⑻夜明け
厳しく眦を釣り上げるのは、この国の碩学である司法の番人だった。彼等は斬罪する裁判官の如く見下ろして、顔を強張らせたままぴくりとも動かない。
和輝は机の上に晒された頼り無い書類の束が、まるで濁流に飲み込まれる木片の欠片に見えた。
番人の眼光は刃のように鋭く貫いている。蛇に睨まれた蛙になってしまったようだ。掌にじわりと汗が滲み、今すぐに隠れてしまいたかった。
「ーー正気かね」
否定を許さない強い口調で、番人が言った。
法務省管轄の精神病院に勤務するこの国を代表する精神科医だ。間違っても、駆け出しの和輝が歯向かえる相手ではない。
ただし、提出した書類には父の名前が添えられていた。それは和輝が持つ唯一の対抗手段だった。
神木葵の診断書だ。
カウンセラーとして活躍する父の名を借りて、和輝は持論を展開していた。神木葵はPTSDを発症し、殺害は全てパニック状態によるもので、刑事責任は問われない。だが、これは彼の無罪を示すものではない。
嘗て彼に下されたサイコパスという診断を覆す為のものだ。
階級社会のこの国で、権威に楯突く事がどのような結末になるのかは解らない。どうせ、自分はこの国の医者ではない。
「君の望みは何だ?」
「神木葵の名誉回復です」
「名誉?」
和輝は頷いた。
まだ春先だと言うのに、下ろしたてのシャツはしっとりと汗ばんでいた。自分が緊張している事が解る。
「神木葵は、サイコパスではない」
此処で証明しなければならなかった。和輝には、四年前の記憶が無い。神木葵がどのような人間なのかなんて知らない。ーーけれど、此処で否定をしなければ、彼を助けようとして来た人間の努力を踏み躙る事になる。
「神木葵はPTSDによる心神耗弱で、犯した罪は正当防衛が成立し、検察側の証拠は乏しい」
和輝は背負ったバッグパックからA4サイズの書類の束を取り出した。それを男の眼前へ叩き付けた時、ずしりと重い音がした。質量とは異なるそれは、目に見えない人の命の重みだと思った。
「これが、その証拠です」
精神科医による診断書と、当時のずさんな捜査資料を糾弾する控訴状だ。其処には和輝と、父、そして、弁護人である霖雨の名が添えられている。
「神木葵は警察官の家系に生まれました。彼の肉親は全て殉職している。国家の犠牲となる事が、彼等の正義だったからだ」
「公僕である以上、当然の事だよ」
「公僕である以前に、彼等は人間だ。生命は尊重されるべき個人の権利であり、それを脅かすものは、例え国家であろうとも許されない」
「犠牲となる事を望んだのは、その個人だ」
「ええ、そうでしょう。彼等は、民意という目に見えない不特定多数の意見に押し流され、個人の思想すら塗り替えられた犠牲者だ」
和輝はゆっくりと目を閉じた。其処に蘇る記憶は無いけれど、面会室の硝子越しに見た奈落の底みたいな双眸を知っている。
深い諦念と絶望だ。彼は闇の中で、今も孤独に膝を抱えている。
目を開くと、司法の番人が感情の無い無表情で待ち受けている。和輝は呑み込まれまいと、楔を打ち込むように男を睨み付けた。
「だが、神木葵は違った。個人の思想は多数決に従わず、その尊厳は守られるべきものであると知っていた。彼は、生きようとしたんだ!」
医療は科学だ。当然、医者は科学者だ。医療は積み重ねた屍によって作り上げられて来た。
確証の無いものは信じない。人の善意や理想なんて目に見えない曖昧な指標に囚われて舵を失くすなんてことは有り得ない。
神木葵の兄、蓮は殺された。だが、犬死ではなかった。彼は弟を救う為に命を懸けたのだ。少なくとも、和輝はそう思う。先人の積み上げて来た思いを踏み躙るような真似は誰にも出来ない。
「医学的な検証の結果、神木葵は極普通の一般人だと言っているのです。彼の犯した罪については、俺には立証の手段が無い。けれど、神木葵は償い続けて来た」
これ以上、彼を閉じ込めて置く事は許されない。
