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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
Hello,world!!
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⑷獅子身中の虫

 多分、発信機だ。

 和輝はそう思った。


 自宅に帰ると、匠が仁王立ちして待ち構えていた。目尻は釣り上がり、隠し切れない怒気が全身から湯気のように立ち昇る。


 匠は、和輝があの箱のような施設に行った事を知っていた。霖雨が伝えたのでなければ、何処かに発信機が取り付けられているとしか思えない。しかし、霖雨と匠は他人の筈だ。

 皮膚の下にマイクロチップでも埋め込まれているのだろうか。猫の首輪に鈴が付いている様が自分と重なって、情けなくなる。何にせよ、この幼馴染が其処までするのだ。それだけ心配を掛けているという事なのだろう。


 匠は落ち着けるように深呼吸をして、問い掛けた。




「如何だった」




 第一声が怒号だと信じて疑わなかった和輝は、防御の姿勢を取ったまま間抜けな格好で固まっていた。


 如何だった、とは?


 下衆な勘繰りをしてしまう。

 匠も、霖雨も、あの神木葵も嘘を吐いている。何かを自分に隠している。


 何を隠しているのだ。

 自分は人の嘘が解る。でも、その心まで読める訳では無い。彼等が何かを隠している事は解るのに、何を隠しているのかは解らないのだ。




「解らない」

「何を考えている?」

「拳骨と説教は辞めて欲しいと思ってる」




 匠は溜息を吐いた。

 多分、会話が噛み合っていないのだ。




「お前、神木葵と会ったんだろ。元気だった?」

「多分」

「もう会わない方が良い」

「何で?」

「神木葵は危険人物だ。だから、警察の閉鎖病棟で隔離されている。だが、常盤霖雨はそれに異を唱え、釈放させようとしている」




 如何して、匠が其処まで知っているのだ。

 和輝は追及しようと口を開いた。その瞬間、あの頭蓋に亀裂が走るかのような鈍痛に襲われた。地表がぐらぐらと揺れ、立っていられない程の激しい目眩だった。




「ーー和輝?」




 堪らず呻き声を上げて、和輝はその場に蹲った。顔を蒼白にして駆け寄って来る匠の姿は朧に歪み、やがて、闇の中へフェードアウトして行った。








 Hello,world‼︎

 ⑷獅子身中の虫







 全ての真実が目に見えるとは限らない。

 それは和輝が生きて来た二十五年の人生の中で見出した一つの結論だった。


 聴覚的情報と視覚的情報に差異があると気付いたのは、多分、中学生の頃だった。打ち込んで来た硬式野球のチームメイトの言葉がきっかけだったように思う。

 お前がいてくれて良かったと言われたのだ。当時、和輝は率直に賛辞と受け止めた。だが、動作、表情の変化、眼球運動。視覚的な情報から判断すると彼の言葉には違和感が残った。その理由を吟味した結果、彼の言葉は嘘だと解った。

 事実、彼はレギュラー落ちしていて、代わりに昇格した和輝を面白く思っていなかった。そして、彼は和輝に陰湿な嫌がらせを行い、後にチームを去った。

 お前なんていなければ良かった。それが彼の本音だったのだろうと思う。

 それ以来、聴覚的情報と視覚的情報の差異に敏感になった。人の発言や動作の中に違和感を見付け、それが謙遜や慢心ではなく百発百中の精度である事を知った。相手の心が読める訳では無いけれど、嘘があれば解る。


 幼馴染である匠は、人間嘘発見器だと笑った。ーー多分、匠がいなかったら、自分は疑心暗鬼に陥って、生きていられなかったと思う。

 何処かに逃げ場があると解れば、恐れる必要は無かった。人は嘘を吐くし、期待は裏切られるし、努力は必ずしも報われるとは限らない。でも、匠は、違う。

 匠は嘘を吐かないし、期待に応えてくれるし、努力を認めてくれる。そう信じていた。それが信頼だと、思っていた。



 ーー土俵の違いに、好い加減気付け



 誰かが、言った。それが誰なのか、自分は知らない。

 けれど、自分は彼を知っている。其処は今にも千切れ落ちそうな吊り橋なのだと、現実は自分が思うよりも厳しくて残酷なのだと、警鐘を鳴らす。その言葉が誰の為のものなのか、もう理解していた。




