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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
迷宮の怪物
6/68

⑶生贄

 今、何をしてるの?

 誰かと一緒にいるの?

 どうして返事してくれないの?

 私、邪魔?

 ごめんね。

 寂しい。


 葵の携帯電話には、無数のメッセージが送られていた。通信機器でありながら、交友関係の狭い葵にとってメール機能はオプションみたいなものだった。それが、一週間と経たない内に、容量がパンクする寸前まで追い込まれている。


 送信者はAmyーーエイミーという女性だった。あの日、海に向かって入水自殺を試みていた女性だ。

 葵が警察に通報すると、パトカーと一緒に救急車まで来た。彼女とは二度と会うまいと思っていたが、アドレスを何処から入手したのか葵の携帯電話へお礼がしたいとメッセージが届いた。


 感謝される謂れも無いので、断った。何より、自殺志願者と関わりたくなかった。

 霖雨ばかりが締まりの無い顔で笑っていたが、葵は女性に余り良い経験が無い。


 最初はお礼がしたいからと、食事に誘われた。親しくもない他人と顔を突き合わせて食事する趣味は無いので、適当な言い訳をして断った。

 だが、彼女は諦めず、何度も何度もメッセージを送って来た。食事の誘いも再度来たが、葵が取り付く島もなく断ると、その場は大人しく引き退った。

 この頃はメッセージが増えて、一日に70通くらい送られて来る。最初は律儀に返していたが、面倒臭いので返さなくなった。それでも、メッセージは一方的に送られて来る。


 私、重たい?

 ねえ、会いたいよ。

 今、何してるの?

 ねえ、ねえ、ねえ。

 どうして返事をしてくれないの?

 忙しいの?

 何時なら会える?

 もういい。

 死んでやる。


 葵は、無数に送られて来るメッセージを一つ一つ消去した。

 中には写真が添付されていた。自らの手首を切り付けたグロデスクな画像だ。人の血など怖くはないが、それで死なれても寝覚めが悪い。


 そもそも、何の縁も所縁もない他人だ。


 写真から正確な判断を下すことは難しいが、カミソリで薄皮を削いだところで人は死なない。本当に死のうと思うのなら、もっと効率的な手段がある筈だ。


 自殺の手段を提案してやればいいのだろうか。だが、それでは自殺幇助の罪で自分が裁かれる。

 メッセージの受け取りを拒否すればいいのだろうか。しかし、送信履歴が残っている以上、責められるのは自分だ。


 昼夜問わず絶え間なく送られる意味不明のメッセージに、腹の底から溜息が溢れた。始めはからかっていた霖雨も、今では同情的だった。


 ヒーローはまだ、帰宅していない。

 一昨日、必須科目の試験が赤点で追試になったと連絡があったばかりだった。彼が言うには、問題文が長く、回りくどい言い回しをしていたせいで、時間が足りなかったそうだ。

 葵は人生で一度も赤点になったことがない。だから、追試がどのようなものなのかよく解らない。人生の上での重要な選択肢は違えない癖に、試験となると途端に赤点だ。こいつは何なのだろう。


 此処に和輝がいたら、相談を持ち掛けていた。そして、彼は自分には思い浮かばない見事な方法で解決してくれるのだろう。


 だからこそ、追試で帰宅が遅れると聞いた時には電話口で怒鳴ってしまった。

 そのまましおらしく叱られている人間でもないので、和輝も、好きで追試になったのではないと言い返した。

 無性に腹が立って、そのまま通話を叩き切った。すぐに、同じリビングにいる霖雨のところに電話が掛かった。

 内容は解らないが、相手は和輝だった。

 苦笑いを浮かべる霖雨は、和輝を優しく労っていた。


 お疲れ様、残念だったね。

 頑張ったんだろ、大丈夫さ。

 そうして励ます霖雨にも腹が立ったけれど、多分、一般的な模範解答はそれだったのだろう。葵は黙って部屋に閉じ籠った。


 和輝との通話を終えた後も、携帯電話には無数のメッセージが届いた。その内の一通でも和輝からのものがあるのではないかと確認して、どっと疲れる。

 なんだ、これは。

 地獄か。


 家に籠って、訳の解らないメッセージと睨めっこばかりしていると気が滅入ってしまう。相変わらず、夜は眠れない。

 人間の体内時計は25時間なので、普通に生活をしていると就寝時刻は少しずつ後退してしまう。一日の体内時計をリセットする為には日光を浴びる必要があるらしい。ーーこれは、健康オタクのヒーローの言葉だ。


 酷い倦怠感を抱えながら、葵は家を出た。

 世間はクリスマスに活気付いて、何処か浮き足立っている。誰にも知覚されない自分だけが取り残されているようで、酷く虚しい。


 恋人達は無意味に距離を詰めて囁き合い、子どもは訳も無く声を上げてはしゃぐ。

 年末は大学院も休みになる。葵は無宗教なので、異国の神の聖誕祭など、毛程も興味が無かった。そもそも、神の聖誕祭にどうしてプレゼント交換をするのか解らない。なんてことのない月末の平日だった。


