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花曇り  作者: 伊藤むねお
14/16

赤毛のサイコ

「根拠があるの」

「根拠が? どんな?」

「四っつあるわ」

 ドクは指を一本あげた。

「ひとつ。父、一色修三は無精子症だった」

「え? ほんとうかい」

「だったら、私は誰の子?」

「それは俄には信じがたいが、だからといって私がドクのお父さんというのはそれはありえない。お母さんに叱られるぞ。第一人工授精という・・」

 ドクは、首を左右に振って私の言葉を遮った。

「それよ、おじ様」

「しかしだよ」

「その前に」

 ドクは指を二本立てた。

「聞いて。ふたつ目よ。私がインフルエンザに罹って受験ができなかった、その夜のことだったわ」

 喉の渇きを覚えてベッドを這いだし、壁を転がるようにして歩いていると居間から話声が聞こえてきた。母と急遽見舞いに来てくれた友人との会話であった。

(ドクも困ったとこが似ちゃったわね)

(ほんと)

 朦朧としていた意識の中ではあったが、その会話ははっきりと記憶に残った。


「だけど、ドク、それは」

「父にも母にも入試のときにそういうことがあったことなど聞いてない。みっつ目。おじ様はサイコという人を知ってるわね」

「沙織さんの高校時代からの親友で、医者になったという人だろう」

「そう。おじ様。サイコさんに会ったことがある?」

「それがないんだ。沙織さんの口からは頻繁に名前が出た人なんだが、不思議と一度もない」

 ドクはうなずいた。

「本名は今も昔も、才島佐衣子」

「・・・?」

「母とひそひそ話をしていたお友達というのが、そのサイコさんなの。おじ様はサイコさんに会ってるはず、いえ、絶対に会ってるわ。三十年も昔だけど」

「そんなに昔かい? どこでだろう」

「おじ様、竜のヤツが生まれる前に、麻子おば様とふたりで病院に行ったでしょう? 五年ほど前におば様から聞いたわ。どこの病院だったか覚えている?」

「ああ、あれか。あれは埼玉の県南病院だったと思うが」

「やっぱり」

 ドクはひとつ大きな吐息をもらした。

「サイコさんは、かつてそこの産婦人科におりました、といえばどう?」

「あ・・・」

 胸が大きく動悸を打った。

 私たち夫婦には、結婚後一年経っても子どもができる兆しがなかった。治療の必要があるのなら早いほうがいいだろうから、一度、専門医の検査を受けようかと夫婦で病院にいったのだが、それがその病院であった。検査の結果は夫婦ともに特に異常なし。実際、それからまもなく麻子は妊娠し、竜が生まれたのである。

 あのときのあの女医が・・・そういえば、まだ若い人だった。

「サイコさんの方は南東午という名前を知っていたから、おじ様の初診カルテが回ってきた時には、びっくりしたはずだわ」

「でも、なにもいわれなかった。どうしてだろう」

「医者のモラルよ。とくに精液検査というのは男の人にとっては恥ずかしいものよ。紙コップなどを渡されてシコシコやらされるんでしょう。いわないのが慎みというものだわ。ましてや、あのサイコさんなら余計なことは決していわない」

「そうか。それで」

「いきさつはわからないのだけれど、母はそのことをサイコさんの口から知った。折しも、父も母も子どもが欲しいと思い人工受精を考えていた。その母にとって、サイコさんから聞いた話は天の鐘の音のようなものだった。ゴーンとね」

 ドクは指を上げて天を指してみせた。

「うまい具合におじ様も父もA型、体型も顔も似ている。母はサイコさんを通じておじ様の精子を入手し、施術も頼んだ」

「ちょっと待った、ドク。精液というものは、検査が済んだら捨てるんだろう? ・・・あ・・・あ」

「ほうら。だんだん思い出してくる」

 ドクは催眠術師のような目になった。

「そうだった。十日ほどしたら電話があったんだ。精密検査をしたいので何日か禁欲をして、またおいで下さいって」

「やっぱり、そうなのね」

 ドクは大きくうなずいた。

「そうか、赤毛のサイコか。髪の赤っぽい女医さんだったな。しかし誰がそれをドクに言ったの。沙織さんもサイコさんも絶対にいうはずがないと思う」

「もちろん誰からも聞いてないわ。そしてよっつ目は、ごく最近のことよ」

 ドクの指が四本になった。

「おじ様、最後に母を見舞いに来てくれたときのことを覚えているわね。母の都合を訊ねて、私に電話を下さった」

「ああ」

「明日、行っていいだろうかっておじ様がいった。しかし、明日ではなく明後日にして欲しい。そう私がお願いしたのを覚えてる?」

「もちろん覚えている」

「不思議だと思わなかった?」

「いや。検査とかなんかの都合だと思ったから」

「そういうものはもうなんにもなかったわ。私、母からいわれてたの。昼に病室に寄った時よ。『今晩、東午さんから電話があるような気がするわ。そしたらね、明日だけはずらしてもらって』。そういわれていたの。私はどうしてなのか不思議だった。どうして明日は駄目なのだろう。一番嬉しい人のお見舞いなのに。しかも、母はいつ死を迎えてもおかしくないことを自分でも知っていた。で、次の日になにがあったか」

「サイコさんが見舞いに来たのか」

「ビンゴ」

「沙織さんは、ぼくとサイコさんを会わせたくなかったといいたいわけ?」

「ビンゴ」

「しかし、ドク。ぼくが仮にサイコさんに会って、あの時のドクターだとわかったとしても、ドクのような推理にはとても辿り着けないよ」

「それは、サイコさんと母との約束だったのだと思う。医者であり、倫理には人一倍厳しいサイコさんにとってはいかに母の頼みとはいってもずいぶん苦しい決断だったはず。だからこそ、母は死の直前までもその約束を守った。一切が片づいてから来て貰ってといったのもひとつはこの理由ね。そこに思いが辿り着いたとき、今度は私の頭の中で鐘が鳴ったわ。ゴーンとね。そして、その鐘の音が他の三匹の迷える子羊たちを集めてくれた」

「・・・」

 私は言葉を失ってしまった。

「以上。しかして、このよっつの疑問を解く答えはただひとつ。他に答えはないわ。他には全くない」

 ドクは繰り返しきっぱりとそういった。


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