⑴些事
individuals is something rare. but in groups, parties, nations, and epochs it is the rule.
(我々一人ひとりの気が狂うことは稀である。しかし、集団・政党・国家・時代においては、日常茶飯事なのだ)
Friedrich Nietzsche
臓腑を吐き出すような重い溜息が聞こえて、葵は振り向いた。二人の同居人が、革張りのソファに座っている。
霖雨は、この世の不幸を独りで背負い込んでいるような悲壮な顔付きだった。先日の事件で負った傷がまだ癒えず、頬に湿布を貼って背中を丸める様が、一層悲壮感を煽っている。
何か面倒事でもあったのだろう。だが、彼が人生の壁に立ち竦み、思い悩むことは日常茶飯事だ。アスファルトの道に転がる石ころ一つに苦悩するような気の小さい男なのだ。
隣には、教科書みたいに背筋を伸ばして読書に没頭する和輝がいる。葵は暫く二人の様子を観察していた。だが、霖雨が二度目の重い溜息を零しても、和輝は視線すら上げなかった。
取るに足らないことなのだろうか。
お節介な彼の性格を鑑みると、少し意外だ。
霖雨が三度目の溜息を零そうとしたところで、葵は声を掛けた。リビングに無駄な二酸化炭素を増やされるのは、迷惑だ。
「何かあったのか」
霖雨はゆるゆると顔を上げ、心底困ったみたいに眉を寄せていた。声を掛けられるのを待っていた癖に、被害者面をするので腹立たしい。
「聞いてくれよ」
だから、訊いているじゃないか。
葵は苛々したが、黙っていた。霖雨はローテーブルへ無造作に投げ出していたハードカバーの本を取り上げ、表紙を見せ付けた。
爽やかなミントグリーンの表紙には、著者であろう丸眼鏡を掛けた中年男のカラー写真と、『人生の正しい生き方』という表題が記されていた。
頭が痛くなるような、馬鹿な題名だ。
カメラ目線で中年の男が熱く拳を握っている様がまた、腹立たしい。
「今、ベストセラーになっている本なんだ」
「世も末だな」
葵が返すと、霖雨は結局、三度目の溜息を吐いた。
「俺のアルバイト先でも大流行しててさ、勧められたんだ」
「ふーん」
「皆、大絶賛でね。今度、この作者主催の講演会があるからって、一緒に行くことになった」
「ふーん」
溜息の割に、大した話ではなかった。
隣にいる癖に無関心な和輝の態度は正解だ。これ以上、掘り下げるべき事柄でもないので、葵は煙草に火を点けた。
相変わらず、喫煙所はキッチンの換気扇の下だけだ。窮屈だが、この規則に関しては二人の同居人が結託しているので、葵は渋々ながら従わざるを得なかった。
葵が煙草を吹かせていると、聞いてもいないのに霖雨は更に続けた。
「正直、行きたくないんだよ」
「じゃあ、行かなければいいだろ」
「付き合いって大事だろ。上手く断れないかなあ」
葵には、よく解らない悩みだ。
結論は出ているのに、どうして悩むのだろう。
人間関係の難しさは誰しもが感じることだ。絶対的な正誤がある訳でもない。
それこそ、その自己啓発本が教えてくれるのではないか?
