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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
Hello,world!!
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⑹舞い降りる希望

 あの日は、雨が降っていた。

 天の底が抜けたような豪雨は、鞭のように身体中を打ち付けた。アスファルトは激しく泡立ち、モザイクでも掛けられたように目の前が見えなかった。


 和輝は墓石の前に立っていた。

 高校二年生の夏だった。茹だるような熱波に襲われた連日とは打って変わり、まるで真冬のように冷えた夜だった。

 チームメイトが自殺した一周忌だった。その頃はマスコミが根も葉も無い事を好き勝手に吹聴して回り、真実は遥か彼方に霞んでいた。

 和輝は彼女の死の真相を知っていた。けれど、沈黙を守る事が彼女の名誉を守る事なのだと口を噤み、世間からの痛烈なバッシングや下世話な詮索からも堪え続けていた。


 彼女は実父から性的な虐待を受け、高層ビルから身を投げたのだ。その死の直前、和輝へ電話を掛け続けた。だが、別の事件に巻き込まれていた和輝は昏睡状態で、出る事は出来なかった。

 残されたのは無数の着信履歴だけだ。彼女が何を伝えようとしていたのかは、最早誰にも解らない。

 実父が隠匿し、関係者が口を噤む以上、真実を知る術は無かった。そして、和輝は少女を死に追い遣った極悪人とレッテルを貼られ、日常生活すら儘ならない有様だった。

 それでも、一度として弁解はしなかった。世間からのバッシングを受ける事が、和輝にとっての断罪だったからだ。

 許しを乞うべき相手は、もうこの世にはいない。罪には罰が下るのならば、その実父も、自分も罰せられなければならなかった。


 けれど、匠が言った。

 お前に罪は無い、と。


 じゃあ、誰が彼女を救えるの?

 俺はあの子の手を掴んでいたんだよ。救える筈だったんだ。ーーあの日でなければ!


 彼女の一周忌で、和輝は知ってしまった。

 それが自己満足であるという事、死者は蘇らない事。和輝にはもう、彼女を救う事は出来ないのだ。きっと、それを知る事が何より怖かった。


 和輝は、彼女の墓石の前で頭を下げた。


 ごめん。

 俺はもう、お前を背負ってはやれない。


 それは和輝が生まれて初めて経験した挫折だった。

 溢れた水が盆には戻らないように、誰がどんなに手を尽くしても、この世には救えないものがある。


 人より小さなこの掌で掴めるものがあるのならば、自分はもう、手放しはしない。何に変えても救ってみせる。

 何もかもを救える訳じゃないのなら、俺は誰かにとってのヒーローでありたいと思った。








 Hello,world‼︎

 ⑹舞い降りる希望








 果たして四年前に何があったのか。


 和輝は自宅へ戻り、一人パソコンの前に座っていた。帰宅してから食事も取らず、時刻はすでに深夜を越えている。もうじき朝が来るのだろう。

 ブルーライトの眩しさに頭が痛み、其処で漸く和輝は画面から目を離した。

 ノートPCのディスプレイには、霖雨から送られて来た四年前の出来事に関する書類が映し出されていた。解り易く、けれど、事細かに時系列に並べられている。これは、謂わば霖雨の実体験なのだ。


 自伝でも出版するつもりなのだろうか。

 うんざりする程の文字数を見て恨めしく思った。


 きっと、霖雨はこれを誰かの為に作成していたのだ。

 来たるべき日の為に準備をして来た。

 それが何か、和輝はもう、解っている。


 霖雨は、和輝が精神科医となってこの場を訪れる事を予期していたのだ。記憶が戻らない事も想定内だった。それでも、和輝が神木葵を救おうとする事も解っていた。だから、霖雨は弁護士を目指した。全ては神木葵を救う為に。


 けれど、時は流れてしまった。

 和輝にはもう、友達だからと言って容易く手を差し伸べる事は出来なくなってしまった。


 資料を探せば探す程に見付かるのは、神木葵と言う人間の異常性だ。薬物の影響を受けた心神喪失状態だったとは言え、彼は無関係の人を殺害している。

 彼は正当防衛と心神喪失状態を盾に、人を殺す事へ躊躇いが無い。


 彼の生い立ちを考えると、それは後天的なものと思われる。彼は生きる為に人を殺さなければならなかった。否、家族や友達を守る為だ。優先順位を付けて、取捨選択をする。其処に躊躇いは無いのだ。

 中学生の頃に兄を失った彼は孤独だった。比較対象が無いから、社会的な道徳を理解出来ない。彼はPTSDを発症したが、周囲からの援助は無かった。


 如何して人を殺してはいけないのか、解らないのだ。


 人を殺せば、罰せられる。だから、駄目なのだ。それなら、法律に罰せられないのならば、殺しても良い事になる。

 霖雨の言う通り、神木葵は犠牲者なのかも知れない。こんな現実にいたら、誰だっておかしくなるだろう。

 誰を責める。誰が悪い。神木葵か、社会か。


 脳が鉛にでもなったように重く、染みるように痛かった。眼精疲労だ。和輝は背凭れに寄り掛かり、大きく息を吐き出した。



 ーーこの国は一見すると平和に見える。でも、そんなものは仮初めで、実際は大勢の犠牲の上に立つ砂上の楼閣だ



 霖雨の言葉が脳裏に浮かんだ。

 和輝には、何が正しいのか解らなくなってしまった。正義という言葉は美しいが、難しい。大義の為ならば、個人の社会的な死は許されるのだろうか。砂山のパラドクスに似ている。或る一定の範囲内の犠牲が社会の中で許容されるのならば、それは誰が決めるのだろう。

