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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
Hello,world!!
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⑶ディストピア

 例えば、貧富の差が無く、秩序が守られ、凡ゆる争いが途絶えた世界が作られたとする。だが、その為に思考や表現の自由は失われ、政府は反乱分子を抹殺する為に徹底した管理体制を敷き、歯向かう者は粛清するだろう。そして、表面上では平等を謳いながら、貧民層が生まれ、虐げられ、社会の負担を背負わされるのだ。

 貧民層は隔離され、独自の社会を展開する。やがて、社会の監視を受けない見放された棄民は、自由を求めて武器を手に取り、蜂起するーー。


 其処まで考えたところで、和輝は首を振った。

 こんな事を考える必要は無い。個人の思想は尊重されるものであるが、常識から逸脱する事は危険思想だ。異なる価値観を持つ他者が共生し形成される社会では、法律を守る事で互いの生活を維持し、自己実現を可能とする。


 個人が最大の幸福を求めるよりも、皆が最小の不幸を背負うべきなのだ。現状、それが最も平和的な手段だった。


 ディストピアだと、和輝は思った。

 目の前には感情を喪失させた人形のような看守が、むっつりと黙り込んで和輝の鞄を覗いている。


 首都圏から車で三時間程離れた海沿いの街に、白い箱のような建物がある。一見それは療養施設の態を取っているが、実際は法律では制御出来ない犯罪予備軍と呼ばれる危険分子を隔離する監獄だった。

 建物の至る所に監視カメラが設置され、扉を開ける為には常にパスコードが求められる。押し込められた患者ーー或いは囚人ーーは、その一挙一動を徹底的に監視されていた。


 プライバシーだの、人権の尊重だの、そんな言葉は存在しない。此処は監獄で、収容される者は人間ではないのだから。


 弁護士を名乗る霖雨の紹介で、和輝は或る男との面会に訪れていた。

 霖雨の運転する車の中で、手渡された分厚い資料に目を通したが、少なくとも、和輝は彼を知らなかった。


 厳重な警備の中、和輝は持ち物と身体検査を受けた。随分と細かく下世話な検査だった。お蔭で、許可を得て面会室へ向かう頃には、既に心身共に疲弊してしまっていた。

 許可証の代わりに身元を保証するタグを渡され、断る理由も無く首に掛けた。和輝は、何時かテレビで見たドキュメンタリー映像の保健所を思い出した。


 建物内部は空調の音が静かに響いていた。一点の曇りも無い白い壁に、鉄格子の嵌められた窓、鏡のように磨かれたリノリウムの床に、風景の一部と化した観葉植物。何もかもが管理され、僅かな遊びすら無い。

 外部からの刺激は許されず、メディア機器の類は無い。唯一、天井に設置されたスピーカーからは美しいα波の音楽が常に流されている。

 面会室に向かう途中、看守以外の人間と擦れ違う事も無い。鉄格子の向こうに見える空は突き抜けるように青く澄んでいるが、手を伸ばす事さえ出来ないのだ。


 自分なら、こんな所では一日だって正気でいられないと思う。此処はディストピアで、収容されているのは皆、日の当たらない最下層の人間なのだ。彼等は社会から隔離されている。臭い物に蓋をするように。


 先導する看守が、面会室の扉を前に振り返った。

 和輝は内心ひやりとしたが、看守はまるで気にしないような無表情で、忠告した。




「いいですか。彼は人を操る術を心得ている。同じ人間と思ってはいけません」




 精神科医の自分に喧嘩を売っているのだろうか。

 和輝は神経がささくれ立つのが解った。けれど、此処で反論する事は余りに無意味であるし、これが親切な忠告だと解っていたので、黙って頷いた。


 生体認証システムが解除され、扉が開く。

 看守は扉を開け放つと、内部へ促した。


 和輝は脚を踏み入れた。ーー途端、気圧の為なのか、ぐらぐらと足元が揺らいだ気がした。


 まるで、箱だ。

 美しい建物内部とは打って変わり、面会室はコンクリート打ちっ放しの粗野な壁に囲まれていた。四畳半程の室内は強化硝子と机で半分に仕切られている。窓は無い。鏡に映したような二つの空間にはそれぞれ鋼鉄の扉が一つずつあり、屈強な肉体を持つ看守がそれを立ち塞いでいる。