 空には鉛色の雲が広がり、粉雪が舞い始めた。

 ホワイトクリスマスだと喜ぶ人々に、雪なんて嫌いだと内心吐き捨てる。

 退屈凌ぎに喫茶店へ顔を出すと、店主が何時ものように無愛想に出迎えた。




「最近、あのチビを見かけないね」

「欧州の大学で期末試験を受けているんです。追試で帰国が遅れています」

「クリスマスに間に合うといいね」




 よく磨き込まれたカウンターに、雪のように真っ白なカップが置かれた。葵は小さく礼を言って、手を伸ばす。




「どうして、どいつもこいつもイベントになると浮かれるんでしょう」

「イベントは浮かれる為の口実だよ。みんな浮かれて、現実を忘れたいのさ」




 なるほど。

 葵はコーヒーを啜った。


 自分は暇さえあれば本を読む。だが、其処から獲得した知識も活かす場所が無ければ意味が無い。生身の人間と触れ合う機会は殆ど無かった。だから、些細なことで苛立ち、困惑する。自分は人間というものを知らないのだ。そういう意味で、自分は世間知らずだと思う。




「帰国が間に合えば、クリスマスケーキを作るだろうね」

「追試で、疲れ切って帰って来るんじゃないですかね。ーーでも、まあ、楽しみにしておきます」




 クリスマスケーキくらい、焼くだろう。和輝のイベント好きは相当だ。

 そんな話をしていると、バックヤードから一人の女性が現れた。

 白いブラウスにターコイズブルーの膝丈のスカート、黒いエプロンを着けている。ブルネットの髪をハーフアップに結んだ、匂い立つような美女だった。豊満な肉体は、衣服の上からでも際立っている。真っ赤な口紅が妖しく弧を描き、店内の男性客は一瞬にして彼女に夢中になった。


 葵は一瞥しただけで、興味を持たなかった。

 周囲の人間の反応から、彼女が平均値を越えた美女であることを悟る。けれど、葵は人の美醜に関心が無い。

 今は、馬鹿なヒーローの帰宅以上に関心のある事柄は無かった。


 女性はカウンターを挟み、葵の正面に立った。丁度、店主と会話をしていたので、女性は店主の隣に並び立ったように見えた。

 店主に用があるのだろうと気にも留めず、葵は素知らぬ顔でコーヒーを啜る。


 その時、女性が両手でカウンターを叩いた。

 反動でティースプーンが跳ね、葵は驚いた。




「どうして、連絡してくれないの」




 それが自分に向けられているとは、思わなかった。何しろ、自分は透明人間だ。周囲の人間には知覚されない。

 けれど、女性のグレーの瞳には自分の姿が克明に映し出されていた。煮え滾るような憤怒が感じられ、葵は困惑した。




「何のことですか」

「メッセージを、送ったのに!」




 メッセージ。

 その言葉で、頭の中を漂っていた記憶が糸で繋がった。目の前の女性ーー彼女が、エイミーだ。


 葵にとって、他人は記号でしかない。行き着けの喫茶店の従業員が、入水自殺を試みて、葵がそれを止めた。

 それが同一の女性だと、思わなかったのだ。入水自殺を試みた時、彼女は化粧をしていなかった。髪型も違う。




「他に女が出来たのね!」




 この女は、何を言っているのだろう。

 葵には理解不能だった。




「死んでやる!」




 喚く女を、葵は冷ややかに見ていた。

 周囲の人間には、痴話喧嘩のように見えているのだろう。こんな美女を袖にして、と羨望の眼差しすら送られている。

 だが、葵とエイミーの間には何も無い。

 今にも刃物を取り出しそうなエイミーに、葵は言った。




「死ねば?」




 エイミーだけではなく、周囲の人間が息を呑むのが解った。

 葵には、解らなかった。

 死にたいなら、死ねばいい。どうして、一々自分に報告するのだろうか。人は解り合えないのだから、他人が何を言っても無駄だろう。これで自殺教唆罪として裁かれるのなら、自分はテロリストにでもなって社会を崩壊させてやる。


