前編第14章 「喪った物と、得た物と」
「確かに、取り返しは今更つきませんね…登美江さんが来られる前の日々は、私にとっては辛い思い出でした…両親に対する蟠りが1片もないと言えば、嘘になりますね…」
ポツリとこぼれた英里奈ちゃんの呟きは、抑揚に乏しくて、何とも寂しげな響きを帯びていた。
沈黙が暫し、私達のテーブルを支配する。
軽く目を伏せた英里奈ちゃんの細い首が左右に軽く揺れ、ヘッドドレスを着けた長い茶髪が、ワンテンポ遅れてユサユサと揺れ動く。
何かを振り払おうとしているようだね、首を振るその仕草。
「しかし…今の私は、両親を恨んでおりませんよ。あれはあくまでも幼少時の躾であって、悪意あっての仕打ちではない。それが分からない程、私も大人気なくはありませんからね。」
英里奈ちゃんの双眼が、再び開かれた時。
その緑色の瞳には一切の淀みもなく、憑き物が落ちたような爽やかな笑みが、幼いながらも上品な美貌に浮かんでいた。
「英里奈御嬢様…」
振り払ったのは、苦い思い出にまつわる暗い思考。
登美江さんも、その事に思い至ったみたいだね。
「この第2支局に足を踏み入れ、准尉の階級を賜った日から早くも4年。その、准尉から少佐に昇格するまでの4年間に、私はかけがえのない多くの物を得て来ました。人類と人類文明という、守るべき物。正義と使命感という大義。そして、同じ大義を共有し合い、互いに背中を預けられる戦友達。」
ここで言葉を切った英里奈ちゃんは、さっと視線を上げ、「メイドカフェ ビクトリア」にあてがわれた研修用教室をぐるりと一望した。
正確には、研修用教室を闊歩するにわか仕込みのメイド達をね。
今でこそ、紺や黒のメイド服に身を包んでオーダー取りをしているけど、彼女達は全員、堺県第2支局に所属する特命教導隊員や特命機動隊曹士、そして特命遊撃士。
言うなれば、英里奈ちゃんと同じ「防人の乙女」なんだよ。
時に傷付き、時に膝をつきながらも、互いに背中を預けて励まし合い、力を合わせて管轄地域の平和を乱す悪の暴力を退けてきた。
英里奈ちゃんにとっては、誰1人欠かす事も出来なければ、忘却する事も出来ない、大切な戦友達なんだよ。
当然、私やマリナちゃんと京花ちゃんにとってもね。
「中でも、千里さん達には本当に感謝しています。皆さんがいらっしゃらなければ、果たして私は、今日まで特命遊撃士を続けて来られたかどうか…」
やがて英里奈ちゃんの視線は、テーブルに同席する私達へと戻ってきた。
マリナちゃん。
京花ちゃん。
そして、私。
緑色の瞳が、私達3人の顔を順番に一瞥する。
「そんなに改まった顔をするなよ、英里。落ち着かないじゃないか…」
照れ隠しのつもりか、いささか非難めいた趣で呟くマリナちゃん。
「駄目だよ、マリナちゃん!せっかく英里奈ちゃんが、良い事を言おうとしているのに!」
フォローのつもりでマリナちゃんを窘めたのは分かるよ。
だけど、それはかえって、英里奈ちゃんのハードルが上がる結果になっていやしないかな、京花ちゃん?