 和輝は促されるまま、中央の簡素なパイプ椅子に座った。骨組みが僅かに軋んだ。椅子は固く、座り心地は最悪だった。長時間座っていれば、身体の何処かを悪くしてしまいそうだった。


 硝子の向こうにいた看守が、扉を開ける。和輝にはそれがコマ送りに見えた。


 乾いた足音が反響している。その時、和輝は顳顬の辺りを錐で刺されるような鋭い痛みに襲われた。

 ずきんずきんと音を立てて鳴るような痛みに顔を歪め、漏れそうになる呻き声を奥歯を噛み締める事で呑み込む。そして、その瞬間、それは既に目の前にあった。


 アスファルトに浮かぶ陽炎のように、空気が歪んで見えた。それが人間であると知覚するまでに時間が掛かった。

 強化硝子で隔てられた向こう側で、それは和輝を真っ直ぐに見下ろしていた。距離にして十数センチ、伽藍堂の瞳に自分が映っている。


 喉元を締められているみたいに、息が出来なかった。身動ぎ一つ許されず、背筋に冷たい何かが落ちる。




「やあ」




 透明人間だ。

 目の前にいるのに、その存在は目を疑う程に希薄だ。

 相対する患者ーー神木葵が、言った。


 数年来の友人みたいな砕けた態度だった。少年のように白い歯を見せ、その笑顔には一点の曇りも無い。

 彼が椅子に腰掛けた瞬間、止まっていた呼吸が何の予兆も無く突然取り戻された。表面上は平静を取り繕いながらも、和輝は全身から吹き出る冷や汗を止める事が出来なかった。


 神木葵、二十九歳、男性。

 反社会性人格障害と診断され、政府によって隔離される犯罪者。

 だが、それは、美しい面をした人形に見えた。少なくとも外見上では、国家からサイコパスの診断を受けた殺人鬼には見えなかった。


 しかし、彼と相対すると指先からさっと血の気が引いて、ゴムの上に立っているかのような不安感に襲われる。黒色の瞳は、覗き込めば二度と戻れない闇の深淵に似ている。和輝は呑み込まれまいと机の下で拳をぎゅっと握った。




「自己紹介をしようか」

「いや」




 神木葵は首を振った。




「他己紹介にしよう」

「他己紹介?」

「俺はお前の、お前は俺の紹介をするんだ。足りないところは互いに補足する。如何かな?」




 この男は、何を言っているのだろう。

 塀の中から出られない筈の彼が、初対面の自分の何を知っていると言うのか。


 神木葵は、まるで研究者が実験動物を観察するように、此方を見ている。彼の後ろでは、看守が苦い顔をしていた。介入の一歩を出し倦ねているみたいだった。




「君が俺の何を知っているの?」




 和輝が問い掛けると、神木葵は口の端に微かな笑みを浮かべた。それは、新しい玩具を手に入れた子供のように無邪気で残酷な笑みに見えた。




「蜂谷和輝、二十五歳、男性。誕生日は七月二十三日、O型。五人兄弟の一番下。父親は臨床心理士で、出生と同時に母親は死去。学生の時には硬式野球に打ち込み、高校時代に傷害事件に巻き込まれて右肩と右腕を故障しながらも全国制覇を果たし、この経験からスポーツドクターを志して卒業式を待たず単身渡欧」




 和輝は、息を呑んだ。


 自分とこの神木葵と言う男は間違いなく初対面の筈だ。だが、彼はまるで当たり前の事みたいに、台本を読むみたいに淀みなく語る。


 何なんだ、この男は。

 吐き出す言葉も、仮面のような笑顔も、全てが虚構で出来ている。


 目の前の人間に対して、ーー怖いと、純粋に思った。

 強化硝子の向こうにいるにも関わらず、隙を見せれば喉笛を噛み切られるとすら思った。


 生唾をごくりと呑み下し、和輝は深呼吸をした。




「俺のファンなの?」

「まあね」




 神木葵はさらりと肯定した。


 この男がどのような手段で情報を得たのかは解らないが、驚くような事ではない。多分、彼はこの建物に収容される前から自分の事を知っていたのだ。彼の知る情報は過去でしかない。




