ありがとう沙織さん
今日は相当遊びがきつい。
遊びではないのかもしれないが、その辺りはいつもながらわからない。
「今日は手厳しいんだね」
「麻子おば様がやはり花だということは私も認めるわ。とてもいい方ですもの。でもね」
「ドク。待ってくれ。ぼくに麻子との結婚を否定させるのかね。それは出来ないよ」
「愛の誓いには背けないというわけ?」
「そうだよ。あのときはあのとき、というのでは誓いの意味がないだろう」
「出たわね。母、そっくりね。そういうとこ。なんでも死ぬまでなのね。でも、母に悪いことをしたとは思わなかった? これなら言えるでしょう」
「ドク。それは、お母さんへの冒涜というものだ」
「どうして?」
「修三さんは、だれがみても立派で魅力的な男性だった。沙織さんは幸せだった。ドクもそれは知っているはずじゃないか」
「ずるいよ。私はおじ様の結婚の時のことをいってるのに。それじゃ謎は少しも解けない」
ドクはうううと呻った。怒っている。
「謎なら、沙織さんがなぜぼくを気に入ったのかを解いてみせてくれ」
「あれれ。ということは、母に聞いてみたことがなかったのね」
「ないよ。そんな」
ドクはフファーと息を吐き椅子の背もたれに体を打ちつけた。
「困ったモンだ。奇跡のふたりね。似たものどうしだったということなのかなあ」
「似てはいないよ。似たいと思ったことはしょっちゅうだったがね」
「これじゃエンドレスよ、もー。ごまかされてるのかなあ」
ドクは両手でパンとテーブルを叩いた。
ごまかすつもりなどはない。なぜ沙織さんと結婚しなかったのか。そのことは私もその後、折に触れ何度か考えた。恐らく、と他人事のようにしかいえないのがわれながら愚かしくまた不思議でもあるのだが、次のようなものであったろう。
聖なる存在だった。尊敬の念が強く妻という従属的な存在(当時の私の結婚感とはそういうものだった)にはめ込むことにためらいがあった。
一緒に生活の苦労を分け合うことでの互いの幻滅を恐れていた。
もっと端的な理由がある。私は一生涯、沙織さんと呼び、その微笑みを見続けていたかったのだ。
(そんなの、みんなあとづけよ)
ドクの声が聞こえる。
(そのとおりだ。ドクのいうように封じこまれた性的な欲求不満はあったのかもしれない。でもそれを不満といったら罰が当たる。あのバスの中での幸福を、図書館での幸福を、そのまま四十年も私に味わい続けさせてくれたのだ。これが事実なんだ)
(結婚していたらもっと幸せだったかもしれないじゃない?)
(それは仮定であって事実ではない)
しかし、もしもドクがいったような手紙が来ていたらどうだっただろう。さっき言われるまでは考えてもみなかったことだが、まずは飛び上がるほど驚いたにちがいない。そして・・・どうしただろう? ・・・わからない。なぜなら、来なかったからだ。
「ドク。もう勘弁。過ぎたことなんだ。たらればをいうな。ぼくはそれを生涯の自戒として生きてきた。沙織さんから学んだ教えのひとつでもあった。ドクもいわれたことがあるはずだ」
ドクは横を向いて返事をしない。わかっていても沸騰した血が収まらないということなのか。
「今日の空模様とおんなじ」
ドクはふと周囲をみまわすと、つぶやくようにそういった。
「花曇りだわ。茫として天地に境なし」
「うまいな」
ドクはにこっと表情を変えた。
「止すわ、この話は。これ以上、おじ様を困らすと母に叱られそうだし」
「やれやれ。ありがとう沙織さん」
「ありがとうドク、も」
「ありがとうドク」
「母も、遺すものはちゃんと遺したし」
「遺したものって?」
「私よ」
「うん。魅力威力倍増の遺しものだな」
ドクは目を細めて、くっと笑った。
「それじゃ、ご機嫌の変わらぬうちに出ようかな。青葉城にいって正宗公に拝謁しようじゃないか」
「はあい、お父様。シュッパーツ!」
ドクは機嫌良く立ち上がった。どうせ怒ったふりをしていただけなのだ。
「ぼくはまだ騎馬像をみてないんだ。あれ?」
私は立ち止まり両膝に手を当てた。
「どうしたの」
「膝がおかしい。さっきのグリグリがおかしく効いたんじゃないかな」
「ウッソダー」
「そう。嘘だ」
「あのね。もういっぺんやってもらいたいのなら、素直にそういうものよ」