「御気遣い有り難う御座います、京花さん。しかし、マリナさんとて悪気があっての事ではないのですから、突っ込みはもう少し御手柔らかに。」
今の英里奈ちゃんが見せた、落ち着きのある上品な微笑は、登美江さんを彷彿とさせるね。
この分だと、英里奈ちゃんの心に、大した波風は立っていなさそうだよ。
サイドテールコンビの不注意で、出鼻を挫かれなくて良かったね。
「いずれにせよ今日の私は、第2支局配属の特命遊撃士として、充実した日々を送っています。この充実した日々によって、幼少時の苦い思い出を中和し、いつか『些細な事』と笑い飛ばせる時が来ればと願って止みません。」
私が養成コースで英里奈ちゃんと知り合ったのは、小学6年生の1学期の事だけど、あの頃の英里奈ちゃんだったら絶対に言えないよ、こんな自信に満ちた台詞。
思わず、襟と姿勢を正しちゃったよ。
「すぐに来るよ、英里…その時はね。」
「案外、もう来ちゃってたりしてね!」
涼しげな微笑を浮かべるマリナちゃんに、京花ちゃんが明るい声で応じる。
混ぜっ返しそうになった先程の言動を、何とかうやむやにしようと試みているようにも見えるB組のサイドテールコンビだけど、ここはそっとしておいてあげるのが優しさだよね。
「素晴らしい御友人方に恵まれましたね、英里奈御嬢様。」
登美江さんの問い掛けに、小さく頷く英里奈ちゃん。
さっきのマリナちゃんじゃないけれど、改まって言われたら少し照れ臭いね。
だけど、決して悪い気はしないよ。
「もちろん登美江さんも、私にとっては大切な人ですよ。特命遊撃士養成コース編入となるまでの間、私を庇護して下さった登美江さんへの感謝は、私の拙い言葉では、とても表現しきれません…」
「何をおっしゃいますか、英里奈御嬢様…」
登美江さんの後を受けるつもりじゃないけれど、「拙い言葉」という割には、結構饒舌に喋っていると思うよ、英里奈ちゃん。
「これからもよろしくお願いいたしますよ。千里さん、マリナさん、京花さん。そして、登美江さん。」
テーブルに同席した私達4人の顔を今再び見渡した英里奈ちゃんは、ここで言葉を切り、スパークリングワインで満たされたグラスを無言で掲げたんだ。
小さく黙礼した登美江さんが、沈黙を保ちながら、そっとグラスを手にする。
私達3人も、自然と登美江さんの動作に倣ったね。
グラスを掲げたまま、沈黙を保つ私達5人。
誰が掛け声を言うとなく、傾けたグラスへ一斉に口をつけると、同じペースを保ちながら静かに飲み干したんだ。
同席する2人がタイミングを合わせて杯を交わすという、「2人杯」と呼ばれる風習が、昔の武士階級にはあったみたいなんだけど、この場合は「5人杯」とでも言うのかな。
「いやはや!英里奈御嬢様とその御友人方と杯を交わす機会を賜りまして、この登美江、全くもって光栄の至りですよ!」
いの一番に沈黙を破ったのは、満面の笑みを浮かべた登美江さんだった。
英里奈ちゃんの保護者という側面もある登美江さんにしてみれば、支局における英里奈ちゃんの円満な人間関係を確認出来て、一安心だろうね。
「何しろ、つつじ祭は明日も明後日もあるからね。力を合わせて乗り切ろうね、英里奈ちゃん!」
こうして差し出した右手を、英里奈ちゃんは力強く握ってくれたんだ。
象牙のように白くて繊細に整い、一見すると折れてしまいそうな程に華奢に見えるけど、その実、しなやかな力強さを秘めた、英里奈ちゃんの手。
これこそ、防人の乙女の手の、理想形の1つかも知れないね。
「勿論ですよ、千里さん!御2方も御力添え願います、マリナさんに京花さん!」
「水臭い事は言いっこなしだよ、英里!当然じゃないか!」
「私の力で良ければ幾らでも貸してあげるよ、英里奈ちゃん!」
英里奈ちゃんに水を向けられたサイドテールコンビが、声の主に笑いかける。
爽やかに、そして朗らかに。
その様子を、英里奈ちゃんの姉代わりも務める年若いメイドさんは、満足そうな微笑を浮かべながら、静かに見つめている。
こうして第25回つつじ祭の初日のスケッチは、「青春」と「友情」という名の2色で鮮やかに彩られて、私達の心のアルバムの1ページに加わったんだ。
これで第2話前編こと、つつじ祭1日目のエピソードは完結です。
予告編を挟んで、元化25年5月4日、第25回つつじ祭2日目の出来事を描いた、第2話後編が始まります。