「今度は、俺の番かな」

「どうぞ」




 紙のように軽薄に笑って、神木葵は促した。

 和輝はその双眸を覗き込み、逸らすまいと腹に力を入れた。




「神木葵、二十九歳。警察官の家系に生まれたが、肉親は全て殉職している。親類とは絶縁関係にあり、天涯孤独」

「うん」




 神木葵は、退屈そうに頬杖を突いた。

 和輝が言ったのは、霖雨に渡された資料の中の文章だ。彼にしてみれば、知っていて然るべき内容なのかも知れない。




「中学生の頃にストーカー被害に遭い、加害者殺害の計画を立て、実行。しかし、それは警察官の兄に阻止された」

「結果、兄は加害者と交戦し、殺害された」




 和輝の言葉の先を攫って、神木葵が言った。




「ストーカーは逮捕され、死刑が執行された」




 神木葵は演技掛かった仕草で、肩を竦めた。




「俺が此処に収容されている理由を知っているかい?」

「……警察官の兄が殺されて、加害者の死刑が執行されるまでを計画していた可能性があったから」

「そう」




 神木葵は頷いた。

 和輝は、自分が彼に操られているような不自由さを感じた。全ての言葉は彼によって引き出され、予定調和の如く結論へ促されている。

 見えない糸が、自分を操っている。今更になって、看守の忠告を理解した。




「大学生の頃、死刑囚となった加害者が脱獄。大学を武装占拠し、大勢の無関係の人間を処刑。お前は加害者の元へ出向いて、殺そうとした」

「うん」

「結果として、殺害は失敗に終わる。だが、一連の事件からお前は反社会性人格障害の認定を受けた。そして、隔離措置が取られる前に海外へ逃亡。四年間の逃亡生活を経て、不法入国で逮捕され、強制送還」




 神木葵は否定も補足もしなかった。

 和輝は、その秀麗な面に浮かぶ微かな感情の動きを観察していた。違和感が目の前で形となり、怪物のように口を開けて呑み込もうとしている。


 嘘だ。

 彼は、嘘を吐いている。


 問題なのは、その理由だ。

 如何して、彼は嘘を吐いているのか。




「君は、何をーー」




 和輝が問い掛けようとしたその瞬間、看守が間に入った。




「面会時間は終了です」




 つんのめったみたいに、和輝は思考停止した。

 神木葵は、やはり平然と薄笑いを浮かべている。看守が間に入る時間まで、知っていたみたいだった。


 和輝は看守に急かされて席を立った。

 まだ、訊きたい事があった。時間は十分とは言えない。後ろ髪を引かれるような心地で面会室を出ようとした刹那、神木葵が言った。




「何が正しかったと思う?」




 ずきりと、鉄の輪で締め付けられるような頭痛が戻って来た。痛みに世界が歪んで見えた。激しい目眩に立っていられず、和輝は壁に手を突いた。

 動悸、目眩、悪寒。肌が総毛立ち、視界が白く瞬いた。

 労わるような看守の視線を背中に受けながら、和輝はやっとの事で振り返った。


 神木葵は、感情の無い伽藍堂の目をしていた。

 和輝は喘ぐように、答えた。




「何も正しくないだろ」




 その瞬間、神木葵は奇妙な顔をした。

 空虚な穴の中へ背中から突き落とされたみたいな、拠り所の無い迷子みたいな顔だった。けれど、和輝にはそれが何故だか酷く懐かしいものに見えた。








 Hello,world!!

