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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
迷宮の怪物
8/68

⑸アリアドネの糸

 寒くて堪らない。


 周囲は衝立のような冷たい壁に覆われ、何処まで行っても出口は見えない。此処は出口の無い迷宮なのだ。葵は思った。


 だが、ふと足元を見ると金色の糸が光っていた。これを伝って進めばいいのだ。何故だか、葵はそう解っていた。


 薄暗い迷宮にはミノタウルスという怪物が棲んでいて、生贄を求める。金色の糸を辿り、果たして自分は英雄テセウスなのか、憐れな生贄なのか、ミノタウルスそのものなのか、解らなくなってしまった。


 出口は近い。外界から齎される光の強さに目が眩み、葵は目を眇めた。光の向こうから二本の腕が伸びて来て、尻込みする葵の腕を力強く引っ張った。


 それが誰のものか、葵はもう、知っている。



 ※



 目を覚ました葵は、誰かに呼ばれたような気がして自室の窓を開けた。


 外は一面の銀世界だった。


 クリスマスを迎え、界隈の家々は挙って電飾で飾り立て、誰が一番かを競っているようだ。

 夜ならまだしも、朝方にまで光るイルミネーションは滑稽だ。煙突へ登るサンタクロースの人形が、此方を向いて手を振っている。



 泥棒みたいだな。

 吐き出した言葉も息も、白く染まって溶けてしまった。


 対象的に我が家は何の飾り付けもされていない。電飾はおろか、クリスマスツリーだってない。全てはイベント好きの和輝が不在だったせいだ。


 一般的には、クリスマスイブの夜と、クリスマス当日の昼にご馳走を食べるらしい。彼等の信じる神の生誕がクリスマスの朝だからだ。

 残念ながら、昨日の夜はご馳走どころではなかった。


 葵が意識を失った後、霖雨が葵の携帯電話を使って通報をしたらしい。


 エイミーの地下室から救出された葵と霖雨は、すぐさま病院に運ばれた。

 脇腹に刺されたナイフの切っ先は、肋骨によって内臓までは届かなかったらしい。傷跡を少し縫合しただけで、後の処置は殆ど必要なかった。


 ふと脇腹に疼くような痛みを感じ、掌で抑える。傷跡は既に縫合され、出血もなく経過は良好だった。


 一方、霖雨の全身には、虐待でもされたかのような酷い殴打の傷があった。

 入院を勧められたが、意識のしっかりしていた霖雨は、クリスマスは家で過ごしたいと言って断った。

 無宗教の癖に、人の良さそうな顔をして嘘を吐く。葵はほくそ笑んだ。


 処置を終えた葵と霖雨が病院を出る頃には、クリスマスイブは終わり、当日を迎えていた。

 粉雪の舞う深夜の病院で、移動手段も無く二人で立ち尽くしていた。

 状況は理解出来たものの、感情が追い付かない。まるで、猛スピードで動き続ける世界から置いて行かれてしまった浦島太郎みたいだと、思った。


 その時、雪の降り積もる深夜の駐車場へ、タクシーが滑り込んだ。

 そのままスリップ事故でも起こしかねない凄まじい速度だった。


 後部座席から弾丸のように飛び出して来た小さな青年は、真冬だというのに汗を掻いていた。慌てて駆け付けたのが丸解りだ。

 和輝は、病院の前で立ち尽くす二人を見付けると、この世の終わりみたいに真っ青になって駆け寄って来た。


 何があったんだ?

 大丈夫か?

 苦しくはないか?

 歩けるか?


 容態を早口に尋ねる和輝の口を塞ぎ、二人で再度タクシーへ押し込んだ。普段ではちょっと見られないような連携だった。


 葵が意識を失っていたのは、僅か数時間のことだったらしい。だが、その間に全ては片が着いていた。


 海外逃亡を図ったエイミーは、空港で捕縛された。今までの罪も明るみに出て、今は刑務所に押し込まれている。そして、家族は娘の不祥事によって社会的地位を損ない、会社の株価は大暴落している。


 そして、葵と霖雨は無事救出され、和輝は騒動に巻き込まれることなく帰国を果たした。


 タクシーで帰宅し、混乱する和輝を無視して、葵と霖雨は速やかに就寝した。一日に色々なことがあり過ぎて、疲れ切っていた。


 そうして目を覚ますと、何事も無かったかのような日常が戻って来ていた。

 キッチンでは和輝が、クリスマスのご馳走に腕を鳴らしている。霖雨はリビングのソファで退屈そうにテレビを眺めていた。


 大型の薄いディスプレイには、エイミーの起こした事件がドキュメンタリー風に報道されていた。


 事件の結末を追うマスコミの報道によると、エイミーは刑務所で心神耗弱状態で、事情聴取どころか会話すら成立しない。

 狂人というレッテルを貼られた彼女が、塀の外に出ることは、二度と無いのだろう。


 葵の起床を知ると、作業の手を止めた和輝が仔犬のように駆け寄って来た。


 大丈夫?

