ほほえみ
「よく思い出せないというのには理由があるんだ」
「ほお・・・聞かせて」
「もう十年ほど前だったら、そうじゃなかったと思う」
「この十年でボケたなんていうのじゃないわよね。駄目よ」
「そうじゃない。性欲だよ。そいつが、いつのまにか断りもなくどこかに消えてしまったんだ」
丸いテーブルの向かいで、ドクは、ん? というように少し顎を突き出した。
「もう勃起しないんだ」
私としては精一杯の際どい言葉を繰り出して先手を打ったつもりだった。しかし、ドクは蛙が雨粒を受けたほどにも応えず、むしろ真剣な医学者の表情になった。
「勃起しないことと、思い出せないということに、どういう関係があるのかしら」
「男と女を語るときにセックスはどうあっても外せない。だろう?」
「アグリー」
「思い出せないといっても、お母さんといつどこで出会って、どんな話をしたか。そういうことは結構覚えているんだ」
ドクはカップから口を離し、小さくうなずいた。
「でも、君が聞きたいことは、結局お母さんの性的魅力はどうだったのか、というあたりに来るのだろう?」
「ライト」
Rの音を巻き舌にしていった。
「とても魅力的だった。今のドクにも負けないほどにね。しかし、それなんだがね。性的魅力は感じていたはずだ、とひとごとみたいにしか今はもういえないんだ」
「なぜ?」
「思うに、そのあたりの記憶はみんな性欲のお皿の上に乗ってた。そのお皿が記憶も一緒に持ち去ったようなんだ。ドク。これは本当だよ。ただの比喩じゃない」
ドクの顔が変化した。思慮深い梟が猜疑の狐に変わると、すぐに好奇心の狸から悪戯好きの小猿に。
「おじ様。治療してみようか」
ドクは立ち上がると、私の前に来てしゃがみこんだ。治療という言葉を怪しんでいた私はその姿勢に慌てた。
「なんだい、ドク」
「お皿をとりもどしたい?」
ドクは私の両膝に掌を置いた。
「このお皿を使うのよ」
ドクはそういいながら掌で膝のお皿をぐりぐりと回した。
「よしなさいよ。そのお皿じゃくすぐったいだけだ」
「そうでもないのよ。ここをグリグリされたらビュっとイッチャッタというのを、なにかで読んだことがあるわ。タイかカンボジアの娼婦の話だったかな。どう、効かない?」
私はドクの手を払って立ち上がった。
「おかしー。おじ様、焦ってる」
ドクは身をかがめて笑った。
沙織さんに最初に会ったのは私が高校三年のときだった。冬、恐らくは最も寒い時期であった。
その日鳴子から母が出てきた。冬物の衣類や切り餅などを持ってきてくれたのだろう。大学受験を控えた私の様子を見に来たのかもしれない。季節がら悪い風邪が流行っていたから風邪を引き易い息子を案じて、寒くないようにとか、よくうがいをするようにとか、そういうことをいいに来たのだと思う。
帰るというので駅まで送ることにし下宿の前からバスに乗った。バスは空いていて立っている人はほとんどいなかった。時間帯がそうだったのだろう。
「わかってる。何度も」
車中でも同じ事を繰り返す母に私はつっけんどんな返事をした。
その年は風邪の方で避けてくれていたし試験には自信があった。模擬試験ではいつも合格判定が出ていた。母を安心させるために、というよりもその口を閉じさせるために、私もそれまでの答えを口を尖らせて繰り返した。
そのとき、真向かいに座って笑って私を見ている女の人がいるのに気がついた。最初に思ったのは、私の知っている人かということだった。遊びにいったことのある友人の姉とか、母の教え子とかであるが、そのような笑みだったからである。
それが沙織さんだった。
沙織さんは明るい暖かそうなコートを着ており、周囲の誰もがそうであったように襟巻きをしていた。私は反射的に視線をそらした。異性から笑いかけられた経験など皆無だった私としては当然の反応だった。沙織さんはきれいなお姉さんだった。しかも超がふたつ上に付くほどの。しかし、いささか無遠慮なほどのその笑みは奇妙でもあった。私は少し時間を置き、また見た。すると沙織さんはそれを待っていたかのようにまたにっこりと微笑んだ。しかし、
(なんだい失敬な)
とは思わなかった。沙織さんの微笑みは魅力的なだけではなくまことに好意あるものだった。なんど視線を外しても沙織さんの微笑は私を離さなかった。それがどこまで続いたのか。途中から間に人が立ち始め、いつか沙織さんは私からは見えなくなっていた。
終点の仙台駅前でおりたとき、私はさりげなさを装ってその姿を探したのだが沙織さんの姿はもうみえなかった。途中でおりたのにちがいない。
「さっきの向かいの女の人。お前の知っている人なのかい」
母も気がついていたようである。
「知らないよ」
「とっても可愛い上品な人だったねえ。勘三さんのコケシそっくり」
母はそのようなことをいった。勘三さんというのは、鳴子コケシの名匠といわれた人で美人コケシの作風で知られていた。