 ⑶ディストピア







 施設から脱出した和輝を出迎えたのは、霖雨だった。

 社用車だというスポーツ性能を兼ね備えた高級セダンの中で、彼は呑気に本を読んでいた。

 黒地に黄色の印刷が映えるSF小説の金字塔だ。遠い昔に読んだような気がしたが、それが具体的に何時だったのかは思い出せなかった。


 霖雨は和輝に気付くと、そっと本を閉じてダッシュボードにしまい込んだ。そのまま助手席へ促され、着席した。




「如何だった?」




 エンジンが掛かると、車は拍動するように揺れ動いた。和輝はポケットから携帯電話を取り出し、電源を入れた。

 匠からの着信履歴が無数に残されていた。何故だか匠には自分の行動が筒抜けになる。幼馴染故の勘なのだと思っていたが、もしかすると彼は自分に発信機の類でも付けているのかも知れない。


 和輝は携帯電話の電源を落とし、答えた。




「よく解らなかった」




 それは、率直な感想だった。

 神木葵の軽薄な笑みを思い出そうとして、それが酷く困難である事に気付く。先程までの面会時間が幻のようだった。


 霖雨は、嘲りとも呆れとも取れない笑みを浮かべていた。




「葵は元気だった?」

「元気そうに見えたけど」




 解らない。彼の通常の状態を知らないのだから、比べようが無い。


 霖雨は何処か嬉しそうだった。

 霖雨は神木葵が欧米にいた頃の友人だと言う。そのよしみで弁護人を買って出て、無罪を主張している。

 しかし、それを裏付けるものは乏しく、神木葵は今も閉鎖病棟にて隔離されていた。


 和輝はこの国の法律には詳しくない。これが霖雨の言うように冤罪であるのなら、大変な人権侵害だ。だが、最も危惧するべきなのは、この神木葵が社会へ野放しになる事なのだ。少なくとも、この国の司法は彼を社会の捕食者と断定している。




「和輝は、あいつがサイコパスだと思う?」

「解らないよ。たった一回のあんな僅かな面会時間で断定出来るなら、冤罪なんて起こらない」




 そうだね。

 霖雨はアクセルを踏んだ。滑らかな運転で車は走り出す。和輝は後ろに流れて行く景色をぼんやりと見ていた。




「霖雨は、彼の友達なんだね」




 だから、何の確証も無く信じる事が出来る。

 しかし、和輝と神木葵は他人だ。しかも、和輝は精神科医として彼に会った。

 慢性的に嘘を吐き、良心や他者への共感能力は欠如している。表面上は魅力的で話術に長け、知能は著しく高い。そして、人を操る術を心得ている。

 臨床心理士である父は、サイコパスとは社会に於ける捕食者だと言った。彼等は社会に一定数存在し、恰も草食動物のように擬態する。それを見抜き、理解する事は難しい。故に、我々は異なる生物であると理解する必要がある。


 現時点、神木葵は限りなく黒に近い灰色だ。和輝には、彼が常人には見えない。


 神木葵はサイコパスか、否か。

 彼をあの場所から出す選択は、リスクが高いのだ。

 人は良心の呵責というものを持ち合わせている。他者への共感能力と道徳心から最悪の結末を回避出来る。けれど、彼は容易く殺害の手段を講じる。その手を振り上げた時に歯止めを掛けるものが無い。

 彼が隔離されている理由。


 和輝が黙っていると、霖雨が言った。




「この国は一見すると平和に見える。でも、そんなものは仮初めで、実際は大勢の犠牲の上に立つ砂上の楼閣だ」

「だからと言って、罪を犯すと解っている人間を野放しには出来ないだろう」

「葵は犠牲者だよ。将来的に罪を犯す可能性があると言うのなら、人間なんて皆牢獄へぶち込むべきだ」

「弁護士とは思えない発言だな」

「お前こそ」




 視線は前方に固定しながら、吐き捨てるように霖雨が言う。何処と無く粗野な物言いだった。けれど、それこそが霖雨の本質なのかも知れないと思った。




「医者になったんだろう?」




 霖雨の責めるような言葉に、反論出来なかった。如何して精神科医になったのか、和輝自身解らなかったからだ。

 医療が全てを救えるのなら、人は神になんて祈らない。


 和輝には、解らなかった。

 神木葵がサイコパスであるのか、あの場所に隔離する事が正解なのか。


 だが、一つだけ、真実がある。

 神木葵は、嘘を吐いている。


 欧州に戻るまで、残り三日間。

 何が出来るかは解らないが、自分はまたこの場所に来るだろう。そんな確信があった。

 朧げにしか思い出せない透明人間の零したあの問いが今も耳の奥に残っている。


 何が正しかったと思う?

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