 しんどいところはないか?

 苦しくはないか?


 質問攻めにする和輝を押し退けて、葵はソファへ座った。頬に不釣合いな程の大きな湿布を貼った霖雨が、嫌そうに眉を寄せる。




「Merry Christmas」




 恒例の挨拶を口にすると、霖雨は溜息を零しながら、聖誕祭に相応しくない低い声で返した。

 ローテーブルの上には、飲み掛けのコーヒーが置かれていた。和輝が淹れるコーヒーも随分と久しぶりのような気がした。

 注文する前に、和輝は葵の元へマグカップを運んで来た。こういうところは、あの喫茶店の店主に似ている。


 マグカップに顔を近付け、芳醇なコーヒー豆の香りを堪能する。インスタントでは真似出来ない豊かな香りだ。

 柔らかな湯気を昇らせるコーヒーを口に含む。程良い苦味が口内に広がって、知らぬ間に強張っていた肩の力がすっと抜けた。


 葵がコーヒーに夢中になっていると、苦々しい顔で霖雨が尋ねた。




「お前、あの女の人の前で、俺の話した?」

「する筈ないだろ」




 即答した葵は、コーヒーの味わいを楽しんでいた。待ち望んでいた和輝の淹れるコーヒーは、相変わらず不安定で、ころころと味わいが変わる。

 それが面白いと思う程度には、絆されて来た自覚があった。


 納得していないような顔で、霖雨が言った。




「監禁されていた時、あの女の人が言っていたんだよ。お前が誰かと会う約束をしていたって。浮気だ、裏切り行為だってずっと言ってた」

「お前の話なんてしたこともないが、浮気も何も、無関係の他人だぞ」




 理解出来ない。そもそも、理解したくもない。彼女はもう、過去の人間だ。

 霖雨は腕を組んで、唸りながら考え込んでいた。その時、作業に区切りが付いたのか、キッチンから和輝がやって来た。




「あの人の中では、葵は恋人だったんだよ」




 エプロンで濡れた手を拭きながら、和輝が言った。

 理解出来ず、葵は顔を上げる。




「本当に無関係の他人だった」

「お前はそうでも、相手は違う。人の受け取り方は千差万別だからね」




 何かを知っているかのような言い方だった。

 和輝は事件に関与していない。エイミーのことなど、知っている筈もない。




「溺れる者は藁にも縋る」




 曖昧に頷いて、葵はコーヒーへ意識を向けた。

 どうして、霖雨に矛先が向いたのだろう。霖雨の話をした覚えは一度も無いし、二人で出歩くこと自体が稀だ。

 彼女は何を勘違いしたのだろうか。




「溺れる者が、間違ったものを掴んだからと言って、誰にそれを責められる?」




 和輝はそんなことを言う。

 エイミーは空港で捕縛された。奇しくも、和輝の乗った旅客機が到着した時刻と殆ど同じだった。


 何も関与していないとは、正直、考え難い。

 彼女が逮捕されたその場に、居合わせたのではないだろうか。葵は想像した。


 もしかすると、彼女を刑務所に送ったのは、和輝なのではないか。平気で美味しいとこ取りする男だ。舞台演者の退場を見送り、彼は何時ものようにそっと幕を閉じた。そんなことを思う。


