⑵陰謀詭計
予定調和みたいだな。
郵便ポストに届いた一通のエアメールを見て、和輝は思った。
差出人は母国の親友だった。
高校時代、和輝は野球部のキャプテンだった。最後の年には甲子園優勝を果たしている。当時のチームメイトの予定が合ったので、同窓会をするらしい。当然のように和輝に拒否権は無く、封筒の中には飛行機のチケットが入っていた。
拒否するつもりも無いが、予定を合わせることが難しかった。溜まった有休を消費すると言って申請したが、許可が下りるまで一週間、更に休暇に備えた事務仕事の処理に一週間、職場に寝泊まりする羽目になった。
如何にか飛行機に乗った頃には心身共に疲弊してしまい、食事も取らずにずっと泥のように眠っていた。
漸く帰国すると、空港には腕を組んだ親友が仁王立ちして待っていた。
「連絡遅ぇよ」
「仕方無いだろ」
親友ーー白崎匠は、猫のような目を釣り上げて悪態吐いた。
怒っている彼には悪いが、この顔を見ると安心する。生まれた時からずっと一緒に過ごして来た唯一無二の親友だ。帰って来たという実感が急に湧き上がり、自然と顔が緩んでしまう。
同窓会の為に帰国したが、久しぶりにゆっくりしようと一週間程滞在する予定だった。
匠は「行くぞ」と短く言い置いて、さっさと歩き出してしまった。態度はぞんざいだが、匠は細やかな気配りの出来る真面目な男だ。その手には和輝のキャリーバッグが握られている。当たり前のように荷物を持ってくれる彼に内心で感謝しつつ、和輝は後を追った。
空港を出ると、春先の柔らかな風が頬を撫でた。欧州は、もっと寒かった。
グレーのジャケットを羽織った匠は、黙って駐車場へ向かった。
「車を買ったんだよ」
そう言う匠の後を追うと、滑らかな稜線をなぞるボックス型の車が見えた。スズキのフォレスターだ。鏡のように磨き込まれた漆黒の塗装には傷一つ無い。
匠らしいなと思いながら、和輝は助手席に座った。
エンジンを掛けると、車内には温風が吹き込んだ。
和輝はシートベルトを装着し、早速据え付きのミュージックプレーヤーへ手を伸ばした。匠は何も言わず、車を発進させる。
微温湯のような穏やかな空気感だった。和輝は、沈黙がこんなにも心地良い相手を他に知らない。
お互いに身を固めるのはまだ先だろう。
淀みなく安定した運転で、車は地元へ向かう。
ミュージックプレーヤーを弄っていると、海外のロックバンドの曲が再生途中であったことに気付く。如何やら、匠が運転中に聴いていたらしい。
走り抜けるようなテンポと、喉を嗄らすような声が突き刺さる。切れの良いギターのカッティングが印象的に耳に残った。
インディーズのロックバンドに詳しい匠と異なり、和輝は流行に疎かった。ロックバンドの名前はMOPというらしいが、聞いた事が無かった。ただ、その曲に、何となく耳にした事があると思った。
映画の主題歌になった事があるのだと、匠が言った。
成る程、CMか何かで聞いたのだろう。
「好きなの?」
「嫌いじゃないよ」
前を向いたまま、匠は素っ気なく言い捨てた。
和輝も適当に相槌を打って、流れ行く車窓の風景を眺めながら耳を傾けていた。
車が信号で止まるタイミングで、匠は思い出したように言った。
「お前、一週間くらいこっちにいるんだろ。何するの?」
「実家でのんびりしようと思ってるけど」
「そりゃ、いいね」
久々の長期休暇だ。のんびりしたって、バチは当たらないだろう。
何をしようかな、とぼんやり考えていたところで、和輝はポケットに押し込んだ名刺を思い出した。
母国に帰った時には連絡をしてくれと言った、あの優男の顔が浮かんだ。これも何かの縁だろう。借りは返して置きたい。
だが、その時、何を見透かしたのか釘を刺すように匠が言った。
「厄介事には巻き込まれるなよ」
信号が青に変わる。匠はゆっくりとアクセルを踏み、車は滑らかに発進した。
和輝はその横顔を盗み見ながら、余計な事は口にするまいと決めた。
Hello,world!!