「和輝?」




 一寸先も見えない闇が、夜明けを迎えたように少しずつ薄らいで行く。ぼやけた視界に映ったのは、親友の真っ青な顔だった。


 如何やら、自分は病院へ搬送されたらしかった。

 原因不明の頭痛に襲われて、そのまま意識を失ったのだと言う。匠は疲労によるものだと言ったが、和輝にはその嘘が解った。


 知っている。もう気付いている。解っている。

 匠は嘘を吐く。自分は嘘が解っても、相手の心が読める訳では無いのだ。この世には悪意の無い嘘がある。

 それが、誰の為の嘘なのか。


 匠は疲れた顔をして、言った。




「お前、ずっと頭痛があったんだってな。何時からだ」

「多分、四年くらい前」




 匠は苦々しく顔を歪めた。


 ここ数年、突発的な原因不明の頭痛に襲われている。医師が言うには心因性のものらしいが、心当たる事は何も無かった。少なくとも、和輝の記憶では。


 鎮痛剤も療養も効果は無い。だが、鉄の箍を嵌めたような頭痛は年々激しくなった。最近では、幻聴すら聞こえる。




「声がするんだよ」




 和輝は額を押さえた。指先に触れた短い前髪を縋るように握る。

 滲んだ視界の向こうには白い天井があった。心電図の刻む脈搏は正常値だ。




「何を言っているのか、何者なのか、始めは解らなかった。俺は頭がおかしくなったんだと思ったし、幻聴だって自分に言い聞かせて来た。でも、解ったんだ」




 常盤霖雨と出会い、神木葵と面会し、気付いた。

 自分には空白の時間がある。それが何かなんて解らなかったけど。


 和輝が見上げると、匠は石像のような固い表情をしていた。




「匠は俺に嘘を吐いている」




 匠は何も言わず、ゆっくりと瞬きをした。長い睫毛が震える。和輝には、それが何かを堪えているように見えた。




「俺がお前に、嘘を吐かせた」




 和輝は萎れた花のように頭を下げた。

 ごめんな。

 独り言みたいに、和輝は呟いた。


 生来、匠は素直で誠実な人間なのだ。そんな彼に嘘を吐かせて、背負う必要の無い重荷を負わせた。

 自分には空白の時間がある。原因不明の頭痛と、正体不明の声。匠は隠し事をしている。


 高校時代、自分は自殺を図った。厳しい現実に堪え切れず自宅で手首を切ったのだ。匠はその場に居合わせた。

 同じく居合わせた兄の応急処置で命を取り止めたけれど、匠は遣り切れなかっただろうと思う。きっと、それは彼の中で今も深い傷跡になってしまっている。だから、匠は嘘を吐く。自分を、守る為に。


 ぎゅっと押し潰されたみたいな空気に、息が苦しくなる。和輝は顔を上げた。其処には泣き出しそうな匠の顔があった。




「俺はもう、逃げない」




 だから、教えてくれ。

 匠が自分を守りたいと願うように、自分も匠を守りたい。彼の進む道に落ちている一粒の石だって取り除いてやりたいと思うし、重荷を背負ってやりたいと願う。


 和輝が言うと、匠は臓腑を吐き出すように深い溜息を零した。魂まで抜け出してしまわぬように、和輝は手を伸ばした。

 伸ばした手は、匠に取られた。汗ばんでいるのに、氷のように冷たかった。




「お前、死に掛けたんだよ」




 罪を告発するような重く苦しい声だった。匠が苦しい顔をしていると、自分も苦しい。彼が泣きそうだと、自分も泣きたくなる。




「四年前、お前が欧米にいた頃だ。線路に落ちて意識不明になった。それから、異常者に拉致されて、ーー拷問を受けた」

「拷問?」

「詳しい内容は解んねーよ。ただ、専門家が言うには、人格を破壊する拷問だって」

「俺、死んだの?」

「馬鹿。生きてるだろ」




 匠の声は、言葉とは裏腹に震え、掠れていた。


 人格は破壊されなかった。無事に生還した。その代償として、自分は記憶を失った。

 脳が心を守る為に、記憶を消したのだ。




「何で、そんな事になったの」

「知らねーよ。でも、お前が巻き込まれた理由は解った」

「何で」




 問うと、匠は苦虫を噛み潰したような顔で答えた。




「神木葵を救う為だよ」




 神木葵ーー。

 警察の閉鎖病棟で隔離されるサイコパス。やはり、自分と彼は初対面ではなかったのだ。そして、きっと、常盤霖雨も。




「神木葵と常盤霖雨は、お前の友達だよ」




 友達。

 便利な言葉だ。でも、合点が行く。その為なら自分は幾らでも危ない橋を渡るだろうし、何に変えても救おうとしただろう。例え、それがサイコパスと呼ばれる異常者であったとしても。




「お前は、神木葵はサイコパスではないと確信していた」

「根拠があったのかな」

「そうだろうな。お前は確証の無い事は、口にしないから」




 大した信頼だな、と和輝は内心で吐き捨てた。

 自分は、何を根拠にそんな事を言ったのだろう。

 ただ、友達と言うだけで?

 何故、そう思う?

 慢性的に嘘を吐き、良心や共感能力が欠落し、高い知能と巧みな話術で、他者を操る術を持つ神木葵。書類上では、彼はサイコパスだ。ーーだけど、きっと、それだけではないのだ。




「神木葵に、会いに行く」

「それを俺が許すと思うのか?」

「一緒に来て欲しい。今の俺は自制が出来ない。だから、匠が線引きをしてくれ。もう駄目だと思ったら、止めて欲しい」

「勝手な奴」




 匠が笑った。それは何処か泣き出しそうに見えた。

 今にも突き放されそうな気がして、和輝は追い縋るように続けた。




「何時も頭が割れそうに痛いんだ。心因性の頭痛だと言われてる。それが俺の空白の時間に関わるものなら、回復の余地があるかも知れない。このままじゃ、頭がおかしくなっちゃうよ」