 だが、詮索する意味も無い。このヒーローが口にしないということは、隠すと決めたことなのだ。自分に彼の嘘は見抜けない。

 キッチンへ戻って行く背中を見遣るが、彼が隠し事をしている素振りは無い。




「そういえば」




 唐突に思い出して、葵は問い掛けた。




「お前は、どうしてあの時、止めたんだ?」




 あの時ーー、葵はエイミーを殺そうとしていた。それが最も効率が良く、後腐れの無い平和的な手段だった。

 霖雨は眉間の皺を取り払って、答えた。




「お前の手を汚させたくなかった」

「何で?」

「罪には罰だろう。母国で大学を占拠された時、お前は犯人を殺そうとした。同じことが起こると思ったから」

「繋がりが解らないな」

「もう二度と」




 霖雨が言った。

 普段の柔和さを取り払った強い目をしていた。




「もう二度と、お前を独りにしない為だよ」




 あの日ーー。

 葵は、犯人を殺そうと思った。それ以外の選択肢はなかった。そして、ナイフを振り上げた時になって、自分が如何に孤独なのかを知った。

 自分に家族はいない。誰にも迷惑は掛らない。それなら、殺してもいいじゃないか。


 何が間違っているのだろうか。

 葵には、よく解らない。

 霖雨も何と言ったらいいものか、考えあぐねているようだった。其処へ愛用のマグカップを片手に和輝が戻って来た。




「言葉に囚われ過ぎるなよ」




 忠告するように、和輝が言った。




「お前は嘗てと同じようにナイフを振り上げて、人を殺そうとした。でも、今度は踏み止まった。それも、自分の意思で」




 どうだろうな。

 正直、記憶が曖昧だ。霖雨が自分を呼んで、何処からか和輝の声が聞こえたような気して、動けなくなったところを刺されたのだ。


 エイミーという異常者を思う。彼女は自分の相似形、有り得た未来の一つだ。彼等と出会わなければ、自分も孤独に怯え、同じような道を辿っていたのかもしれない。


 あの地下室へ続く回路は、まるで怪物、ミノタウルスを閉じ込めておく為の迷宮のようだった。本来ならば、自分も迷宮に閉じ込めておくべき人種なのかもしれない。自分と彼女の違いを考えた時に、頭に浮かんだのは和輝と霖雨の姿だった。


 彼等にさえ、出会わなければ。


 怪物、ミノタウルスを倒したテセウスは、迷宮から脱出する為に、アリアドネから受け取った糸玉を目印に結んでおいたという。

 ならばきっと、迷宮に彷徨う自分を救ったアリアドネの糸はーー、彼等だったのだ。




「大分、人間らしくなって来たじゃないか」




 悪戯っぽく、和輝が笑った。

 何だか納得行かなくて、追及してみようかとも思った。だが、それより早く、和輝が言った。




「今夜はビーフシチューだ。クリスマスケーキもあるから、楽しみにしていてね」




 ビーフシチューか。久々に凝った料理を作っているらしい。

 ディナーのために朝から準備しているのだ。

 余計なことは考えるのを止め、葵は再びコーヒーへと向き直った。








 迷宮の怪物

 ⑸アリアドネの糸







 食事の準備も粗方終わり、和輝は自室へ籠っていた。

 携帯電話の電源を入れる。発信履歴には、大切な友達の名前がずらりと並んでいる。その中に、名前の無い番号の羅列が、一つ。


 刑務所の所長だった。

 この所長は所謂ショタコンで、和輝を性的対象と見做している。関わり合いたくない人種だったが、今回ばかりは、その性的趣向に助けられた。


 葵と霖雨が病院へ搬送されたと聞き、和輝は何か出来ないかと逡巡した。犯人の逮捕は元より、刑務所で服役する女が刑期を終えて釈放されたり、脱獄して再び葵と霖雨を狙うような事態は、何としても回避しなければならなかった。


 和輝は所長の元へ出向き、服役する彼女をどうにか出来ないものかと相談した。

 鼻の下を伸ばし切った所長は、理想の性的対象物を前に興奮していた。手玉に取るのは容易かった。もう二度と会わないことを誓いながら、和輝は所長の提案に乗った。


 その一つが彼女に下された狂人というレッテルだった。精神鑑定の結果は知らないが、最後は必ず黒になるように仕向けた。


 そして、もう一つ、彼女をエロトフォノフィリア(Erotophonophilia)の牢獄へ入れることだ。


 医師の下したレッテルのお蔭で、社会復帰は望めない。

 そして、牢獄に安息の地はない。あの暗くて狭い牢獄で、自分が何時殺されるのかと怯えながら過ごすのだ。

 刑量を決める裁判所にも手を回した。情状酌量の余地は無く、すぐに無期刑か死刑の判決が下るだろう。


 やるなら徹底的に、叩くなら折れるまで、だ。

 裏工作は自分の立ち位置を不安定なものにし、弱みを作ることになる。それでも、和輝に迷いはなかった。


 長い冬を越え、雪が溶けていくように人間らしくなっていく葵が、少しでも安心して笑っていられるなら、それで充分だ。


 禍福は糾える縄の如しだという。冬が来れば春が来る。その逆も言えるだろう。

 だが、凍える冬が幾度となく彼を凍土の下へ呑み込もうとしても、何度でも春の日溜まりの下へ連れ出してやりたいと、思う。

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