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その7「異常事態」

 男脳と女脳とでは、男脳の方が方向感覚に優れている。

 かつて人が原始人と呼ばれていた頃、男性オスは狩猟のため居所きょしょを離れて遠地にまで出向かなければならなかった。仮に獲物をれたとしても、帰って来れなければ意味をなさず、子孫繁栄も望めなかった。そのため、男性オスの脳は方向感覚に優れる必要があったのである——

 いつか、こんな感じの説明を読んだか聞いたかしたことがあった。

 今、俺の目の前を行く少女は道に迷っている。それが脳の働きのせいなのかどうかはわからないが、とりあえず迷っている。

 一度、彼女にその事実をしらせようとしたが、俺は言葉を発せず彼女の背中を見送った。

 これには理由があった。

 その理由とは、俺がここ小一時間彼女の後を付けている——これである。

 ……えーっと、念のために言っておくが、ストーカーではない。あくまで、むにまれぬ事情から、後を付けている——これについては察してもらえるはずなんだが……?


 コホン……すまない、脱線した。


 なんにせよ、この追尾という行動が、彼女の『迷い』の事実を俺に気付かせる結果となった。

 しかし、この結果は、俺にとって実に厄介やっかいな状況を作り出してしまった。

 ここで、一般的な迷い人の場合を例として上げてみたい。

 人が町中などで道に迷っている人物を発見した時、何故客観的に『迷っている』というその事実に気付くことができるのだろうか。

 この答えはごく単純である。

 それは、道に迷っているその本人自身が『迷っている』ことに対して『既知きち』であるからである。

 つまり、既知であれば、言葉には出なくとも、一挙一動にその事実が知らず知らずと現れ、結果、周囲の人々にもその事実が自然と伝達されるのである――

 ——さて、この前提条件に、非常に重要なポイントが隠されてことはご理解いただけるだろうか。

 考えてもらいたい。もし、この前提条件がなければ一体どうなってしまうのかを。

 もうお気付きの方もいるかもしれない。そう、本人は助けを求められず——いや、そもそも助けなど必要としておらず——、また、周囲の人も迷いの事実に気付くことができなくなってしまうのだ。

 ここで、俺の現状に戻ってほしい……。

 前を行く椎名黒羽さん。

 彼女の背中を見送ってからどれほどの時間が経過しただろうか。

 そう、彼女は未だに気付いていない。『迷い』の事実に――


 俺と水島は彼女とコンタクトを取るべく、あーでもないこーでもないと議論を交じえていた。

 最初は色々と案も出していたが、様々な出来事にさいなまれ、挙げ句、同じ周回軌道上を五回も回った俺の精神力は底を尽きかけていた。

「壱宮。やはり男は素直に言うのが一番いさぎよいと思うぞ」

「水島、何回同じことを言えばいいんだ……。例えば——例えばだぞ? 『ずっと後を付けてて思ったんだけどさ。椎名さん、道に迷ってない?』…………こんな言い方をしてみろ。椎名さんはきっと思うだろうな。『え?……私、ストーカーされてたの?』ってな。するとどうだ。俺と椎名さんの関係は始まらずに終わってしまうじゃないか。……いや、待て……。もしかしたら、妹にまで話が伝わって、気持ち悪がられ、家族に見放されて、挙句…、俺は家を出なくちゃならなくなるかもしれない…………。俺は……俺は……孤独なんて味わいたくないぞ……」

「……壱宮、考えすぎだ……」

 額に手を押し当てる俺に水島の声は届かない。

「……孤独になった俺はどうなる? 一生古びたアパートに閉じ籠もり、髪は伸び放題でひげも剃らず……いつの間にか孤独死なんていうことも考えられるじゃないか。……なんて……なんて恐ろしいんだ……」

「……壱宮、大丈夫か?」

 身の震えが止まらない。気が付けば、俺は体を抱え込み、下ばかりを見ていた。

「それなのに……水島……。お前は俺にそんなことを言えというのか!」

 高ぶる情動を押さえきれず、それを水島にぶつける。

 ——その時、俺は目を疑った。

 友人であるはずの水島が、いつか見た格別なる軽蔑の眼差しを俺に向けていたのだ。

「み……水島、なんてことを……」

「何が『なんてことを』——だっ」

 シュッという音とともに、ひたい手刀しゅとうが舞い降りる。

 運動神経がそれほど良くない俺にはその一撃をけることなど到底出来ない。鈍い打撃音とともに、俺の中の何かが身体からだを離れた。

 ――――。

「……俺は、何を……」

「壱宮、戻ったか?」

 あきれ顔の水島がいた。

 俺は頭を振り、周囲に目を配る。

 いつの間にか夜の世界へと変貌している町が目に映った。

 道路沿いの建物にはネオンが輝き、路地裏には赤提灯ちょうちんがぶら下がっていた。町行く人々には、家路に急ぐ人、飲みに向かう人、だらだらと夜の町に溶け込んでいく人と様々だった。

