ひとつの牧舎
それは私の六十年の人生で最大の驚きだった。私は興奮と動揺を抑えかね、ベンチから離れて柵に寄った。眼下には新芽がみずみずしい杜の都が広がっていたのだがそれを愛でる余裕はなかった。
「ごめんなさい。ショックよね」
ややあって柔らかい掌がそっと私の背中にあてられた。はっとするほど懐かしいタッチだった。
「いや。もう大丈夫だよ」
私は息を吐きもとのベンチに腰をおろした。
「お父さんは知ってたのだろうか」
「わからない。でも、サイコさんを口説き落とすには、父の同意が必要だったと思う。父も、おじ様が好きだったから、どこのだれかもわからない人の精子をもらうよりはと賛成すると思うし」
「そうか・・・」
ドクは前に立って暫く私をみつめていたが、一歩うしろに下がると、ぺこりとお辞儀をした。髪がばさりと前に流れた。
「ごめんなさい、おじ様」
「・・・?」
「ひとつだけ推測が入っているの」
「え?」
「父が無精子症だったということ」
「なんだ・・・酷いな。肝心なところじゃないか」
私は驚き、流石に憤然としてドクの顔を睨んだ。
しかしドクの真剣な顔は変わらない。私はいいかけた言葉を飲みこんだ。
「でも待って。まるで根拠がないわけではないのよ。私、昔だけど、父と母の古い診察券を見たことがあるの。産婦人科の病院のもので、二枚とも私が生まれる一年ほど前の同じ日付のものだったわ」
「え?・・・しかし、ドク」
「わかってる。だから、この四つはひとつずつなら皆、迷える子羊よ。でも、全部合わせるとちがう。足並みをそろえてひとつの牧舎に向かって歩きだす。そう思わない?」
私は貯めていた息を吐いた。
「ドクがそう思うのなら、ぼくからはもう、どうこうはいえないな」
「それにとってもロマンチックだわ」
「ロマンチック?」
「そう」
ドクはにかっと笑った。
「おじ様の洗浄精液が母の子宮にインジェクトされた時、母はイッたかもヨ」
ふはああ。
私は思わず喉が破れたような声を出してしまった。
「おいおい」
「おい、おい、おい、ドク?」
「そうだよ。お皿どころか脳全部がどこかに行ってしまいそうだ」
「そうなる前に教えてね。標本にするから」
「あげないよ。で、どうする? はっきりさせるかい」
「DNA鑑定のこと?」
「それは君の方が専門だ」
「おじ様は?」
「ドクの心が晴れるようにするといい」
「怒ってる?」
「そんなことはない」
「私、迷ったのよ。いおうかいうまいか。だってひどいじゃない? セックスした覚えがないのに、あなたの娘ですなんていわれたらどう思うだろうかって」
「いやいや、それはいいんだ。もしそうならばだが、さすがに沙織さんだ」
「さすがにドクもね」
「わかってる。ドクでなければここまで来ないさ。いいよ、ドク。君が娘だったらぼくはとても嬉しい。そうでなくても娘だと思ってるんだ」
「ああ、よかったわ。嬉しいー」
ドクは心底安堵したようである。両手を胸の前で合わせ、子どものように首を傾げてみせた。ドクも人の子である。悩んでいたのだ。私は体が震えるほどの愛しさを覚え危ういところで涙をこらえた。
「竜とだけは恋をしないで欲しいけど」
「あ、それはそうよねー」
あ、はははは。
ドクは身を仰け反らせて笑い、笑いながらそっと指で目尻を拭った。