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その6「まひ」

 初めは遠目だった椎名さんが、一歩一歩と近づくにつれて、その容姿がはっきりとしてくる。薄黄色のワンピースに白いレースの上着をまとい、前手にはトートバッグを持っていた。

 その姿はまるで花の妖精を思わせた。妹の話によると、彼女は頭も良いらしい。

 容姿端麗。頭脳明晰。そういった言葉がそっくりそのまま当てはまる女の子はそうはいないだろう。

「声をかけないのか?」

 不意の一声だった。

 我に返った俺の首がきしむ。

「な、なんて声を……かければ…………いいんだ……?」

 水島が自分の捕まれた腕を見る。腕が振るえていたからだ——俺の手によって。

「壱宮……?」

 ぽつりと言った水島が、しばらくして反対の手で顔を覆った。

「まさか、そんな風になるとはな……。いや、そもそも壱宮に好きな子が出来るとは……想定外だった……」

 必死に笑いをこらえる水島に対して、いつもなら、人事だと思ってバカにするな、などと言っていたかもしれない。しかし、今の俺にはそんなくだらないことに頭を回す余裕は微塵もなかった。

「近づいてきているぞ。どうするんだ?」

 油の切れた人型ロボットのようにしか動けなくなった俺は、回避に向けて動き出す。

 目に入ったのはすぐ真横にあった古書店だった。店外に並ぶ一冊の本を手に取り、立ち読む真似をする。

 水島が隣で「おいおい……」と言っているが、それにこたえる心の余裕などもちろん持ち合わせていない。

 俺は恐る恐る横目で椎名さんを確認した。

「うっ……」

 すぐ間近に迫っていた。

 完全に硬直状態に移行した俺の体は微動だにしない。

 椎名さんが真後ろを通る気配。息までもが止まった。

 ————。

「行ったぞ」

 水島のその一言が解放の合図かのように、俺の呼吸が復活する。

 ——なんて情けない姿なんだろうかと自分でも思う。

 体の硬直はまだ完全に解けてはいなかった。

 息を吸って吐いて、隣で佇む友人に顔を向ける。水島はもう笑っていなかった。

「水島……。俺、どうすればいいんだ……?」

「俺に聞くな」

「……だよな」

 ごもっともな意見に俺はこうべを垂れるしかなかった。

「ただ——」

 水島が言った。

「まずは話すこと、だと思うぞ」

 友人のその言葉が、じわじわと胸に染み渡る。

 そうだ……。

 茜の言う『想い』を持ったまま『全部を忘れる』という言葉の意味は分からない。だが、彼女を避けてばかりいては、俺はずっと立ち止まったままになってしまう。

 それが駄目なことはわかっていたはずだ。

 それなのに、俺は——

「今からでも……間に合うよな?」

「ああ。走れば十分に」

 友人の笑みに勇気が湧き出た。


「若いの」


 しゃがれた声。

「え?」

 首を回すと、腰の曲がった見知らぬ老人が、じっとこちらを見据えている。

「それ」

 老人があごで何かを差した。

 言われるがまま視線を落としてみると、俺の手にある本だと分かった。

「買うんか?」

 この言葉で老人がこの古書店のあるじであることをようやく理解する俺。

「えっと……」

 言いよどむ若者の態度にしびれを切らしたのか、店主はもう一度言った。

「買うんか?」

 さっきよりも威圧的な物言いに押された俺は……言うしかなかった。

「……買います」

 と……


「どうにか追いついたな」

 十数メートル先には椎名さんの後ろ姿があった。

「……ああ、そうだな」

 友人の言葉にどうにか応えるも、そこに力は籠もっていなかった。

 謎めいた漢文がひしめくよく分からない書物に大金をはたくことになった俺の精神は崩壊寸前だった。そして何より、諭吉を受け取った直後のあの店主の笑い声が耳から離れない。

 俺は頭を抱えた。

 そんな俺の様子に、さすがの水島も心配顔を見せる。

「だ、大丈夫か?」

「はは……」

 笑うしかなかった。

 ……大丈夫なわけがない。一万円だぞ? 俺の二ヶ月分の小遣いだ。それがあの一瞬の出来事でパーになってしまった。笑う以外に何ができようか。

 鞄の中にあるまわしき書物に視線を落とす。

「くく……ははは……」

 笑いがこみ上がる。

「い、壱宮……?」

 水島が俺を呼んだ。

「……なんだ? はは、はははは……」

 目が合うと、さらに笑いがこみ上げてきた。

「い、壱み——」

 ——こんなものっ!