神木葵が尊重されるべき社会の一員だと証明される限り、国家にはそれを保護する義務がある。
「神木葵を社会へ放つと言うことは、国家転覆の戦犯と罵られる覚悟が出来ているのだろうね?」
目の前の男の双眸は刃のように鋭かった。まるで脅し付けるような物言いの影には、神木葵への畏怖が感じられる。
国家転覆とは大袈裟な物言いだ。神木葵はサイコパスではない。けれど、彼は常人ならば踏み止まるところで、アクセルを踏む事が出来る。そして、暴走した時に歯止めを掛ける術が無い。
だが、和輝は一つの可能性を抱いていた。
四年前、彼は薬物の影響を受けていたとは言え、三人の命を奪った。元々、彼にとって他人の命など取るに足らない路傍の石に過ぎないのだ。だが、その犯行がぴたりと止まった時期がある。
霖雨が言うには、自分が側にいる時には神木葵は人を殺さない。俄かに信じ難いが、神木葵は和輝を亡くした兄と重ね合わせていた。だから、和輝がいる時は、人を殺す必要が無いのだ。
神木葵が殺人衝動に駆られたきっかけは、兄の死だった。和輝の存在は兄の代替品として、成り立つのだ。
それが事実ならば、選択肢は一つしか無い。
和輝は深く息を吸い込んだ。そして、腹に力を入れて答えた。
「俺が、神木葵の担当医になります」
男の目が怪訝に細められた。
「君が見張っていると言うのか? 何故、其処までする? どうせ、あの青二才の弁護人に唆されたんだろう?」
霖雨の事だ。
唆されたのかも知れない。和輝が此処にいるのは、霖雨の策略だった。だが、覚悟を決めたのは、自分だ。清濁合わせ呑む覚悟を無くして、人を救えるとは思わない。
和輝は腹に力を込め、覚悟を決める。きっと、この先、如何ともし難い諦念に膝を着く日も来るのだろう。現実は自分が思う以上に厳しく冷たい。だが、もう死ぬかも知れないと覚悟を決めなければならない時でも、真っ直ぐに前を向いていたい。
足掻け、躊躇うな、信じろ。ーー何度でも!
「神木葵はサイコパスではない。それを証明して見せます」
言葉で足りないのなら、行動で示すしかない。
理想やきれいごとなんて、机上の空論だ。放棄と言う選択肢が端から無い以上、現実にする為に抗い続けるしか無いのだ。
男は糸のように目を細め、口元に微かな愉悦の笑みを浮かべていた。
「君が殺されない事を、祈るばかりだよ」
話は終わりだ。
放逐するように手を振った男に礼をして、和輝は席を立った。酷く呆気ない幕切れだ。四年間に渡り警戒し、拘束して来た人間を釈放しようとしているとは思えない。
喉の奥に小骨が引っ掛かったような違和感を抱きながら、和輝は部屋を出ようと扉へ手を掛けた。ーーその瞬間、和輝の目には有り得ないものが映った。
取っ手へ伸ばした指先から、銀色の糸が伸びている。
針が、五指の爪と肉の間に突き刺さっていた。それを伝って真っ赤な血液が流れ落ちる。
思わず悲鳴を上げそうになり、和輝は弾かれたように手を離した。その瞬間、全ての光景は消え失せていた。
背中に、断罪する裁判官のような冷酷な声が突き刺さった。
「コンティニューするかい?」
その時、和輝は錐で顳顬を貫くような激しい頭痛と強烈な既視感に襲われた。嫌な緊張感に臓腑が冷えて、指先から感覚が失われて行く。運動直後みたいに息が上がっていた。
知らない筈なのに、よく知っているような気がする。だが、和輝にはそれが誰なのか思い出せなかった。
見えない糸で引っ張られるように、和輝は振り返った。男はブラインドを背中に、机の上に肘を突いてにっこりと微笑んでいた。差し込む光の中で男の姿が朧に霞み、幻覚を見せる。愉悦に歪む男の双眸が、緑柱玉のように光って見えた。
視界が点滅し、過去と現実が交錯する。
手足の末端から剃刀で削がれたように、皮膚がべろべろと捲れ上がる。無影灯の白い光と、筋繊維の桃色が網膜に焼き付いて、それが妄想だとは如何しても思えなかった。
頭が割れそうだ。