 自分は医者だ。裁判官ではない。それでも、神木葵を救いたいと思う。この思いが何処から来るのかも解らない。

 飢え死にしそうな野良猫に、その場凌ぎの餌を与えたとして、明日は如何する。神木葵を釈放する術があったとして、その先は?

 必要なのは長期的なアプローチだ。終わりの見えない持久走をする覚悟が此処で決められるか?


 俺に、彼が救えるか?


 その時、扉を叩く音がした。

 深い思考の中に沈み込んでいた意識はしゃぼん玉が割れるようにして回帰した。目の前にはスリープ状態になったディスプレイがあった。


 入るぞ、と父の声がして、扉が開かれた。

 真っ暗な部屋の中に、廊下から暖色の明かりが零れ落ちる。部屋の闇に気付いた父は驚いたような声を漏らして、電灯を点けた。途端に辺りは白く照らされ、不明瞭だった父の穏やかな顔が鮮明に見えた。




「明かりくらい点けろよ。目が悪くなるぞ」




 蜂谷家の大黒柱ーー蜂谷裕。

 臨床心理学会の権威と言われながら、現在もカウンセラーとして母国を起点に第一線で活躍している。外見はとても五十代半ばには見えない優男だった。和輝には七つ年の離れた兄がいるが、兄弟に見えると言われている。


 父は和輝の顔を見ると、すぐに部屋を出て行こうとした。要件は無かったのだろう。帰宅して挨拶も無く部屋に篭った自分を気に掛けてくれたのだと解る。

 くるりと向けられた背中を引き留めるつもりで、和輝は喘ぐように呼び掛けた。




「親父」




 父は立ち止まり、小首を傾げて振り向いた。

 数年ぶりに会う父は、年を取っていた。学生時代は和輝と同じく甲子園制覇を果たしたと言うが、今では筋肉も衰え、目尻の皺や白髪も増えたと思う。それでも、その澄んだ双眸の光や、真っ直ぐに伸ばされた背筋は変わらない。


 和輝は椅子を回転させて、父の顔を見据えた。




「相談したい事があるんだ」

「いいよ」




 和輝は意を決して口を開いたつもりだったが、父はあっさりと受け入れた。肩透かしを食らったような気がして、和輝は肩を落とす。だが、父はそのまま部屋の中へ戻り、扉を閉じると壁に寄り掛かった。




「何の相談?」

「俺の友達?」




 何で疑問形なんだよ。

 呆れたように父が言った。和輝も苦笑するしかない。今の神木葵は、他称、和輝の友達だ。




「そいつ、サイコパスの診断を受けて、警察の閉鎖病棟で隔離されているんだ」

「ふうん」

「俺は、そいつを、助けたい……」




 言葉にしてみると、余計に解らなくなってしまう。

 そもそも、自分は本当に神木葵の友達なのだろうか?




「お前の思う助けって何なの?」




 まるで、内心を見透かされているようだ。和輝は答えられなかった。

 父は腕を組んで、柔和に微笑んでいる。




「サイコパスは社会における捕食者だ。それは生まれ持った性質で、変える事は出来ない」

「出来るかも知れない」

「出来ないよ。生まれ持った価値観は変える事が出来ない」




 断言した父に、和輝は弾かれたように反論する。




「生きていれば、性格なんて幾らでも変わる」

「サイコパスについての理解が足りないな」




 じゃあ。

 和輝は追い縋るように問い掛けた。




「親父なら、諦めるの?」

「何を?」

「親父の患者がサイコパスだったとしたら、治療の方法が無いからって諦めるの?」

「サイコパスの人間は、治療しようだなんて考えないよ。そもそも、彼等は俺達とは異なる独自の価値観で生きている。治療という言葉は適切ではないよ」




 返す言葉が無かった。現場の第一線で、今も活躍する臨床心理学のプロだ。知識や技術、経験で自分が敵う筈も無い。

 和輝が俯いて言葉を探していると、父は機嫌良さそうに言った。




「相変わらず、相談の仕方が下手糞だねえ。神木葵君の事だろう」

「知ってるの?」

「匠から聞いているよ」




 そりゃ、そうか。

 和輝は匠に対する不信感も無く、当たり前のように納得した。

 和輝は欧米で二度も死に掛けたのだ。監視も報告も徹底しているだろう。




「親父は如何思うの?」

「彼はサイコパスではないよ」




 酷くあっさりと、父は断言した。

 喉から手が出る程に欲しかった答えを、当たり前のように提示するものだ。和輝は安心するよりも、落胆してしまった。




「PTSDだな。当時の神木君は、兄が死んだショックで酷い虚無感に襲われていた。それでも、日常生活を変わりなく送る事で、精神の安定を図ったんだろう」

「でも、それを見た当時の精神科医は、サイコパスだと診断した」

「まあ、無理もないね。中学生の子供が、肉親を失って天涯孤独となった直後に、涙一つ見せずに平然と日常生活を送り始めたんだから。しかも、その頃は兄の殺害も彼の計画だったと疑われていたんだろ?」