 気が付けば、手に書物を振り上げていた。

 近場のゴミ箱に叩き込もうとするも、寸前で手が止まる。

「……できない」

 当然だった——。

 一万円の品物だ。捨てられるわけがない。

 だが、俺にとって無価値であることも事実だった。

 意義の見い出せない二つの感情が拮抗きっこうする。

「か、返しに行くか?」

 戸惑いがちに水島が言った。

 俺はしばらく考えたが、振り上げていた腕を静かに降ろした。

「勉強代だと、思うことにするよ……」

 あの店主の顔をもう一度見る気にはならなかった。見てしまえば、きっと、俺の中に渦巻いている何かが形を得てしまう――そんな恐怖があった。

 目を閉じる。

「…………」

 ――そもそも何故こんなことになったのか。

 その答えはとっくにわかっていた。俺が弱いからこうなったんだ。

 あの時、俺が臆せず椎名さんに声をかけていたら、こんなことにはならなかったはずだ。

 本当に、何回同じ過ちを繰り返せば気が済むんだ!!

 心の中の闇を振り払う。

「水島、行こう」

 俺は椎名さんを追いかけた。


 見失っていた椎名さんは難なく見つけられた。

 大きな交差点を左に曲がった少し先に彼女の姿があった。

 今度こそ俺は話しかけるんだ!

 ————。

「——で、いつ話しかけるんだ?」

 いつの間にか、空はずいぶんと暗くなっていた。

「それは……、その……」

 水島の切れ長の目による軽蔑の眼差しは、それはもう格別だ。

 椎名さんに追いついてから早20分。俺は未だに話しかけられないでいた。

 本当に、何回同じ過ちを繰り返せば気が済むんだろうか……。自分でも嫌になってきた……。

 目に見えて落ち込む俺に、ついに諦めの意思を示した水島が話を切り替えた。

「あの子、どこに行くんだろうな」

「……そうだな……」

 ——俺も思っていたことだった。

 彼女を最初に見たときから、既に30分は経過している。しかし、彼女は立ち止まることなく歩き続けていた。

「とりあえずついて行くか?」

 水島が言った。

「……そうだな……」

 俺は頷いた。

 

 10分が経過した。


「若いの。また会ったの」

 ほっほっほ、と笑ういつか見た顔——見たくなかった顔。

 何故あんたがここにいる。そう思わずにはいられなかった。

 ——しかし、老いた店主がいるのも当然だった。

「ここは……」

 苦々しい記憶の残るついさっきの古書店だったからだ。

「どうなっている?」

 水島も動揺を隠せないでいた。

 俺たちは、純粋に椎名さんの後を追い続けていただけだ。彼女の足取りは着実で、確実に何処かへと向かって歩を進めていたはずだ。なのに、何故——

 困惑の表情を浮かべる俺に店主が声をかけてくる。

「また買うかの?」

 その下心丸見えの表情に、奥底に押し込んでいた疑惑の芽が確信の実へと一気に成長した。

「……ジ」

 ジジイ、やっぱりぼったくりやがったな……。

 心の苛立ちが顔に出ていたかどうかは知らない。

「もう店じまいじゃ」

 クソジジイは一転し、いらつく笑い声を残しながら店内へと消えていった。

「壱宮、追いかけよう」

 椎名さんの行動の行方が気がかりな様子の水島が、俺の腕に手をかける。

 俺は店の入り口を睨みつけながら、その場を後にした。


 またも、すぐに俺たちは彼女に追いついた。

「これは、まさか——」

 何かを思いついた水島の表情が固くなる。

 俺たちが通っているのは、ほんの数十分前と同じルートだった。左手のコンビニ、幹線道路を挟んだ右手の呉服屋、間違いなく全く同じだった。

「やっぱりだ。また曲がったぞ」

 水島が言った。

 彼女はまた左折した。

 そう、今思い返せば彼女は四つの交差点を『左折』しかしていない。ということは、一定のエリア内をぐるぐる回っていることにほかならず、すなわちそれは――


『方向音痴』


 口に出した言葉が見事にハモった。

 俺と水島は互いに見合う。そして、間違いない、ということを互いに確認するかのようにうなずき合った。

 しばらくして、水島の口が開いた。

「壱宮。どうする?」

 水島の問いかけに俺は戸惑うしかなかった。

 その問いかけの意図するところが理解できたからだ。彼女とコンタクトをとって彼女の道先案内人になれと言っているのだ。

 水島、なんて難易度の高いことを……。

「話しかけるチャンスだろ?」

 そして、畳みかけるようにもう一言。

「……っ!」

 俺は覚悟を決めた。

「行ってくる!」

 腹をくくれ壱宮優介!

 歩行速度を速めろ!

 彼女に追いつけ!

 そして、言ってあげるんだ!


「————っ」


 口を開きはしたが、言葉が出ない。

 射程内に捉えていた彼女の背中がどんどんと離れていく。

 そして、歩行速度が極端に落ちた俺に水島が追いついた。

「どうしたんだっ?」

 抑揚高い水島の声。

「なあ、水島。なんて言えばいいんだ?」

 きわめて平静に、表情も崩すことなく、ただ――聞いた。

「え? それはもちろん——」

 水島の視線が宙を漂う。

「…………」

 そのまま数十秒が経過。

 ――結局、漂う視線の焦点が定まるようなことはなく、

「……なんて、言えばいいんだ?」

「だろ?」

 俺は友人のその返答に大いに満足した。

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