⑵陰謀詭計
同窓会で顔を合わせた嘗てのチームメイトは、何時の間にやら次々と結婚し、近況報告は主に家庭の話だった。仲間が幸せそうな顔をしているのは、嬉しい。和輝は終始にこにこ聞いていた。
父親になった者もいたし、仕事に追われている者もいる。だが、誰もが皆、自分の選んだ道を邁進していた。
学生時代からは想像も出来ないくらい落ち着いた仲間を見て、年月の経過を嫌という程感じさせられた。
和輝が欧州で精神科医をしている事は皆が知っていた。如何してその道を選んだのかは、誰も訊かなかった。何か理由があったのだろうと口を揃えた。高校時代の信頼は今も健在だ。
お前、変わらないね。
嘗てのチームメイトが言った。深い意味は無かったのだろうと思う。
結局、昔話に花が咲いて、翌朝まで飲み明かしてしまった。最後まで正気を保っていたのは和輝くらいのものだった。
酔い潰れた匠に肩を貸し、始発で地元へ帰る。
朝日が目に沁みた。謎の達成感に包まれ、匠を家へ送り届けると、今度は彼の家族に手厚く持て成された。甲斐甲斐しい幼馴染の母親に、変わらないな、と和輝は嬉しくなった。
白崎家から解放されて、漸く帰り着いた実家は無人だった。父親はカウンセラーとして母国を中心に活躍し、相変わらず家を空けていることが多い。一番年の近い兄がメジャーリーガーになり、和輝が留学すると家は父親一人になった。それを心配した一番上の兄は実家へ戻り、妻と一人息子と共に暮らしている。
だが、如何やら彼等も留守らしい。平日の昼間だ。
和輝は懐かしい実家の冷蔵庫から、ミネラルウオーターを取り出して一気に煽った。冷たい感触が喉を通り抜け、枯渇した身体を潤して行く。
昼寝でもしようかな。
実家を出てからも残されている自室へ向かう。家具や雑貨は昔のまま残されていて、まるでタイムスリップしたような奇妙な心地になる。
布団は洗濯され、ふかふかだった。義姉が用意してくれたのだろう。全く、頭が下がる。
布団に潜り込む前にシャワーを浴び、歯を磨く。
そして、ふと思い立って携帯電話を取り出した。職場からの業務連絡や、同窓会で顔を合わせた仲間からの言葉を流し見てから、ポケットに押し込んでいた名刺を取り出した。
常盤霖雨。
何故だか、耳に馴染みのある名前だ。
記された番号をタップし、電話を掛ける。まさかと思ったが、電話はすぐに繋がった。驚きつつも、和輝は問われる前に名乗った。
「以前、電車で助けて頂いた蜂谷和輝と申します。あの時はどうもありがとうございました」
『やあやあ、久しぶりだね。帰国したのかい?』
「はい、三日前に」
耳に馴染みのある声だと思った。
やはり、自分はこの常盤霖雨と、以前も何処かで会っているような気がする。
電話の向こうで微かに雑音が聞こえる。時刻は早朝だが、外にいるらしかった。
『久々の母国は如何だい?』
「見るもの全てが懐かしくて、眩しいです」
『青春っていうのは、過ぎ去った後に気付くものだ』
「そうですね」
和輝は苦笑した。
「あの時のお礼をしたいのですが、空いている時間はありますか?」
『それじゃあ、お言葉に甘えて、今日の夜は如何かな』
「俺は構いません」
『じゃあ、今夜七時に渋谷で会おう』
予定調和みたいに、話がぽんぽんと決まって行く。まどろっこしいのは苦手だが、余りにも準備が整い過ぎていて違和感がある。
だが、和輝は追求しなかった。どうせ、夜には会うのだ。疑念も違和感もその時になれば解るだろう。
今晩の約束を確認し、通話を終えた。途端に睡魔が襲って来て、和輝は携帯電話を手に握ったまま、抵抗する間も無く眠ってしまった。
目を覚ますと、自室は薄闇に包まれていた。
時刻を確認すると午後五時を過ぎていたので、寝過ごしてしまったことに気付く。慌てて支度をして、部屋を飛び出した。
和輝の部屋は一軒家の二階だ。転がるように階段を駆け下りると、甥っ子が目を瞬かせて見ていた。
キッチンからはカレーの匂いがした。義姉が夕食の用意をしている。和輝が外出を告げると、彼女は快く送り出してくれた。
財布と携帯電話、家の鍵。
ポケットに収まってしまう僅かな所持品を確認する。甥っ子が玄関まで見送ってくれた。
