢機卿の、まして教皇の言伝について猜疑心を示すなど、下手をすれば異端審問にかけられ破門にされてもおかしくない。
しかしセリンボンは彼女の発言を咎めなかった。
「疑うと思ったからこそ、私自ら足を運んで今伝えている。さすがに聖下のお言葉を直接というのは無理があるだろう。事実上の最短経路だ」
それは神への深い信仰ゆえの当然の疑念だと認める肯定であり、自分も誰かを介していれば何者かに握り潰されているのではと疑うという同意。
そして、教皇の口から直接その言葉を聞いたからこそ、理解し難くとも受け入れたという吐露であった。
それでも彼が疑わないのは、凡庸な自分如きに至高なる聖下の深淵なる考えを真に理解できた試しなど今までどれ程あったろうかと自問自答すれば、その答えは自明だからだ。
枢機の位に登りつめなお、信心の在り方を問われ続けている上司の想いを汲み取り、彼女は歪んだ表情を正し返答する。
「……承知いたしました。指示を出し直しておきましょう」
何一つ分からないやり取りに、バダンタムの頭上には疑問符がぷかぷかと浮かんでいた。