⑸宣戦布告
「また来たの」
呆れたみたいに、透明人間が言った。
其処には一欠片の嘘も無かった。
閉鎖病棟に到着した頃には、既に太陽は中天を過ぎていた。面会の申請をすると、看守は訝しむような視線を向け、上司に確認を取った。それから執拗な身体検査を受け、漸く面会を取り付けた頃には、外界は薄闇に包まれていた。
面会室には看守が二人。探るような目付きで此方を見ている。昨日と同じように、透明人間は強化硝子の向こうにいた。
「今日は何し来たの」
「お前と話をしに来た」
「何の?」
透明人間は首を傾げた。和輝も、同じく首を傾げた。
元々、計画があって行動している訳じゃない。一秒でも早くこの青年の顔を見て、話をしたかっただけなのだ。真実を知りたいと思う。しかし、その手段が解らない。
やっとの事で、和輝は一つの提案をした。
「昨日の他己紹介の続きをしよう」
「良いよ」
神木葵はあっさりと言った。
昨日と同じだ。彼に拒否権は無いのだ。此方が幾ら荒唐無稽な作り話をしても、口汚い罵声を浴びせたとしても、黙って聞くしか無い。
きっと、今までも、そうだったのだろう。彼は否定も肯定も受け入れて来た。強化硝子の向こうには何も届かないし、彼には何も響かない。
和輝は咳払いを一つした。話の切り出しを探していると、それを遮り、神木葵が口を開いた。
「今日は内面の話をしようか」
「内面?」
神木葵はこっくりと頷いて、舞台演者のように堂々と話し始めた。
「ーー蜂谷和輝は天才で、凡人には理解出来ない思考回路と価値観を持ち、自分の責任の取れる範疇ではリスクの高い選択をする傾向がある。そして、柔軟に見えて頑固で、思考回路に遊びが無い。回り道はしても、寄り道はしない」
和輝は面食らったが、神木葵は此方の反応なんて端から求めてもいない。
神木葵は台本を読み上げるように、つらつらと話し続ける。
「自己肯定感が極端に低く、他者からの肯定を求める自己犠牲主義者。この自己犠牲の根底には、母親の死がある。命を懸けて自分を産んだ母親と、それを奪ってしまった家族への罪悪感から、自分は他者の為に生きなければならないと言う強迫観念に苛まれている」
「うん」
「独善的で、世間知らず故に理想論者。納得の行かない現実には徹底抗戦する」
「ああ、そうかも」
多分、神木葵が実際に和輝と接する中で感じた主観的な事実なのだろう。
和輝も積極的に否定は出来ない。自身がどのように見えているかなんて、自分では判断出来ない。
「そう言った側面もあるかも知れない。でも、」
「或る一面だけでその人間性まで判断出来ると思うなら、それは傲慢だ。違うかい?」
和輝の言葉の先を攫って、神木葵が言った。
まるで、此方の心が見透かされているみたいだ。腹の据わりが悪く、反論の言葉が構築出来ない。
「自己肯定感の希薄さから、常に他者の評価を求める。お前は他者との交流の中で自己を確立している。成果の無い努力には価値を見出せない。或る意味では強烈な現実主義者だ」
此処は、彼の土俵なのだ。
和輝はそう思った。論議では相手の土俵に上がってはならない。此処に勝ち目は無いと思う。
「それが、お前の見て来た俺なの?」
和輝は、問い掛けた。
それは勝敗に関わらない純粋な疑問だった。
だが、神木葵は驚いたみたいに目を丸くした。まるで、和輝の問い掛けを予期していなかったように。
「俺には記憶の無い空白の時間がある。その中で見て来た俺は、そういう人間だったの?」
神木葵は、答えなかった。どのような答えでも、それは和輝と神木葵に交流があった事を肯定する事になる。
切り返すなら、今だ。
だが、和輝には記憶が無い。神木葵がどのような人間なのか答えるには情報が足りない。
