情熱
意外なことに沙織さんは一人暮らしだった。お父さんは東京に本社がある商社マンだったが仙台支店に勤務中にひとり娘が東北大学に入学をしたことをきっかけとして、家を建てて永住することにしたのだそうである。しかし、あいにくなことに新居ができてまもなくニューヨークに転勤となった。
(母も一緒に行ってしまったの。車買ってあげるからひとりで居てねって)
(一色さんは兄弟は?)
(ひとりよ。東午さん、一色さんはいやだわ)
(どうしてですか)
(あまり好きでないの。付属品一式みたいでしょう)
私は笑った。
(沙織と呼んで。図書館で小説を読んでたでしょう?)
知ってたんだ。
(水滸伝です。読み出したら止められなくて。すごく面白いです)
(そう。私も読んでみるわ)
沙織さんはその後、ほんとうに水滸伝を読んだ。
「それなのに、その年もインフルエンザ」
ドクはそういって笑った。
「そうなんだ。親父が気の毒がって東京に出してくれた。とにかく沙織さんの後輩になれなかったのが辛かった」
「母にそういった?」
「辛いってかい? いわなかった」
「どうして?」
「そんな、自分のミスなんだから」
「それとこれとはちがうでしょう」
「ちがわないよ。それに、そういえば愛情の告白ということになってしまう」
「あら、母を愛してなかったの」
「愛してなんて、まだ二十歳前だよ。ドク。時代がちがうんだ。学生はみんな、外国人が警察官と間違えるという黒い学生服を着ていたし、うちの高校なんか半分は下駄履きで来るんだ。いつもいうようだがね。人は時代の子だよ。ぼくなどはただちょっと勉強ができるだけの田舎の少年にすぎなかった」
ドクは真っ直ぐに私を見ていたが、ふうん、とうなずいた。
「それに沙織さんも、東京にいつ行くのかなど聞かなかったし、手紙をくれというようなこともいわなかった」
「もし母がそういっていれば状況は変わったかもしれない。そういうこと?」
「そうでなかったのだから、それはなんともいえないな」
「そこを敢えて」
「敢えてかい・・・」
「そう。だって大事なところだもの」
「・・・どうだったろう。わからないな。でもね。ぼくにとって沙織さんは特別の人でも、沙織さんにとってのぼくはそうじゃない。沙織さんの周囲には信奉者が大勢いたはずなんだ。田舎の少年とはいっても、ぼくはそれがわからないほどの馬鹿でも自惚れ屋でもなかった」
「情熱家でもなかった。ん?」
「・・・そんなことはないよ・・・」
「でも、すでに母にとって南東午はもう特別の人だった。一人暮らしの時期に家に招かれた男性はおじ様、ただひとりのはずよ」
「でもね、ドク。そうと知ったのは随分後になってからなんだ」