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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
迷宮の怪物
7/68

⑷鉄槌

 追試を突破したから、クリスマスには帰るよ。


 ヒーローからのメッセージが届いていた。世間はクリスマスイブに浮き足立ち、まるで白昼夢のようだと思った。


 結局、霖雨は帰って来なかった。携帯電話は繋がらず、電波すら発信されていない。

 彼の抱える特殊性を考えると、事件に巻き込まれている可能性が大いにある。警察に通報するべきなのか否か、葵は粉雪の舞う鉛色の空を眺め、考えあぐねていた。


 エイミーも監視しているが、目立った動きはない。これでは、まるで自分が彼女のストーカーのようだ。

 葵は点けっ放しだったノートPCの電源を落とした。視界が激しく点滅し、頭が痛かった。肩凝りから来る頭痛なのか、眼精疲労によるものなのか解らない。

 自分で肩を揉むと、強張った筋がごりごりと鳴っていた。


 霖雨が消えて丸一日が経過した。自分ならば、殺害し、死体を遺棄するのに充分な時間だ。

 山奥に埋めるよりは、海に流す方がいい。魚類が餌として、肉と共に証拠を隠滅してくれる。潮の流れを予測すれば、死体を運ぶことも容易い。


 そんなことを考えて、自分の思考回路を否定する。ーー違う、これは一般的な思考ではない。


 正解が解らない。エイミーの家を捜索すれば、何かしらの証拠が出て来るかも知れない。だが、リスクが高過ぎる。自分が責任をとって済む問題ではないのだ。この家には善良な一般市民が二人もいる。彼等に迷惑は掛けられない。


 何度も思考を放棄しようと思った。

 もういいじゃないか。面倒だろう。ーー殺してしまえば、全部、終わる話だ。

 疑わしきは罰せよ、だ。

 それでも、和輝がもうじき帰って来ると言うから、葵はぎりぎりのところで踏み止まっていた。


 疲労を感じ、頭を切り替える為に洗面所へ向かった。鏡に映る自分が死人のような酷い顔をしていたので、自嘲が溢れた。

 冷水で顔を洗うと、ショート寸前の思考回路が沈静化したように感じられた。


 そういえば、買い物に行っていない。

 買い物リストは携帯電話にメモを取ってある。メモ帳のアプリを開き、眺める。


 緑黄色野菜、牛肉、赤ワイン、小麦粉、砂糖、ビール、ライムーー七面鳥。

 異国の神の生誕祭に乗じて浮き足立つ和輝の姿が思い浮かんで、葵は笑った。


 キッチンの換気扇の下に移動し、煙草に火を点ける。ふわふわと足元が不安定に揺らいでいた。

 先端の炎がカートリッジに届く前に灰皿へ押し付け、葵は顔を上げた。頭は相変わらず愚鈍なままだったが、先程よりは幾らかマシだろう。


 もうすぐ、この家にはヒーローが帰宅する。その時に、誰もいないのでは顔向け出来ない。葵は必要最低限の荷物を鞄へ放り込み、家を出た。


 向かう先はエイミーの自宅だった。

 彼女の生活圏はその外見に反して狭い。自宅とアルバイト先と、大学だけだ。交友関係も狭く、交流があるのはアンダーグラウンドな男ばかりだった。

 エイミーはその男達と淫らな生活を送りながら、学業に打ち込む真面目な女子生徒を演じている。


 父親は大手企業の重役で、妻と共に毎晩のようにパーティへ繰り出している。典型的な成金で、羽振りの良さは界隈に知れ渡っていた。その分、家庭に関心は殆ど向かず、自宅も留守にしがちだった。


 娘は美しい容姿をしていて、淑女としてパーティでは多くの男を惹き付けた。万人が羨む抜群のプロポーションに、婚姻を申し込む男も多い。そして、娘が度々起こす不祥事は父親が金と権力で揉み消して来た。