「神木葵は、中学生の頃に自身のストーカーによって兄を殺された。これは公式な事実だ。だが、当時の捜査資料には、神木葵は双方を始末する計画を立てて実行した可能性があると記されている。しかし、それを裏付ける証拠は乏しく、起訴には至らなかった」
「うん」
「お前は唯一の肉親を失っても、社会生活に支障を来たさなかった。そして、数年後に襲撃したストーカーを大衆の面前で殺害しようとした。この事から、お前は良心の欠落したサイコパスの疑いが掛けられた」
「勉強して来たんだねえ」
偉い偉いと、幼子を相手にするみたいに神木葵が言った。和輝は、自分でも驚く程に冷静だった。
何故なのか、神木葵が、そう言うのが解っていた。
「お前は肉親の死から心神耗弱状態に陥っていた。社会的な支援も、精神的ケアも無かった。ーーお前は、PTSDを発症した」
ちらりと、神木葵が目を向けた。まるで、何かを伺うみたいに。
「PTSDにより、お前は正常な判断が出来なかった。自己防衛の為には殺害も厭わない。そして、兄を失ったお前は孤独だった。だから、社会的な道徳が理解出来ない。これが、他者への共感能力や良心の欠落の根拠だ」
「うん」
「大学生の頃に、襲撃したストーカーを殺害しようとした。だが、それは阻まれ、咎められなかった。証拠が無く、正当防衛が成立するのなら、警察は起訴出来ない。しかも、お前は心神喪失状態だから、罪には問われなかった。ーーサイコパスという診断はね、社会の苦肉の策なんだよ。首輪を付ける事で、制御しようとしたんだ」
神木葵は、興味深そうに頷いていた。しかし、和輝の話す内容には裏付けが無い。事前の資料から、今この場で考えた可能性を語っているだけだ。追求されたらボロが出る。
他者は自己を映す鏡だ。
自分は神木葵に自己を投影しているだけなのかも知れない。肉親を失ったのも、首輪を付けられていたのも、自分と同じだ。
多分、彼は叱って欲しかったのだ。
自分と同じように。
罪には罰があるように、咎めて欲しかったのだ。
それはいけない事なんだと、叱って欲しかったのだ。
和輝には、匠という親友がいた。無条件に肯定してくれて、間違っていれば止めてくれる。逃げる場所、帰る場所があった。
だが、神木葵には、無かった。中学生の頃に彼の世界は壊れてしまったのだ。彼が本当に叱って欲しかった相手はもう、この世にはいない。
神木葵は、肉食動物が獲物を前に舌舐めずりするように、目を細めた。和輝は背中に冷たいものが走るのが解った。
この目を、知っている。底知れない闇の底みたいな、伽藍堂の瞳。見る者を無条件に不安にさせる。
「それで?」
和輝は、口を塞がれたように黙った。全ての言葉が喉の奥に詰まって、呼吸すら出来ない。
「それで、何?」
見えない掌に、首を絞められているみたいだ。
和輝は答えられなかった。
「それで、如何するの? 終わり?」
「違う」
和輝は首を振った。
神木葵の双眸は冷たい。けれど、何故だかそれが、置いて行かれた迷子のように見えたのだ。
中学生の頃、和輝は自殺を図った。周り全てが敵に見えて、何も信じられず、逃避を選んだ。救ってくれたのは家族と匠だった。
今度は、俺が。
「お前を救いたいんだよ」
「如何やって?」
間髪入れずに問い掛けた神木葵は、退屈そうに頬杖を突いた。
「俺は社会の異物だ。国家の下した結論は覆らない。奇跡は起こらない」
まるで、それが揺るがぬ真理であるかのように。
和輝は弾かれるようにして返していた。此処で反論しなければならなかった。他の誰の為でも無く、自分が自分である為に。
「見解の相違だね。人の手で起こし得ない事が起こるから、奇跡なんだ」
生憎と、諦めは悪いのだ。
失っても、失っても、希望はある。だから、前を向いて生きて行かなければならないのだ。
足掻け、躊躇うな、信じろ。ーー何度でも!