最寄り駅まで走って、急行電車に乗り込んだ。
車内は帰宅途中の会社員で満員だったが、痴漢には遭わなかった。
待ち合わせ五分前に到着し、和輝は胸を撫で下ろした。利用客でごった返す改札で、少しでも見付かり易いようにと人の少ない場所を探した。その時、声を掛けられた。
「和輝!」
呼ばれて振り向いた先、常盤霖雨が手を振っていた。
和輝は駆け寄った。
「待たせちゃったかな」
「今着いたところだよ」
霖雨は黒いスーツを着ていた。革靴はぴかぴかに磨かれて、真っ白なYシャツは染みも皺も無い。淡いブルーのネクタイがよく似合っている。
対照的に、和輝は普段着だった。ベージュのチノパンにクルーネックの白いシャツ、デニムのジャケット。荷物は全てのポケットの中だ。鞄くらい持ってくれば良かったと後悔した。
しかし、霖雨は何も気にしないらしく、行こうと短く言い置いて歩き出した。
駅から少し歩き、霖雨は小さな居酒屋へ案内した。行き着けの店なのか、店主は霖雨を見ると奥の個室へ促した。
席に着いて間も無く、鶏肉と大根の煮物が御通しとして運ばれた。霖雨はモスコミュールを注文し、和輝はジントニックを頼んだ。
他に幾つか酒のあてを注文し、二人で乾杯をする。
ここ数日のアルコール摂取量を思い出し、気休めだが、自重するつもりで舐めるようにジントニックを啜った。同窓会のような無茶な飲み方はしない。
他愛の無い世間話をした。そして、話題が互いの仕事の話へ移り変わる頃には、酒のあては殆ど空になっていた。霖雨は二杯目のモヒートを煽って、唐突に切り出した。
「君に頼みがあるんだ」
大したことではないけれど、と霖雨は付け加えた。だが、これこそが彼の本題なのだと和輝は悟った。
霖雨は勿体振るようにおしぼりでグラスの水滴を拭い、それを丁寧に畳み込む。それから切り出されるものが何であっても、驚きはしないと思った。
「或る男の診察を依頼したいんだ」
「診察?」
霖雨は頷いた。
「俺は弁護士をしているんだが、まだまだ未熟でね。無罪と解っているのに、立証出来ず不当な判決を下されてしまったケースがあるんだ」
「立証出来ないなら、それが真実なのでは?」
「君の目で、それを確かめて欲しい」
和輝は、自分と霖雨の関係性に疑問を持った。
一度会ったきりの他人の筈だ。けれど、彼の言葉や態度からは明らかな親しみが感じられる。
和輝には記憶の無い空白の一年間がある。もしかすると、この常盤霖雨は其処に関わる人間なのかも知れない。
どちらにせよ、借りは返すつもりだった。空白を埋める事が出来るのなら、願ったり叶ったりだ。
「俺に出来る事があるのなら、協力します」
「君にしか頼めないんだよ」
霖雨は嬉しそうに口角を緩めた。
そして、霖雨は足元に置いた鞄からファイリングされた書類を取り出した。それを机に置いた時、ずしりと重い音がした。
「患者の詳細は此処に記してある」
正直、手を出すのを躊躇う程の量の書類だ。
和輝は薄くなったジントニックを飲み下し、恐る恐る表紙を捲った。
患者の情報をざっと流し読み、和輝は或る単語に目を止めた。
「サイコパス?」
「そう」
サイコパスーー、或るいは、精神病質。
良心を持たない反社会的人格者の事だ。社会に一定数存在すると言われているが、彼等は巧みに一般人に擬態する。共感能力の欠如から、稀に猟奇的で残虐な事件を引き起こす。サイコパスは、社会に於ける捕食者だ。
カウンセラーとして人の心と向き合って来た父は、彼等を異なる生物だと言った。理解する事は、難しい。
精神科医として未だ二年目の自分には、荷が重い。
「俺に出来る事があるのかな」
「会えば解るさ」
今日は奢るよ、と言って、霖雨は席を立った。
何故だか見合わない対価を要求されたような気がして、身体がどっと重くなる。まるで、貧乏籤を引かされたようだ。
伝票を持った霖雨を追い掛けて、財布を取り出そうとすら思わなかった。
改札で霖雨と別れ、和輝は携帯電話を取り出した。
匠からメッセージが届いていた。
厄介事には、巻き込まれるなよ。
彼の声が耳の奥に蘇り、和輝は返信もせずに電源を落とした。