「お前は元々、頭がおかしかったよ」




 でも、まあ。

 匠が言った。




「でも、まあ、独りで抱え込まれるよりは、マシかな」




 匠は握っていた掌をそっとベッドへ戻した。

 手を繋いだなら、何時かは離す日が来る。それでも、自分達は何度でも手を伸ばすのだろう。それが届くと信じて。




「ルールを決めよう」

「ルール?」




 和輝が復唱すると、匠は頷いた。




「目的を明確にする。俺は神木葵の友達ではないからな、あいつが如何なったって構わない。でも、お前が原因不明の頭痛に襲われて、また倒れたら困る。これはお前の頭痛の原因と回復の方法を探す為のものだ」

「うん」

「俺がこれ以上は無理だと判断したら、其処で終わりだ」

「うん……」




 匠は傲慢な言い方をするが、汚れ役を買って出てくれている。逃げ道を提示してくれている。




「期限は、お前が欧州に戻るまでの三日間。ルールを破った場合は、即刻この国から叩き出して、神木葵には二度と会わせない」

「充分だよ」

「俺が言ったのは、基本的なルールだ。現実として、例外や不測の事態も起こるだろう。その時は、俺の判断に従って貰う。異論は認めない」




 目的、期限、基本的なルール。

 匠の提示するルールを頭に叩き込み、和輝は笑った。

 胸の内側が春の日溜まりみたいに暖かくなる。闇に閉ざされた絶望に一筋の希望が差し込んだみたいだ。




「匠がいるなら、安心だ。頼むよ、ゲームキーパー」




 匠は不満そうに口を尖らせた。




「サイコパスが人の心を操るのなら、俺にとってはお前もサイコパスだよ」




 嘘吐きだしな。

 匠はそう言って、可笑しそうに笑った。


 善は急げと言わんばかりに、和輝は霖雨へ連絡を取った。勤務中だったらしいが、神木葵の元へ行くと言うと運転手を買って出てくれた。

 緊急搬送された手前心苦しかったが、医師には無理を言って退院させてもらった。匠は折り目正しく礼をして、和輝にも頭を下げさせていた。


 タクシーみたいに病院へ乗り付けた霖雨に先導され、和輝と匠はあの閉鎖病棟を目指した。車内は緊迫した空気に満たされ、空調の重低音だけが不気味に響いている。

 後部座席に凭れ掛かり、和輝は窓の向こうに流れ行く景色を見ていた。平日の昼間、街並みは静かだった。


 後部座席から見る霖雨の横顔は、何故か懐かしく思えた。何時かもこうして彼の横顔を見ていたような気がする。きっと、それは自分の知らない記憶なのだろう。

 霖雨はハンドルを握り、前を向いたまま言った。




「白崎君、久しぶりだねえ。四年ぶりかな?」

「ああ」

「如何言う風の吹き回しなの? 俺達とは縁を切ったんだろ?」

「元々、切るような縁も無かったよ。ーーあんたが、強引に繋がなければね」




 和輝には、二人の会話が理解出来なかった。

 確かに、とても親しい間柄には、見えない。むしろ、匠は霖雨を毛嫌いしているようにさえ見える。


 霖雨はからりと笑った。




「態とじゃないよ。世の中は不思議な事で、溢れている。俺とそのヒーローが再会したのは、偶然なんだ」

「如何かな」

「信用が無いねえ」




 のらりくらりと、霖雨が躱す。

 和輝は確かに違和感を覚えていた。多分、霖雨は嘘を吐いている。


 車は高速道路に乗り換えた。車窓は長閑な街並みから山地に変わり、深い森を抜けると、黒い海が現れた。欧州の海は、碧かった。


 美しいものは、好きだ。けれど、何故だか、碧い海を見ていると不安になる。欧州にいた時は、底の見えない母国の黒い海が何時も懐かしかった。海には大して思い出がある筈も無いのに、不思議だった。




「和輝はさ」




 霖雨が言った。

 何も身構えていなかったので、和輝は痙攣を起こしたみたいに肩を跳ねさせた。

 隣にいる匠に悟られぬように、なるべく何でもない顔をして返事をした。霖雨は何も気にしていないみたいだった。




「和輝は、如何して医者になったの?」




 如何して?

 和輝は、正直に答えた。




「実は、如何して精神科医になったのか、解らないんだ」

「へえ」

「でも、夢があった。小さい頃からの夢だ」




 ずっと、なりたいものがあった。

 背を焼くような焦燥感に駆られて、仕事に消費されて行く毎日の中で磨り減って行く心が辛くて、それでも、諦められなかった。




「俺は、ヒーローになりたかった」




 こんな事を言えば馬鹿にされるとは、思わなかった。

 馬鹿にされても、構わないと思った。


 だが、霖雨は笑わなかった。




「それは、叶ったのか?」

「さあね」




 相変わらずだねえ。

 霖雨は呆れたように、安心したように笑った。




「じゃあ、俺達がヒーローにしてやるよ」




 ちりりと、顳顬の辺りに痛みが走った。

 彼の指す俺達が誰なのか、和輝は知っているような気がした。

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