和輝は柵を振り払うように奥歯を噛み締め、呼吸を整えた。
「何度でも」
失礼します。
和輝は小さく会釈をして、部屋を出た。幻はエアコンの風と音の中で消え去ってしまった。
Hello,world‼︎
⑻夜明け
「神木葵、釈放だ」
機械音声のような感情の無い声で、看守が言った。
葵は青天の霹靂と言わんばかりの宣告に驚いたが、抵抗する理由も無く、促されるまま檻の外へ出た。
完璧に整備された美しい廊下を抜け、最後の扉を開け抜ける。自分が四年間過ごして来た箱庭だ。不自由はあったけれど、居心地は悪くなかった。その安寧の地から態々連れ出した者が誰なのか、葵は知っている。
余計な事をしやがって。
胸の内に吐き捨てた悪態は、舌打ちとなって零れ落ちた。
四年間越える事の出来なかった外界への扉が放たれる。蛍光灯ではない日光の眩しさに目が眩み、葵は真っ直ぐに歩く事すら困難だった。
光の中に、小さな青年がいる。
浮かび上がるシルエットが誰なのか、葵は知っていた。
和輝が、何かを堪えるような無表情で待っていた。
こんな顔も出来るのだな。葵はそんな事に感心しながら、光の中に立つヒーローを睨んだ。
「何で此処までするの」
葵が問い掛けた時、和輝は子犬のような丸い目を瞬かせた。長い睫毛が影を落とす頬は、四年前に比べやや肉が削げ、精悍な顔付きになっている。
このヒーローが記憶を失くし、自分が母国へ強制送還されてから四年もの月日が流れた。今の和輝が負うべき義務は塵一つ存在しない。
少なくとも、自分ならば、しない。
尤も、自分の価値観は世間一般とは異なるらしいが。
和輝は梟のように首を捻った。
「解らない」
「身の丈以上のトラブルには介入するな」
「それって、誰が判断するの? やってみないと解らない事もあるだろ」
「先人の功績を活かせよ」
「地球上の累積人口は一千億以上だぞ。何処の誰の功績を採用するのかは俺が決めるよ」
「お前の言っている事は筋が通っていない。都合の良い解釈ばかりだ」
「物事には様々な側面があって、見方次第で変わるって事だね」
「ほら、そういうところ」
葵が指摘すると、和輝は不満そうに口を尖らせた。
彼にとってこの措置は、親切なのだ。これでは満員電車で席を譲った老人に責められたようなものだ。和輝の不満も解るが、葵はそれを望んでいなかったので、大きなお世話だった。
葵は、ずっとこの隔離施設にいても構わなかった。
個人の自由やプライバシー等は存在しなかったが、此処にいれば、傷付ける事も、傷付けられる事も無かった。
和輝は、自分だけに累が及ぶ範囲では、リスクの高い選択をする傾向がある。自分の命を勘定に入れず、他者の為と言う独善で奔走する。
彼がヒーローたる所以は、その独善を正解にしてしまうだけの行動力だ。現実が理想と異なっていれば、徹底抗戦し、実現する。それが正解であると証明する。
葵には、和輝のような行動力は無い。
こんな人間が他にいたなら、それこそ民主主義の社会は崩壊するのではないだろうか。
何時かの過去を彷彿とさせる遣り取りだ。
顔付きばかりが大人になって、中身はあの頃とまるで変わらない。それでも、記憶は失われていると言うのが、意味不明だった。
何の縁も無い筈の自分の為に、如何して此処まで行動力を発揮出来るのだろう。
和輝は困ったように眉を寄せて、言い訳のような頼りない声で言った。
「俺が嫌なんだよ」
「何が」
眉間の皺はますます深くなる。
彼は言葉を知らない。相変わらず語学には疎いらしい。自分の思いを表現する方法が乏しいのだ。
「お兄さんは、お前を救う為に命を懸けたんだ。その結果がこんな現実だなんて、虚しいじゃないか」
「現実なんて、そんなものだ。思い通りになる事は少ない」
「でも、俺は嫌なんだよ」
その時、和輝の丸い瞳に微かな光が見えた。澄んだ湖畔のような透明感のある眼差しだ。その瞳は鏡の如く葵を鮮明に映していた。
