鉛筆ころころ
「その記憶は、今でもほんとうに鮮やかなんだ。二十歳の沙織さんが目に浮かぶよ」
「性欲のお皿に乗ってなかったから?」
「オクテだったしね」
「オクテ? おじ様が?」
「そうだよ。子どもがどうして生まれるかをはっきりと知ったのは、高校二年の時だったから」
「ウッソー」
「生理的な発育が人より遅れていたからかもしれないな。背丈だって、高校を卒業してからでも六センチ伸びたんだ」
「あらま」
ドクもさすがに驚いたようだった。
「それまでガールフレンドは?」
「とんでもハップン」
ドクは急いでカップを置くと体を揺すって笑った。私の時代物のジョークが余程おかしかったようである。
その後、朝夕の通学バスの中でそれとなく沙織さんの姿を求めたのだが、二度と見ることはできなかった。同じバスを利用している人であれば三年の間には何度か出会っていて、あれほどきれいな人なら記憶に残っているはずだった。いかにオクテであってもである。八木山に住んでいる人じゃないんだ。そう思わざるをえなかった。しかし私は大学受験というそれまでの人生での最大の難事業を控えていたこともあって、いつしかその人のことを思い出すこともなくなっていた。
「ところが、鉛筆ころころね」
「聞いたんだね」
「ええ、聞いたわ」
「あのときは運命を感じたな」
私は運命という言葉を使ったことを少し悔いた。ドクに不用意なカードを渡しては危うい。そう思ってカップを口に運びながら上目遣いでドクの顔をみたが、気に留めたようには見えなかった。
「コーヒー、お代わりするわ。ハイオクのカフェインを流し込まなくちゃ」
「ぼくにも頼んでいいかな」
負けてはいられない。
その年の五月のことである。心地よい春の風が街路樹の柔らかい枝を揺らす。どこでもそうだろうが、仙台でも最も好まれる季節である。私は県庁近くの図書館に毎日足を運んでいた。通っていた予備校がその近くにあったこともあり、勉強にはもってこいの環境だったからである。
その日も私は読書室の大机で一心不乱に、但し小説を読みふけっていた。ふと手にした本が面白くてたまらなかった。
そのとき鉛筆が向かいから転がってきた。ドクがいったようにコロコロとである。手からそれたにしてはずいぶん勢いよく転がってきたものだと思い、掴んで視線をあげると、そこに沙織さんが居た。
あ。
私が掛けたときにはそこには誰もいなかった。沙織さんがあとから掛け、向かいの私を見つけたのにちがいない。沙織さんはやっぱり微笑んでいたが少し悪戯っぽい笑みも混じっていた。
私ははっとして反射的に視線を本にもどしてしまった。顔が真っ赤になったと思う。しかし手に鉛筆があったから、それをどうにかしなければならない。再びころころと抛って返すのは距離もあり静謐を破るのにためらいもある。そのことが都合のいい口実として働き、私は息を詰めつつも首を上げることができた。
バスの中のときは真冬だったが、もう初夏も近い。沙織さんは室内だからではあるがコートを着てないしマフラーも巻いてなかった。白いブラウスの上に濃い色のカーディガンを羽織っていた。私は鉛筆を持ったままぼおっとしていた。
「ぼおっと?」
「もう、すっかりのぼせていた」
「必殺の微笑みね。さすがに沙織さん」
「ドクが微笑んだら男はみんなもっとのぼせるさ」
「みんなじゃ意味がない。この男をでなくちゃ」
「そういうものか」
「そう」
周囲の椅子はいつのまにか埋まっており、みんなが顔を上げて、沙織さんと私を見ている。どうしよう。
「そしたら沙織さんがこうしたんだ」
私は右手の人差し指でQを描いて見せた。
「こう?」
ドクがそれを真似した。私はいきなり頭を殴られたように感じた。
「母子って仕方がないわね」
ドクはカップを揺すりながらそっけなくそういって、底なしの感傷に落ちかけた私をあっさりと掬い上げてくれた。
沙織さんの指が意味するところは私にもわかった。玄関の脇に小さな喫茶室があったからである。沙織さんはこくりと笑うと椅子から立った。私は手に鉛筆を持ち、急いで沙織さんの後を追った。私は揺れるスカートの下で、すいすい前に運ぶ白いカカトを見ながらついていった。