 一等地に建てられた豪邸には何人もの家政婦が住み込みで働いている。しかし、娘を監視する者は無い。彼女の抱える孤独感は、家族からの関心の無さが原因だろう。


 男を自宅に連れ込んでも、家政婦は目を瞑る。誰もそれを咎めない。


 豪邸の前に立ち、葵は携帯電話を取り出した。霖雨の携帯電話から発される微弱な電波を探って、到達した先は此処だった。現在では電波が途絶えてしまっているが、最後にその電波が発信されたのは彼女の自宅だ。


 僅かな手掛かりを頼りに進むのは、英雄テセウスがアリアドネの糸を頼りに迷宮を脱出する様に似ていると思った。

 この糸の先にいるのが怪物でも妲己でも、葵にはもう構わなかった。


 携帯電話をポケットへ押し込み、葵は牢獄のような門扉を攀じ登った。


 こういった建物はセキュリティが万全だ。通常ならば、侵入者が見付かると警備員が飛んで来る。だが、怠惰なこの建物の使用人は目を瞑り、看過する。

 葵が門扉を突破しても、警報はおろか、使用人は誰一人駆け付けはしなかった。


 玄関を避け、キッチンに繋がる裏口から侵入した。昼食の準備に料理人が齷齪働いていたが、葵の存在を知覚する者はいない。

 葵は悠々と廊下を闊歩し、目的地へ向かうことが出来た。


 この建物には地下室がある。彼女の自室から繋がる回廊は薄暗く、まるで出口の無いトンネルのようだった。


 到達した其処は、エイミーが男を連れ込み、情事に耽る為に大きなベッドが置かれていた。

 薄暗い地下室には生臭い精液と血の臭いに満ちていた。呼吸すら生理的に受け付けない。ごみ捨て場と呼んでも、まだ生温いように思った。


 ギリシア神話に登場するミノス王は、海洋の神であるポセイドンとの約束を違え、ミノタウロスと呼ばれる怪物の息子を授かった。

 成長するに連れて凶暴になるミノタウロスが手に負えなくなると、ミノス王は、ダイダロスに命じて迷宮を建造させ、其処へ息子を閉じ込めた。


 此処は、怪物を閉じ込める迷宮なのだ。

 凶悪な怪物を地上へ放つことのないようにと作られた牢獄だ。


 大きなベッドは鉄製の丈夫なものだった。枕元に、錆びた手錠が下げられていた。不気味な鎖の先には、見覚えのある青年が生贄のように繋がれていた。


 霖雨だ。

 嘗て、霖雨は彼に執着する薬物中毒者に拉致されたことがある。其処で霖雨自身も違法薬物を投与され、意識不明になっていた。ーーだが、犯人は霖雨に暴行を加えはしなかった。


 精巧なビスクドールみたいな顔は赤く腫れ、身体には幾つもの痣があった。鞭で叩かれたような蚯蚓腫れは出血し、手当てされる筈もなく血液がそのままに固まっている。

 取り払われた衣服は血塗れだ。散々に痛め付けられた裸体を投げ出す青年は生死不明で、ぴくりとも動かなかった。


 薄暗い視界の中で、光が点滅していた。靄が掛かるようにして頭が真っ赤に染まり、葵の中では何かが爆発した。

 目の前の出来事が遠い世界のことのように感じられて、自分の身体を何者かが操縦しているようだった。


 ぱちん。

 部屋の中は蛍光灯の白い光に照らされた。地上へ続く扉の前には、輝くような真紅のドレスを纏ったエイミーが立っていた。


 エイミーは葵を見ると、三日月のように口元を歪めた。




「待っていたわ」




 恍惚に微笑むエイミーが、過去の光景と重なった。

 嘗て自分の兄を殺した殺人鬼が、姿形を変えて其処に立っている。


 何度同じ場面が訪れたとしても、自分は同じ選択を下すだろう。これ以外の選択肢があるだなんて、信じられない。


 葵は、猛獣が獲物に襲い掛かるように、一瞬にして間合いを詰めた。驚愕に目を見開いたエイミーが遠くに見えた。

 振り上げられた拳は空気を裂くようにして、エイミーの美しい相貌へ叩き付けられていた。


 華奢な身体は、想像よりずっと簡単に吹っ飛んだ。壁に衝突したエイミーは激しく噎せ返り、小動物のように震えている。葵は音もなく歩み寄り、胸元の肌蹴たドレスをぼろ布みたいに掴んでいた。