何故だか、その眼差しは、失った筈の兄と重なって見えた。
「お前の罪は立証出来ないし、密入国についての罪は刑期が終わっている。此処に拘束される理由が無い」
「余計なお世話なんだよ」
「お前は此処にいる事が贖罪になると思うの?」
「五月蝿い」
そんな事は、言われなくとも解っている。
葵は苛立った。
「死者は蘇らない。俺の兄も、俺が殺した人間もね。それなら、誰に許しを乞い、罪を償えば良い?」
葵は、他に償う方法を知らない。死者は蘇らないのならば、罪を背負い生きて行く事が贖罪になるのだと思った。
和輝は顎に指を添え、逡巡するように目を伏せた。日差しが睫毛を滑って、光り輝いているように見えた。
「それなら、死んでしまった人にも認められるくらい、強く堂々と生きて行けば?」
まるで当たり前の事みたいに、和輝が簡単に言う。
それが難しいのだと、葵は反論しようとして、ーー辞めた。そんな事、彼が一番解っている。
和輝は不思議そうに首を傾げている。何だか馬鹿らしくなってしまって、葵は込み上げて来る可笑しさを堪え切らなかった。
強く堂々と、か。
きっと、四年前のヒーローも、同じ事を言ったのだろう。彼は記憶を失くし、大人になった。だが、生まれ持った人間性は変わる事が無い。彼が膝を着く時は、死ぬ時なのだろう。
「俺はお前の担当医だ。飼い殺してやるから、覚悟しろよ」
「結局、飼い主が代わっただけだな。それなら、お前が死ぬ時は、俺が殺してやるよ」
「俺は大往生して、家族に看取られて、布団の上で死ぬつもりだけど」
なるほど、それも想像出来る。
そんな事を考えていると、車のクラクションが高く尾を引いて響き渡った。
葵の目には黒塗りのスポーツセダンが映った。運転席の霖雨が、車窓を全開にして此方を見ている。猫のような目をした白崎匠は、後部座席で、何を考えているのかよく解らない無表情で待っていた。
霖雨は扉を開け、はにかんだように笑った。
「元気そうじゃないか」
「うるせーよ」
「ははは」
促されるまま、葵は助手席へと乗り込んだ。
和輝は後部座席の白崎匠の隣に身を滑り込ませる。霖雨は車のエンジンを掛けた。
「さあ、行くぞ」
霖雨が言った。
何処へ行こうと言うのだろう。葵が尋ねようとした時、遮るようにして白崎匠が言った。
「神木葵。お前は精神病患者と認定された。隔離施設に収容される事は無いが、外出する時は担当医の許可が必要だ」
「ああ」
「担当医の和輝は欧州の医師だ。お前は完治するまで、欧州へ渡ってもらう」
「はいはい」
まるで、お荷物だな。
匠の物言いは如何にも不満だと言っている。しかし、葵に選択肢が無い以上、受け入れるしか無かった。
車は住み慣れた箱庭を出て、何処かへ向かっている。霖雨の滑らかな運転は、眠くなる程の安全運転だった。
このまま空港にでも行くのだろうか。
葵は過ぎ去って行く風景をぼんやりと眺めていた。後部座席では和輝と白崎匠が溜息の出るような退屈な小競り合いをしている。車の中は聞き覚えのあるロックバンドのバラードがBGMとして静かに流れていた。
MOPだ。
グレンのふて腐れた顔が思い出される。彼等はメジャーデビューし、映画の主題歌として採用されるくらいの人気を得ているらしい。
彼等を高く評価する聴衆は、そんな彼等が実はたった一枚のコインで一度は解散してしまっただなんて、知る由も無いのだろう。
Hope, hope, and hope‼︎
声を嗄らすように、彼等が叫んでいる。
それが救いの言葉なのか、嘆きなのか、葵にはよく解らない。
空港へ向かうと思われたが、霖雨は都心から離れた小さな集合墓地で車を停めた。葵は初めて来た場所であったが、此処が何処なのか、知っていた。
何事も無かったかのように、和輝と白崎匠は仲良く後部座席から出て来た。霖雨はエンジンを止め、葵を促す。
和輝と白崎匠に先導され、人気の無い墓地を進む。
