ドクと竜
「どうして母と結婚しなかったの」
ドクがさらりとそう聞いてきたのは、最初の一口を飲んだときだった。
「そういう古いことを聞かれるとは思わなかったよ」
「嘘よ。覚悟して来たくせに」
私は苦笑した。母親譲りの洞察力である。
ただし沙織さんは滅多に鞘から抜くことはなかったが娘は斟酌なく鞘を払う。
「お母さんには聞いてみなかった?」
「昔、一度聞いたわ」
「どういってた」
「さあ、どうしてかしらねって。あとは例によってとりつくシマもなし」
「そうか。同じだな」
「おじ様も拒否ってこと?」
「そうじゃないんだが・・・もうよく思い出せないんだ」
「おじ様が忘れたなんて私が信じると思う? それとも、その程度のことだったというの」
園内の桜はちょうど満開に到達したところのようである。四月の風が時折り枝を揺らすが花弁が散ることはない。
「その程度なんかじゃないよ」
「だったら思い出すのね」
ドクは身を乗り出してテーブルの上に両肘をつくと、私を正面から見た。明るい鳶色の瞳も母親譲りである。年齢は息子の竜と同年同月の生まれだから二十八才。形のいい掌をしんなりと重ねると、その上に自分の顎を乗せた。
そうかと私は思った。今日は、この数ヶ月、耐えんがために凍結させていた心の何分の一かを溶かしたい。そのためのスペシャル・イッシューなのだ。
「わかった。精一杯思い出してみるよ。正直いうと、覚悟をしてきたんだ」
「ほうらね」
ドクは鼻の脇に小皺を寄せて得意そうに笑った。
「けどね、ドク。セクハラだというクレームはナシだよ。どうしても、そういうところに行かないと話は進まないから」
ドクは、うはははは、と声をたてて笑い、掌をひらひらと振った。
「それはナイナイ。私、医者よ。そして、おじ様の好きな言葉でいえば時代の子。竜のヤツとの会話をおじ様が聞いたら、きっとぶっとんじゃうわ」
「そうかそうか。二十年も前にもうブットンデいたのを忘れていたよ」
一色家と南家が那須に合流して夏休みのひとときを過ごしたときのことである。竜とドクは初対面にも関わらずすぐに仲良くなり、どういういきさつでそうなったのか芝生の上で相撲を取り始めた。ともに発育良好な小学五年生であったから、双方の親は周囲の好奇の視線もあり、少し困惑しながら見ていた。しばらく揉み合っていたが、やがて竜が投げられた。
駄目じゃないか。女の子に負けちゃ。
双方の父親がようやくほっとし、同時に声を掛けた。
(だって、シーのやつ、イロジカケで来るんだもの)
イロジカケ?
四人の大人の目が点になった。
(こいつ、おっぱいを押しつけてくるんだ。やってられないよ)
(バカね。口惜しかったら、レイプでもなんでもしてごらんよ)
ははははは。
ひとり、私の妻麻子だけが声をあげて笑った。
「おははー。今いわれるとさすがにちょっと恥ずかしいな」
志保は中学一年の夏、医者になると宣言した。その半年ほど前に父親が急逝したことと関係があったのだろう。聴診器を買うと家にいるときはそれを首飾りのようにしていた。母親はほどなく愛称を変え、シーちゃんはドクになり、そしてその十数年後、ドクは本当にドクターとなった。