「立て」




 地を這うような低い声が出た。エイミーのグレーの瞳に、表情のない自分の顔が映っていた。




「殺してやる」




 他に選択肢があるだなんて、許さない。どんな償いをしたところで、許されはしない。情状酌量も更生の余地も無い。彼女は社会における癌細胞だ。存在するだけで悪影響を齎す。


 エイミーが何処からかナイフを取り出した。鈍色の光を放つそれに恐怖は無い。槍のように突き出された刃を避け、葵はそれを肘で叩き落とした。

 足元に転がったナイフを拾い上げ、葵はうっとりと嗤った。


 仕方ないじゃないか、邪魔なんだから。

 正当防衛だ。敵討ちだ。これは神の鉄槌だ。事実は幾らでも捏造出来る。自分ならば、この女を殺し、誰にも見られないように遺棄出来る。

 自分は、この女を、ーー殺せる。




「葵」




 掠れるような声が呼んだのは、葵がナイフを振り上げたのと殆ど同時だった。あとはそれを振り下ろすだけなのに、ブレーキでも掛けられたように固まってしまった。




「駄目だ、葵」




 駄目だ。

 意識の無い筈の霖雨が、縋るように、呻くように訴える。何故だか急速に視界が開けて、葵の視界はフラッシュした。


 兄を殺した殺人鬼が、友達を人質に大学を占領した。大勢の無関係の人間が殺された。葵はその殺人鬼を殺す為に、ナイフを振り上げた。ーーだが、それは駆け付けた友達に阻まれた。

 渾身の力で殴り飛ばされた。葵には意味が解らなかった。

 大義名分があって、圧倒的多数の人間がそれを望んでいた。自分には責任も権利もある筈だった。それでも、友達は本気で怒って止めた。


 どうして、人を殺してはいけないの?


 葵の問いに、答えた人間がいた。この地にいないヒーローだった。

 俺が嫌だからだよ。

 何の説得力も無いただのエゴが、葵の心を繋ぎ止めた。


 その時だった。

 エイミーは硬直した葵からナイフを奪い取った。そのまま赤子の手を捻るが如く、ナイフは脇腹に突き刺さった。


 事態を呑み込めないまま、葵は後退り、壁に衝突した。凭れ掛かかるように、ずるずると座り込む。地下室にはエイミーの狂気染みた高笑いが響き渡った。


 ナイフを投げ捨てたエイミーが、真紅のドレスを翻して駆けて行く。それを追わなければならないと解っているのに、身体が重くて動かなかった。


 エイミーの逃亡した血腥い地下室で、手錠に繋がれたまま、霖雨が呼んだ。血を吐くような悲痛な声だった。

 応えなければ、と思うのに、葵の意識は其処でぷつりと途切れてしまった。








 迷宮の怪物

 ⑷鉄槌









 女は走っていた。


 人類の進歩に貢献したかのような達成感と、違法薬物による神経の興奮にも似た奇妙な高揚感に酔いながら、只管に走っていた。


 逃げなければならない。

 女は人を殺したと思った。この世で最も愛しい人間と、最も憎い人間を始末したと思ったのだ。彼女は殺人の経験が無い。だから、致命傷を与える程の傷がどのようなものなのか知らなかった。