「濡れ衣だよ」

「或いは、未必の故意かな。彼は、そうなる可能性に気付いていた。兄が殺されるかも知れないと解っていた」

「兄を信じたんだよ。同じ立場だったなら、きっと、俺も同じ事をすると思う」

「お前だったら、とっくに匠が騒ぎ出して、あの元気な幼馴染達が乗り込んでただろうさ」




 やり兼ねない。

 和輝は眉間を揉んだ。




「親父なら如何する?」

「俺? 俺は納得出来ないなら、徹底抗戦するけど」




 その言葉に、和輝は自分が神木葵に言われた事を思い出す。納得出来ない現実には、徹底抗戦する。こんな事で、親子だなと思う。




「当時の診断は誤診だったと思うよ。でも、今の彼は違う。今は危険人物だ。事実、既に罪を犯している。拘束される理由がある」

「でも、証拠は無い」

「証拠が無いからと言って、罪が消える訳じゃない。彼の生い立ちは同情に値するけれど、人を殺したのは事実だ」

「でも、それは正当防衛だった」




 和輝が言った途端、父は微笑みを消し去った。

 冷静を取り繕っているようであるが、その目尻は険しく釣り上がっている。自分が地雷を踏んだ事に気付き、臓腑がぞっと冷え、今すぐに何処かへ逃げ込みたい衝動に駆られた。




「お前、人の命を何だと思ってるの?」




 地を這うような低い声に、和輝の掌は汗でびっしょりと濡れていた。


 和輝は父に叱られた事が殆ど無かった。幼い頃から家を空けがちな父に代わり、躾をして来たのは兄姉だった。

 父が感情的になるところを見た事が無い。知らないものは、怖い。言い訳を構築する余裕も無く、和輝は断頭台の刃を待つように身を竦ませる事しか出来なかった。




「犯罪者は殺しても良いと思うの? 正当防衛が成立するなら、証拠が無いなら、許されると思うの?」

「違う」

「お前が言っているのは、そういう事だよ。彼が殺して来た人間にだって家族はいる」

「じゃあ、社会的に孤立した神木葵のような人間は、家畜のように自由を奪われて、人権も存在しないみたいに拘束されても仕方無いのか?」

「この問答はいたちごっこだよ。俺とお前の価値観は違う」




 其処で父は溜息を吐いた。胸の内で沸々と湧き上がる怒りを鎮めたように見えた。




「お前は馬鹿なんだから、小難しい事を考えてややこしくするな」

「馬鹿馬鹿言うけど、これは親父の遺伝だよ。笹森さんが言ってた」



 笹森とは、父の昔のチームメイトだ。

 今は大阪を拠点として、中々やんちゃな裏稼業で忙しいらしい。


 父は一言「笹森め」と呟いて、咳払いをした。




「でもまあ、やりたいようにやってみれば? お前は頑固だから、自分の意見も曲げないしな」




 誰に似たんだか。

 父はそう嘯いて、何かを思い出したように空を見上げた。すい、と向けられた双眸は眩しいものを見るみたいに細められていた。




「ああ、そうだ。ーーお前の母さんにそっくりだ」




 和輝は母を知らない。会った事も、話した事も無い。

 けれど、父のその言葉が、まるで生まれて来た自分を受け入れてくれているように思えて、眼窩がぐっと熱くなった。




「お前は助けたいと言うけど、それを神木君が望んでいるの? 彼が本当に望んでいるものって何だと思う?」




 神木葵が本当に望んでいるもの。

 父に問われて、漸く気付く。彼はあの場所から積極的に出ようとはしなかった。それが、神木葵にとっての罰だからだ。

 彼は、何時かの自分と同じだ。墓石の前で、立ち尽くす事しか出来なかったあの日の自分なのだ。




「親父、ありがとう」




 和輝は、そっと頭を下げた。

 父はにっかりと笑った。




「最後の一瞬まで抗うと良い。逃げ出した者に、奇跡は起こらない」

「うん」




 和輝は、しかと頷いた。

 スリープ状態のディスプレイに映る自分の顔は、幾らかすっきりとしていた。




「親父と一緒で、負けず嫌いなんだ。泥塗れでも、みっともなくても、俺は負けたくない。綺麗な敗北なんて真っ平御免だ」




 それでこそ、俺の息子だ。

 父が嬉しそうに言うので、誇らしくなる。現時点、何も出来ていないのだけど、如何にかなるような気がして来る。

 窓の外は薄らと白んで来ている。もうすぐ、朝が来る。

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