 そんな中に身を置く俺たちは、少し不釣り合いな存在に思えて仕方がなかった。

「……ああ、そうか……。早く解決方法を見つけないとな」

「戻ったみたいだな」

 水島の一言の直後、鞄の中の携帯スマホが鳴った。蒔苗からだった。

 俺は水島に身振りで合図を送り、着信を受けた。

「もしもし」

《あ……えっと……、ゆー、くん……? お母さん、心配してるよ?》

 携帯の奥から妹の声がした。

「ああ、ごめん。帰るのちょっと遅くなりそうだ」

《あ……そう、なんだ……》

「門限までには帰るから」

 言ったものの、妹の様子が何かおかしい。

《うん……わかった……》

 快活さが取り柄の妹に何かあったことは明らかだった。それじゃ、と言って切ろうとする蒔苗を俺は呼び止めた。

「蒔苗」

《……ん?》

「何かあったのか?」

《え……? あ……えっと……ゆーくん……?》

「どうした?」

《ゆーくん……あのね……》

 その後、何度か「……あのね」という声を聞いたが、最後には「ううん……なんでもない……」と言って、電話を一方的に切っていった。

 何かあったことは間違いないようだが、その内容を話してもらえなければ対処のしようがない。

 ……もしかして、今、あの公園の時の異変が生じ始めたのだろうか?

「…………」

 ——いや、違う。そんな感じじゃなかった。

 ————。

 頭を振る。集中するべき方向を切り替えるために。

 今は、目の前の椎名さんにコンタクトを取ることが優先だ。蒔苗には帰ってからでも事情を聞けばいいだろう。

 携帯を鞄に直し、水島に声をかけようとした。

 しかし——

「壱宮、まずいぞ」

 その水島の声と視線が、俺に異常事態であることを知らせた。

 目を向けると、どう見ても健全そうには見えない、三人の男が椎名さんの進路を妨害していた。


  ◇◆◇ ◆◇◆◇◆ ◇◆◇


 買い物を終え、帰宅を急ぐ黒羽が「駅ってこんなに遠かったかな?」と思い始めた頃だった。視界の前方で地面に座り込んで談笑していた三人の男が、スッと立ち上がった。

 黒羽は嫌な予感から、その男達から距離をとって前を通り過ぎようとした――しかし、その男達の狙いが自分だと気付いた時にはもう遅く、前は既に塞がれていた。足が止まる。

 嫌な予感が現実のものとなってしまった瞬間だった。

「ねぇねぇ、君、一人だよね?」

 一人の男が詰め寄ってきた。リーダー格らしきその男の髪は、自己主張の現れなのか、赤く染め上げられていた。

「さっきから、ずっとこの辺うろうろしてたよね?」

「俺たちを待ってた、とか?」

 にやにやとした笑みを顔に張り付け、同時に他の二人も詰め寄ってくる。黒羽はじりじりと後退を迫られ、最後には建物の壁にまで追いやられていた。

 助けを求めようと視線を走らせる——しかし、周囲の通行人は関わり合いたくない思いからだろう、その一角を避けて通っていた。助けなど、望めそうもなかった。

「あ……え……帰る……ところで……」

 視線は地面に落とすしかなかった。声を絞り出すものの、三人の男の顔を見ることなど到底とうていできない。目に映る手は震えていた。

「え? はは、帰るとこだったの?」

 男の一人が、黒羽の意外な一言に笑い声を上げた。

 赤髪の顔が迫る。

「送ってあげようか?」

 背筋に悪寒が伝わる。黒羽は必死に首を振った。

「君、名前なんていうの?」

 赤髪の立て続けの質問に必死に否定を続ける黒羽。

 大きなため息がした。今まで笑っていた男だった。

「なあ、めんどくせーし、さっさと連れていこうぜ」

 その言葉に血の気が引いた。

「そうだな」

 これまで優しく接していたことが嘘のように、赤髪の声が冷徹になる。

「来な」

 手が伸びた。

「い……いゃ——」

 捕まれた腕を必死に振りほどこうとするが、独りの少女の力でどうにかなるものではない。

 ——誰か……!

 ずるずると引きずられながらも目で必死に助けを求める。しかし、周囲の通行人は目を合わせることすらしなかった。

 ——やだ……やだ……

 その叫びはかすれ声にしかならなくなっていた。

 赤髪の冷徹な笑みの先に路地裏が迫る。その暗闇はもはや奈落の底にしか見えなかった。

 もう駄目だった――


「その子から——離れろ!!」


 声がした。

 涙でゆがむ視界の中に、その人が現れた。


 ——壱宮……先輩……?

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