葵は、自己啓発本を読んだことがないので、解らない。個人的な価値観で物を言うのなら、自己啓発本の類が嫌いだ。偉そうに物事を語る作者のしたり顔が目に浮かぶようで、苛立つからだ。
「その本が答えを示してくれるんだろ。何て書いてあった?」
霖雨は本を捲り、該当する頁を見付け出すと声高らかに言った。
「ーー悩むということは、恵まれているということだ。時間が許す限り悩め。全ての時間が己の力になる」
「何の答えにもなっていないじゃないか」
葵が呆れて肩を落とすと、霖雨は今更気付いたみたいに目を丸くした。
確かに。
ぽつりと、霖雨が零した。
虚実の種
⑴些事
「霖雨は優しいから、他人の気持ちに共感し易いんだよな」
白い湯気の向こう、昼食の饂飩を茹でながら、和輝が言った。
寸胴の鍋は、彼の背丈と相対したとしても、業務用かと思う程に大きい。一体、何人分の麺を茹でているのだろうか。
世間はクリスマスを終え、今度は年明けを前に浮かれている。街は降雪に見舞われ、銀世界と言えば聞こえはいいが、交通機関が殆ど麻痺している。
外出する気も起きず、葵はすっかり引き篭もっていた。和輝さえいれば、衣食住は賄われるので、家を出る必要性もない。
読書に没頭していた和輝は、自分を挟んで交わされていた会話も聞こえていなかったらしい。高次元の集中力は賞賛に値するが、災害に見舞われた時、真っ先に死ぬだろう。問題解決能力は群を抜いているけれど、非常時にはそれを発揮する間もない。
警告するべきなのだろうか。
葵には、解らない。
和輝の言葉に、霖雨は悪い気はしないようで苦笑いを浮かべていた。単純な男だ。
要するに和輝は、霖雨のことを、意志薄弱で優柔不断だと言っているのだ。人が意見に反発する時は、大抵、その言い方が気に食わないだけだ。和輝は褒めているようで、結局のところ、貶している。
「悩める内は悩んだ方がいい。それは、俺も賛成かな」
コンロの火を止め、和輝が言った。
三つの丼へ、麺を均等に分けようとするので、葵はさり気なく止めた。質量保存の法則を覆す化物のような胃袋を持つ和輝と同量の食事を取ったら、胃が破裂してしまう。
ただの饂飩だと思っていたが、やけに幅広の麺だった。ほうとうだ。ざく切りの南瓜が嫌がらせのように大量に入っている。
「誰かに言われて選んだ道は後悔するよ。困難に遭遇した時、誰かのせいに出来るから、打開策を見出す前に投げ出してしまう」
人は、自分で選んだ道でなければ走れない。
和輝がそんなことを言って、丼をリビングのローテーブルへ運んで来た。
霖雨ばかりが感心したように頻りに頷くので、葵は馬鹿らしくなった。
「他人の意見に耳を傾けるのは間違いだって言いたいのか?」
「傾けるのはいいんだけど、鵜呑みにしないことだ。他人なんて、結局、他人なんだから。自分の人生の責任を、他人は取ってくれないよ」
丁寧に箸を揃え、和輝が言った。幼児の飯事を見ているようで滑稽だった。
和輝は正しいことを言っているようだが、それこそ、自己啓発本にでも書いてありそうなことだ。そんな使い古された教訓を生かせる程に人は賢くない。
「正論なら、その自己啓発本にでも載っているだろう。人生にハードルがあることも、乗り越えた時に達成感があることも初めから解っている。問いたいのはハードルの有無ではなく、その方法だ」
「個人の抱える問題一つ一つの解答を記せというなら、辞書より分厚い本になってしまうよ。マニュアル通りに生きて得られる達成感なんて、高が知れている」
「マニュアルに頼りたい時もあるんだろ。だから、自己啓発本が馬鹿みたいに売れるんだ。お前の言葉は理想論で、机上の空論と同じだ。それが出来るなら、とうにやっている」
愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶという。
葵が言うと、和輝は口元に微かな笑みを浮かべた。この微笑に、葵は既視感を覚えた。
「だが、その歴史を作ったのは、愚者と呼ばれる大勢の人々だ」
「歴史を作るのは、その時代の優れた統率者、或いは賢者だ。大半の人間は波間に漂う木片の如く、流れに身を任せたに過ぎない」
「木片がなければ、船は作れない。人々が賛同したというのは結果論だろう。人は流れに身を任せたのではなく、己の信念を持って決断し、より良い未来を選択したんだ」
和輝はラグの上に胡座を掻き、片眉を跳ねさせた。