 冷めた目で見ていると、エイミーは唇を震わせ、喘ぐように言った。




「一瞬に、死んで」

「何で。俺にメリットが何もないだろ」




 一人で勝手に死ね。

 これは、葵が彼女の自殺を止めた時からずっと言って来た言葉だ。


 エイミーはその場で泣き崩れ、葵ばかりが白けてしまった。

 一人相撲だ。彼女は一人で悲劇を演じているのだ。

 困惑する店主に気が引けて、葵は飲み掛けのコーヒーを一気に煽ってカウンターへ代金を置いた。




「何だか知らないけど、お騒がせしました」




 自分が何かした訳ではないけれど、葵は社交辞令的に周囲へ謝罪した。

 のんびりコーヒーを楽しむ気分でもなくなってしまった。大人しく帰宅しよう。

 そんなことをぼんやりと考えていると、頬に涙を張り付けたエイミーが此方を睨んで声を上げた。




「あいつが悪いのね」




 彼女の言っていることも解らないが、此方の言葉も通じていない。葵は黙って扉を開けた。


 もう、何もかも面倒になってしまった。

 葵は全てを遮断するつもりで、硝子の扉から出て行った。









 迷宮の怪物

 ⑶生贄








 葵が帰宅して携帯電話を取り出すと、ヒーローからのメッセージが届いていた。


 クリスマスには帰るから、買い物を済ませておいてくれ。


 一昨日のやり取りが夢だったのではないかと思うくらい普通のメッセージだった。


 面倒だったが、八つ当たりした自覚があったので了承した。買い物リストを見て、その量に安請け合いしたことを後悔した。


 あのヒーローは冬眠でもするのだろうか。

 長い冬を越す為に栄養を蓄える熊のようだ。呆れながら、葵は霖雨へ連絡を取った。とても一人で運べる量では無かったのだ。


 返事は無かった。電話も繋がらない。

 珍しいなと思ったが、深くは考えなかった。互いの予定を知っている訳ではない。彼にもプライベートがある。しかし、一人で買い物をするのは物理的に困難だ。ヒーローもそのつもりでメッセージを送ったのだろう。


 夜になっても、霖雨とは連絡が取れなかった。

 腹が減っていたので、冷凍のドリアを解凍する。一人だと生活リズムが崩れてしまう。食生活も偏る。

 電子レンジに放り込まれ、暖色に照らされるドリアをぼんやりと眺めていた。唸るような重低音を聞きながら、今日一日を振り返る。

 奇妙な一日だった。こういう騒動に巻き込まれるのは、霖雨の専売特許だと思っていた。どうして自分がエイミーの対象となったのか解らない。

 優しくした覚えもない。期待させるような素振りも見せていない。それなのに、何故だろう。


 透明人間と呼ばれる程に存在感が希薄なのに、どうして彼女には自分の存在が知覚されているのだろう。そんなことを考えていると、電子レンジが解凍完了を告げる陳腐な音を鳴らした。

 その音と同時に、葵の頭には一つの可能性が思い浮かんだ。


 自分は透明人間だ。だが、或る特定の人間に対して異常な執着を与えることがある。

 それは、母国で悲劇のきっかけを作った異常者ーーサイコパスと呼ばれる人種だ。理由は解らないが、葵と彼等は特殊な波長が合うらしい。


 エイミーが、サイコパスという可能性は?

 その矛先が向かうのは、何処だ?


 地震に見舞われたかのように、強烈なフラッシュバックで世界が歪んだ。その場に立っていられず、葵は咄嗟に水盤に手をやって身体を支える。

 運動直後みたいに心臓が激しく拍動していた。


 食欲はすっかり失せてしまっていた。

 葵は自室へ駆け込み、愛用のノートPCを起動した。

 霖雨の携帯電話の電波から、居場所を探る。以前、霖雨は誘拐されたことがある。その時は携帯電話も持っていなかったので、正に八方塞がりだった。

 祈るような気持ちで、葵は操作する。界隈に霖雨の携帯電話の電波は無い。セキュリティを突破し、警察のデータベースへも浸入してみたが、事件に巻き込まれた形跡は無かった。

 早合点だったのだろうか。しかし、嫌な胸騒ぎがして、葵の指先はキーボードを叩いていた。


 ついでに、エイミーのことを調べてみる。ーーヒットした。


 狂言自殺やストーキング防止法違反、プライバシー侵害、器物損壊、迷惑防止条例違反などの罪で、度々警察に拘束されている。

 過去には恋人に対する傷害罪で逮捕されたが、何処からか圧力が掛かって釈放された。

 迷惑な民間人として、警察のブラックリストに載っているのだ。情報を読む程に、葵は頭がじくじくと痛んだ。




「ふざけんなよ」




 腹の底から苛立ちが込み上げて来て、葵は誰にともなく吐き捨てた。

 証拠は無い。だが、可能性がある。


 携帯電話に残されたメッセージの送信先から、現在地を探る。エイミーは今、何処にいる。


 結果はすぐに表示された。

 予想に反して、エイミーは未だあの喫茶店にいるらしかった。

 無関係なのか?

 自分の早合点なのか?


 葵は壁に掛けられた時計を見上げた。

 時刻は午後十一時を過ぎたところだ。別段、遅過ぎる時間ではない。


 ただ、胸騒ぎがするだけだ。


 空腹も忘れ、葵はノートPCに向き合っていた。ブルーライトに眩暈を感じる。漸く顔を上げた頃には夜は既に明け、窓の外には冬の朝が迫っていた。

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