其処此処に整列した墓石は、深く地面に根を下ろし、未来永劫口を噤むのだ。微かに聞こえる小鳥の囀りと木々のさざめきが何処か虚しく響いていた。
先導する二人は、迷う事無く、一つの墓石の前に立った。灰色の御影石で出来た和型の墓石は、日光を反射して美しく輝いている。
神木家之墓。此処は、両親と兄の眠る墓だ。
両親が死んでから訪れた事は無かった。だが、墓石は鏡のように磨き込まれ、苔すら生えていない。寺の住職が手入れしていたのだろうか。備えられた仏花は瑞々しく、既に線香が焚かれていた。
誰かが来たのだろう。供えられた缶コーヒーは無糖だった。兄がよく飲んでいた事を思い出し、葵は既視感に胸が締め付けられるような痛みを感じた。
その時だった。
コンクリートの白い道を踏み締め、二人の男が歩いて来た。一人は烏のように真っ黒なスーツを纏い、一人は洒落たグレーのスーツ姿で、手桶を下げている。
「遅かったな」
香坂が、言った。
葵の名義上の保護者で、兄の元同僚。恐らく、この男が兄の墓石の手入れをしてくれたのだろう。
黒いスーツの男、黒薙は昔のままの無表情だった。
自分を釈放させる為に、彼等が尽力したのだろう。
刑事の香坂と黒薙、弁護士の霖雨、精神科医の和輝。彼等が積み上げて来た結果が、今の自分なのだ。
和輝は背負っていたバッグパックをごそごそと漁り、ビニール袋に入った調理パンを取り出した。安っぽいパッケージには、カレーパンと大きく印刷されている。
「ほら、これ」
カレーは用意出来なかったんだよ。
申し訳無さそうに、和輝が言った。葵は黙ってそれを受け取った。
兄が死んだ日、葵は喧嘩をした。
仲直りは、出来なかった。葵は兄が帰って来ると信じて、カレーを作って待っていた。代わりに兄は、葵の好物のチーズケーキを買って帰って来る筈だった。それが自分達の仲直りだったから。
腐って食べられなくなってしまった鍋一杯のカレーを思い出す。鍋ごと袋へ押し込んだ時に漂った腐臭が、今も鼻の奥に残っているような気がした。
香坂が、言った。
「あの日、蓮は署の近くのケーキ屋に予約をしていたらしい。二つのチーズケーキだった。それが、お前等の仲直りだったんだろ」
そうか。
自分だけでは、無かったのか。
葵はしゃがみ込み、カレーパンを墓前に供えた。何とも間抜けな形だ。葵が手を合わせると、霖雨が線香を焚いた。隣で和輝と白崎匠が揃って手を合わせた。
故人の冥福を祈るだなんて、自己満足だ。だけど、それでも。
ありがとう。
それ以外の言葉が、葵には浮かばなかった。
目を閉じると浮かぶ兄が、笑っているような気がした。
罪は消えない。良い事ばかりじゃない。膝を着く日も来るだろう。それでも、ーー生きて行こうと思った。
死んでしまった彼等にも認められるように、死なせた人々に許されるくらい強く堂々と。
ふと思い出して、葵はポケットに入れていた文庫本を取り出した。
かもめのジョナサンだ。葵が手渡すと、和輝は驚いたように目を丸めた。四年前の記憶が無いのだから、当然の反応だ。
巻末から一枚の帯を抜き取って、白崎匠へ押し付ける。四つ葉のクローバーの栞だった。
「返すよ。これはもう、必要無い。俺には、ヒーローがいてくれるらしいからね」
仮面のような無表情だった白崎匠が、唇を綻ばせた。それは隣のヒーローとよく似た美しい微笑みだった。
文庫本を頻りに見ていた和輝は、それをバッグパックの中へ丁寧にしまい込んだ。狐に摘まれたような顔をしている。
日光を浴びた和輝が葵を見た。今にも溶けてしまいそうなのに、決して揺るがぬ意志の宿った強い目をしていた。出会った頃と変わらないそれは、何故か兄の面影を連れている。花が綻ぶような微笑みを浮かべて、ヒーローが言った。
「朝が来たよ」
Love the life you live. Live the life you love.
(自分の生きる人生を愛せ。自分の愛せる人生を生きろ)
Bob Marley
Fin.