 この国から脱出しよう。そうすれば、誰も自分を罰せない。

 罪の意識は殆ど無かった。自分は英雄だと思い込んでいた。


 最愛の人は、自分を裏切った。だから、罰したのだ。ナイフを刺され倒れる様を見て、これは天罰だと思った。

 それでも、頭の固い世間は白い目で見るだろう。それなら、ほとぼりが冷めるまで国外で過ごし、世界が自分の偉業を認めるまで身を潜めていよう。

 やがて、世界は間違いを認め、自分をスポットライトの下へと招くのだ。


 荷物は殆ど無かった。必要なものがあれば、現地で買えばいい。自分の父は何があっても守ってくれる。だから、自分は身一つで飛び立てばいいのだ。


 行き先は、別荘のある欧州だった。

 海辺に建てられた別荘は、贅の限りを尽くした美しい建物だ。白いバルコニーからは広大な水平線がパノラマ写真のように見渡すことが出来る。其処に立つと、まるで自分が世界を手に入れたかのような充足感が得られた。


 早く、あの場所へ行こう。


 道行く愚かな民衆は、自分を見て奇妙な顔をしていた。子どもは恐ろしいものを見るかのように顔を引き攣らせ、女は悲鳴を上げた。

 今日の自分は完璧だ。今なら、神だって跪き、僕にしてくれと願うだろう。


 空港に到着し、搭乗口へ向かう。自分の顔は知れ渡っているから、パスポートなんて必要ない筈だ。機内が満員でも、他の客を降ろしてでも自分を優先させる筈だ。

 誰も自分に逆らえない。




「Hello」




 急いでいる時に、邪魔が入った。

 呼び掛けられ、振り向く必要もない筈なのに、女は吸い寄せられるようにして声の主に身体を向けていた。


 ヒールを履いている自分よりも小さな青年だった。十代後半だろうか。ビロードのように滑らかな生地のピーコートに、赤いチェックのマフラーを巻いている。

 何者だろうと、女は青年の相貌を見て、雷に打たれたように硬直した。


 傷一つ無い白磁のような肌、通った鼻梁。長い睫毛に彩られた大きな瞳は、吸い込まれるような透明感のある濃褐色をしていた。

 小さな口元には可愛らしい笑みが浮かび、まるで、天界から舞い降りた天使のようだった。


 自分は、彼に逢う為に此処へ来たのだ。

 女は強く思った。青年は自分の全てを受け入れるかのように穏やかに微笑んでいる。

 今すぐ、青年に抱き締められたかった。同時に、彼の全てを支配したいと思った。生理的欲求に近い強烈な衝動だった。

 衝動に突き動かされるまま、女は青年の元へ歩み寄った。


 自分が彼に逢う為に此処へ来たように、彼も自分を抱き締める為に此処にいたのだ。女はそう思った。


 完成された絵画のように、青年は美しく微笑む。女はその胸へ飛び込んだ。ーーその瞬間、身体は何かに弾かれるようにして、タイルの床へと倒れ込んでいた。


 何が起きたのか解らなかった。

 混乱する女の視界に、制服を纏った警察官が波のように押し寄せる。溺れてしまいそうだと、女は手を伸ばした。彼はきっと、この手を取ってくれる。


 青年はもう、笑っていなかった。

 絶対零度の無表情で、瞳に嫌悪を浮かべて見下ろしていた。




「俺の友達に、二度と近付くな」




 それは、女の理解出来ない異国の言葉だった。それでも、女は青年の拒絶を感じられずにはいられなかった。


 どうして?

 女は思った。

 自分は世界に認められ、求められる人間なのだ。全ての男は自分に跪き、愛を強請る。それなのに、どうして?


 青年は最後に冷ややかな一瞥を送ると、全ての興味を失ったかのように歩き出した。迷いの無い足取りで、小さな背中は波間へと消えて行く。

 女は叫んだ。その声は誰にも理解されない。

 警察官に拘束され、見下ろして来た筈の民衆から蔑まれ、地面へ縫い付けられるように引き摺られていく。


 青年は二度と、振り返らなかった。

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