「お前の否定する奇跡を見せてやる」
その時、看守が間へ入った。
面会時間は終了だ。和輝は促される前に席を立ち、扉へ向かって歩き出した。最後に振り返った。神木葵は凍り付いたような無表情で座ったままだった。
Hello,world‼︎
⑸宣戦布告
「タイムマシンがあったなら、四年前の自分を殴ってやりたい」
面会終了後、エントランスホールで待っていた匠と霖雨に、和輝は愚痴を零すように吐き捨てた。
二人は面会の様子をマジックミラー越しにずっと見ていた筈だ。自分の受け答えが如何に根拠の無い不安定なものなのか、解るだろう。
「タイムマシンは、もっと生産的な事に使うべきだよ」
霖雨が宥めるように言った。
四年前、自分は彼等と共に過ごしていた。だが、和輝はその中で事件に巻き込まれて記憶を失ってしまった。
何時もそうだ。肝心な時に、其処にいない。
四年前の自分は、何をしていたのだろう。目の前で助けを求めている人がいて、その手段すら解っていたのに、ただ手を拱いていたのだろうか。
頭上には蛍光灯が白く輝き、闇に包まれた外界を鏡のように反射している。窓に映る自分が疲れた顔をしていた。
約束の期限まで後二日だ。
自分に、何が出来る。足踏みしていても、靴底は減る。それなら、歩き出すべきだ。例え、目の前が断崖絶壁であったとしても。
「情報収集をする」
「お前の望む答えは出て来ないよ」
匠があっさりと言った。
猫のような双眸は、その習性故かやけに鋭かった。
「お前は神木葵を肯定したいから、それを支持する情報を集めようとする。そして、反証する情報は無視するだろう」
「確証バイアス」
「そう。お前の中では、もう結論が出ている。だが、現実はグレーだ」
「それって、君にも言えるよねえ」
据付のベンチに腰掛けて、霖雨は嘲るように口を挟んだ。何故だか、和輝にはそれが演技であると解った。
「白崎君は、和輝を巻き込みたくない。諦めさせる口実が欲しい。だから、否定の根拠を求めている」
静電気が肌の上を這うように、空気に亀裂が入った。匠は猫目を眇めて霖雨を映していた。
険悪な雰囲気の中、和輝は慌てて間に入った。だが、二人はまるで気にせずに話し続けた。
「神木葵は、事実として人を殺している。この国でも、米国でも」
「証明出来る?」
「心神喪失状態の人間を起訴する事は出来ない。証拠は隠滅され、正当防衛も成立するのだろう。それでも、罪が消える訳じゃない」
其処で、匠が盗み見るみたいに和輝を見た。
可能であるのならば、和輝は匠の味方をしたいと思う。どんな時でもそれは変わらない。だが、意見として、和輝は匠の反対派なのだ。
和輝は二人を刺激しないように、やんわりと言った。
「現時点では判断出来ない。きっと、殺意や害意なんてものは有り触れた感情で、通り者と同じように誰にでも起こり得るものなんだろう。でも、精神科医の立場から言わせてもらうと、神木葵は平均値からは少し外れているように思う」
「じゃあ、蜂谷和輝としては、如何思うの?」
和輝は逃げの一手を投じたつもりだったが、逃げ道は霖雨によって敢え無く塞がれてしまった。
此処で答えるしか無い。
「神木葵は俺の友達だったんだろ。友達なら、助けるさ」
「如何やって?」
「この場所から、出す」
「脱獄でもさせようってか?」
匠の言葉に、それまで置物のように黙っていた看守が、射抜くように此方を睨んだ。穏やかならぬ会話を盗み聞いていたのかも知れない。
「それじゃあ、意味が無い。次に逮捕されたら、今度こそ終わりだ」
「お前は短気だから、遣り兼ねない」
「そんな事はしないよ」
和輝は深呼吸をして、その場にしゃがみ込んだ。