「俺は運命論が嫌いなんだ。未来が予め決められているとは思わない」
「歴史は繰り返す。人は歴史というレールの上を走っている」
「そのレールを走ると決めたのは、人の意思だ」
和輝は頑なに否定しているように見えるが、感情の機微は感じられない。熱血に見えて、案外、冷静だ。
葵は咳払いした。
「ーー話を戻すが、その本に載っているのは理想論に過ぎない。応用性のないマニュアルで、無責任な他人と同じだ。だが、世の中は馬鹿が多いから、本とも呼べないような紙の束が飛ぶように売れる」
「俺はマニュアルを全面的に肯定して、皆にそれを遵守しろと言っている訳ではないよ。それを守る必要はないんだ。ただ、否定する理由もないだろう。お前、マニュアルに死ねって書かれていたら、死ぬのか?」
「それは極論だし、俺はそんなものは信じないから、死なない。お前こそ、一人の犠牲で世界が救われると書いてあったら、それを信じて死ぬか?」
「最大限足掻いて、後悔のないように自分の選んだ道を進むよ」
ずるい言い方だ。どちらか一方ではなく、どちらも有りだと言っているのだ。一方を否定して、もう一方を肯定するよりも、双方のいいとこ取りをして第三の意見を上げている。
世界はそんなに甘くない。どっち付かずは身を滅ぼすだろう。ーーだが、和輝の真っ直ぐな視線が突き刺さった。透明感のある妙な色合いをした瞳に、自分の顔が映っている。
葵は追撃の反論を既に構築していたが、言葉を失ってしまった。本当に、ずるい男だ。
マニュアルという言葉が、ゲシュタルト崩壊を起こし掛けている。
間に挟まれた霖雨ばかりが、助けを求めるように視線を漂わせていた。
葵はそれを無視した。
「お前も本でも書けば? 尤も、俺は買わないけどな」
「個人の価値観が普遍的なものだと思うなら、それは傲慢だよ」
馬鹿の癖に、回りくどい言い方をする。
葵は、経験則から、その理由を知っている。彼が直接的なことを言わない時は、大抵、裏がある。何かを隠しているのだ。
そして、その隠し事がろくでもないことを、知っている。
「お前等、喧嘩するなよ」
「喧嘩じゃないよ」
霖雨の言葉に、和輝は即答した。
そうだ。意見の対立を喧嘩というのなら、これは言い争いですらない。この男が自分の意見を通すと決めたのなら、既に手が出ている。
彼は二酸化炭素と同じだ。固体と気体になるが、液体にはならない。それが溶ける時には、ーー爆発している。
これは喧嘩ではない。ならば、何なのだろう。
互いの意見は食い違っていない。葵も和輝も、自己啓発本の類が好きではないのだ。だが、葵はそれを拒絶し、和輝は許容している。その程度の差異でしかない。しかも、それは、手段を講じてまで貫こうとは互いに思っていない。
にこやかな笑顔で、和輝が言った。
「痴話喧嘩みたいなものだよ」
霖雨が、ぽかんと口を開いていた。
和輝は小難しい言葉を使う割に、語彙が偏っている。
馬鹿らしくなってしまって、気体が固体へ凝固するように、葵の中で急速に何かが冷えていった。
いただきます。
二人を無視して手を合わせると、すぐに復唱される。
食べ始めた和輝は何事もなかったかのように、呑気に餺飥を啜っている。霖雨ばかりが、二人の間で顔色を伺っていて、いっそ憐れに思った。
この馬鹿が回りくどい言い方をする時は、何かを隠している時だ。隠し事をしているから心的余裕がなくなり、結果、突っ掛かるような言い方で発散するのだ。これは八つ当たりの亜種なのだろう。
そして、これが経験則であるということは、自分も歴史ではなく、経験から学ぶ愚者であるということだ。
「近々、何かあるのか?」
葵が訊くと、和輝は仮面を剥がれたように楽しそうに笑った。
霖雨の溜息と同じだ。ーーただ、やり方が悪質だと思う。
「大学病院で現場実習があるから、二、三日留守にするよ」
ぽとりと、霖雨の箸が落ちた。
どうしてこの馬鹿は、当たり前に自分の話が伝わっているみたいに言うのだろう。
「現場実習って、何」
「医療現場で、実際にスタッフとして参加するんだ」
「新年まで一週間もないのに?」
「中々時間が取れなくて、先延ばしにしていたから、こんな時期になっちゃったんだよ」
頭痛を堪えるように、霖雨が眉間を揉んでいる。頭が痛いのは、同じだ。
「何処の大学病院に行くの」
「ドイツ。本格的な実習はまだ先なんだ。今回は手続きと挨拶だけ」
頭が痛い。
霖雨の話は、些事のように吹き飛んでしまった。