一生わたし
沙織さんはほんとうに素敵な人だった。
その時から四十年たった今でも沙織さんのような人を私は他に知らない。それに近い人さえ知らない。唯一、今、目の前にいるドクがその候補であろう。
沙織さんはなんどきでも顔をしかめることをしなかった。私は眉を寄せた沙織さんを見たことがないのである。悩みや苦しみがなかったはずはないのだから、いかに自律の心が強かったかがわかる。
「ドク。お母さんが困ったという顔をしたのを見たことがあるかい」
ドクは虚を衝かれたような表情になり、少し返事に間が生じた。珍しいことである。
「思い出せないわ」
「お父さんが亡くなったときは」
「いつもの母だった。私をぎゅっと抱きしめてくれただけ」
ドクは両腕で自分の胸を強く抱いた。
「いつも、ふわっと微笑んでいた。自分が息をひきとる時さえもそうだった・・・」
ドクは急に体を捻り顔を背けた。肩が小刻みに震えている。私は心ないことに話題を導いた自分を呪った。
「すまん」
「いいの・・・あはは、少し泣いちゃった・・・いかんなあ・・・昔・・・父がね」
ドクがこちらを向いた。赤い目はもう笑っている。
「お母さんは人間離れがしているなあって。母のいないところで、そうぽつりといったことがあるわ」
「そうか」
「母が息を荒げて眉を寄せた顔なんて、見たのはきっと父だけよ」
私は意味がわからなかったふりをしてカップを口にあてた。しかしドクは容赦しなかった。
「あはははは、おじ様ったら、知らんふりなんかして。どう? お皿、少しはもどらない?」
「ドクはいつも、そういうアケスケなことをいうのかい。よくないな」
「まさかあ。おじ様にだけよ」
「本当かな」
「あたりまえじゃない」
ドクは少し鼻白んでみせた。
「なら、ドクは進むべき道を間違えたな」
「ん? 俳優のこと? 竜のヤツにもいわれたわ。でも、それは駄目。私は他人は演じられないの。演じられるのはいつだって自分自身だけ。狼に化けても子豚に化けてもそれはみんな私なの」
「少しピントがずれてないか」
「ずれてない。母もそう。ただし、母は生涯ワンパターンだけを、おじ様が知っている一色沙織だけを演じたの。色々演じるよりもそれはきっと何倍もきつい。私の方がずっと楽ね」
沙織さんは生涯自分自身を演じていたんだって? 私はショックだった。
「それは示唆に富む比喩だな」
辛うじてドクの言葉を真似て応じたものの心中は穏やかではなかった。それでは、私は沙織さんの素顔をみなかったことになるではないか。
「だったらだね、ドク・・・」
「待って、おじ様。気にしないで。なにも示唆などしてないわ。今のはただの言葉の遊びよ。駱駝は砂漠の船なんかじゃない。ただのウシ目の哺乳類よ。キツイといったのだって、私ならという意味で母は全然そう思ってない。娘の私でさえ、おじ様の知ってる以外の母は知らないのよ」
私は心中、吐息を漏らした。この娘には敵わん。