身体中が重かった。頭の中では、自分とは関係無い筈の情報が溢れ返っている。考えを纏めたい。
神木葵を助けたいと思う。しかし、彼は共感能力の欠落した殺人鬼なのだ。
例えサイコパスの診断を覆したとしても、彼の生まれ持った価値観が変わる訳ではない。この檻の外へ出せば、また人を殺すのだろう。これは脳の機能障害で、回復はしない。
求められているのは更生だ。しかし、異なる思考回路を持つ別次元の生き物に対して、更生という言葉は果たして適切なのだろうか。
匠の言うように、証拠は残っていないのだろう。心神喪失状態で、正当防衛も成立する。しかし、罪が消える訳ではない。
神木葵を罰せない以上、これ以上罪を犯さぬように拘束するしか無い。だが、この場所に拘束されている神木葵に人権や自由は無いーー。
四年前、神木葵が逮捕される前なら間に合ったかも知れない。
「結論は出たか?」
突き放すように、見下ろしながら匠が言った。
和輝は緩く首を振った。
「四年前の俺は、若かったんだね。世間知らずで、計画性が無い」
ついさっきも、同じ事を言われたばかりだ。
神木葵との会話を思い返すと、耳が痛い。彼の言葉は客観的な事実なのだろう。
匠が呆れたように言った。
「それは今も同じだろ」
「今は大分、大人になったよ」
ヒーローになりたかった。けれど、現実はパンチ一発で解決出来る程に単純ではない。
オセロなら、良いのにな。
和輝は現実逃避みたいに思った。けれど、挟み込まれたら簡単に裏返ってしまうような不安定な立場では困るのだ。それが、大人と子供の違いーー責任だ。
如何すれば、救える?
俺に、神木葵を背負えるか?
「勝てるか如何かは、勝負しない理由にならない」
唐突に、霖雨が言った。
匠は勿論、和輝にも理解出来なかった。
「現状が恒久的な結論とは限らないだろう。やれる事をやっていれば、自ずと答えは出るさ」
「楽天的だな」
「お前が言っていたんだけど」
霖雨がしらっと言うので、和輝は頭を抱えた。
言い兼ねない。四年前の自分は、そう言ったのだろう。
「四年前の俺は馬鹿だったんだ」
「今も馬鹿だろ」
「そうかなあ」
「それで、如何するんだ?」
「やれる事をやっていれば、自ずと答えは出るんだろ。決まっているじゃないか」
匠は眉を顰めた。理解出来ないと言っている顔だ。
和輝は苦笑した。
「俺の空白の時間を取り戻す」
「無茶だな。健忘症は一朝一夕では回復しない」
「でも、何かの拍子で突然記憶を取り戻す事もある」
和輝が切り返すと、匠はベンチに腰掛けて深々と溜息を零した。
後二日だ。
今日はもう神木葵には会えない。明日までに記憶を取り戻し、この状況を打破する起死回生の一手を探さなければならない。
時間は短い。こんなところでのんびりしていられない。
和輝は膝に手を突いて立ち上がった。
急な運動だったせいか、微かに立ち眩みがした。追い掛けるように、頭蓋を引き絞るようなあの頭痛が襲った。
ーーコンティニューするかい?
顳顬が脈を打つような痛みの波の中で、声が聞こえた。
聞き覚えのある声に、和輝ははっとする。しかし、その正体が解らない。
労わるように霖雨が背を撫でる。匠が心配している。顔を見なくたって、手に取るように解る。何でもないと手を振って、和輝は歩き出す。その内心が見抜かれている事も承知の上だ。
「コンティニューは、もうしない」
最後に振り向いた先には、厳しい法律の番人が立っていた。それが実在するものでも、虚像でも構わない。此処で何もせず立ち去るのなら、生きていても死んでいるのと同じだ。
見てろ。
和輝は見えない神木葵に向かって、拳を向けた。それは誰にともなく誓う宣戦布告だった。