向日葵
「バスの中での微笑みの謎は聞いてみた?」
「聞かなかった。ずっと聞いてないよ」
「どうして?」
「聞く必要がなかったよ」
ドクはパチンと手をたたいた。
「素晴らしい。羨ましいわ」
(東午さんは、今はどこに住んでいるの)
(前と同じ家に置いて貰っています。坂のおり口です)
(だったら今度の日曜日、遊びに来ない? 近いはずよ)
沙織さんは、私がどう返事をするものかと迷っているうちに、なにかの紙にさらさらと地図を書いてくれた。
(うまいですね)
(地図が? そう?)
(ぼく、人の書いた地図を見ると、その人の頭の程度がだいたいわかるんです)
ひどい生意気なことをいった。
(それじゃ、私はどう)
(すごくいいです)
沙織さんは笑った。なんてうまく笑う人なんだろうと思った。照れるでもなく皮肉っぽくでもなく、そのまま、はっと笑う。女の人はそういうときに必ず口を手で隠すものと思っていたが、沙織さんはそうしなかった。おかげで雑誌の表紙モデルにみるような完璧な歯並びをしていることを発見した。
(よかったわ)
(でも、ほんとうは地図は要らなかったんです)
(あら、どうして)
(送信所の脇の一色さんなら、家、知ってました。送信所に先輩がいて見学に行ったことがあるんです。その先輩があの平屋の家にすごい美人の大学生がいるぞ、といったものですから、裏から出て門のところでちょっと覗いてみたんです。誰の姿も見えませんでしたが表札だけはしっかり見ておきました)
(まあ、油断がならないのねえ)
沙織さんは今度は少し体を折って笑った。私の生涯の幸せの始まりだった。
次の日曜日、身だしなみを整えて沙織さんの家を訪れた。昂揚はしていたがためらいいはなかった。沙織さんが”今度の日曜日、午前十時ころでどう?”と、きちんといってくれたからである。
そこに生涯変わらなかった沙織さんの誠実があった。そのうちになどでは、いくら地図をもらってもなかなか行けない。沙織さんからもらった数え切れない学びの始まりだった。
向日葵だ。
沙織さんは体にぴったりとした黒いシャツにタイツ、それに目に染みるような黄色のスカートをつけていた。ほっそりした首筋、形のいいバスト、くびれたウエスト、日本人には珍しい真っ直ぐに伸びた脚。そのような全身を目にしたはずなのだが、残念なことに、それを正確に描写できる記憶はない。ドアが開くと向日葵がそこに咲いていた。それだけが今も鮮やかである。
「バレーの稽古着ね。母のお気に入りだったみたいで、私が6才くらいまでは家ではよく着ていたわ」
「入ってから教えてくれた」
「おじ様。私、どう?」
「どうって?」
「私のバスト」
ドクは立ち上がると、コートの前を広げ腰に手を当ててみせた。スリムな体型に関わらず、淡いピンク色のニットの胸がツンと突き出ている。
「エクサレント」
「ふんふん。今ならわかるんだ」
ドクはひとつの実験が終わったというようにうなずいた。