⑴縁
I would rather walk with a friend in the dark, than alone in the light.
(光の中を一人で歩むよりも、闇の中を友人と共に歩む方が良い)
Helen Adams Keller
白い壁、白い床、白いカーテン。
嵌め殺しの窓には鉄格子。天井の隅には監視カメラ。食事や睡眠、排泄に至るまでの日常生活全てが管理され、自由なんてものは一欠片も存在しない。
此処は牢獄だ。
和輝は、初めてこの場所に来た日のことを思い出していた。
高校時代に右腕と肩を故障した経験からスポーツドクターを目指し、高校を卒業し、そのまま欧州の医大へ留学。大学病院のERで、現場実習として馬車馬のように働きながら、六年間の課程を修めて卒業。慌しく目が回るような六年間だった。
如何にか国家試験を突破し、医師免許を取得した後、何故か自分は欧州の精神病院に就職した。
医大に通っている間は何の違和感も無かったのだけど、白い箱のような病棟を眺め、初めて如何して自分は此処にいるのだろうと疑問に思った。
スポーツドクターを目指していた筈なのだ。その為に留学した。だが、現場実習ではER、専攻は臨床心理学だった。自分でもよく解らないくらい無軌道な経歴だった。
自分で自分のことが解らないが、何かが起こったとするのなら、四年前だ。欧州の医大に通いながら、現場実習の為に渡米した。それから凡そ一年間の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
自分が何処で生活し、何をしていたのか解らない。けれど、その間も滞りなく生活はしていたらしい。通帳を見ると貯金が増えていて、何故か車両整備士の知識や、美味しいコーヒーの淹れ方を身に付けていた。ハリウッド女優やFBIとの交流を持ち、何か事件に巻き込まれて二度程入院している。
記憶が抜け落ちていることに気付いたのは二年前だった。自分で自分のことが解らないというのは腹の据わりが悪い。其処で調べようとしたが、凡ゆる情報に規制が掛かっていて、一般人の自分には手が出せなかった。
一年間の空白を抱え、現在は精神科医として二年目を迎える。自分自身が精神病を患っている可能性があるので、勤務の傍ら、精神科医の診察を受けている。
診察の結果は、部分的な健忘症だった。何らかの理由で記憶が抜け落ちてしまっているようだが、後遺症も無く、日常生活に支障が無い為、特に治療は進められていない。
何があったのかは解らないが、何かがあったことは確かだ。
こんな自分が就業していて良いのだろうかと疑問に思うが、働き口を自ら捨てる訳にもいかなかった。
監獄のように並んだ個室には、隔離の必要のある患者が押し込められている。彼等は徹底管理、或いは拘束しなければ他者に害を齎す。快復の見込みは無く、死ぬまで箱のなかに閉じ込められているのだ。
郵便口のような窓から覗き込むと、自分とさして変わらぬ青年が一心不乱に絵を描いていた。ーー否、絵と呼べるのかは解らない。真っ白いキャンバスに、真っ白い絵の具を幾重にも塗り重ねているのだ。彼はこの作業を行わなければ発狂し、暴れ、自傷行為に走る。白い絵の具を塗り重ねる事が、彼のアイデンティティなのだ。
隣の病室を覗くと、ベッドに四肢を拘束された中年女性が昏々と眠っていた。繋がれた点滴からは多量の精神安定剤が投与され、最早、正気というものが何かすら解らなくなってしまう。此処に自由は無い。
人権とは何だろうと思い悩んだ日々もあった。だが、余り突き詰めて考えると、意識は深い沼の底へ沈み込み、そのまま這い上がれなくなってしまう。その為、仕事中は心のスイッチをオフにするように心掛けている。
この仕事に感情は必要無い。そう割り切ることにした。代わりに僅かなプライベートでは思い切り身体を動かしたり、好きなことに没頭したりするようにしている。
仕事との距離感を掴むまで二年が掛かった。犠牲にしたものも多い。向いていないと落ち込むこともあるが、何故だか、続けなければならないと強迫観念のようなものに襲われる。それが何を起因とするものなのかは未だに解らない。
労働基準法に定められた時間を軽く二時間は超えて、和輝は漸く勤務を終えた。時刻は午後十時過ぎ。自宅は、勤務地である精神病院から電車で一時間の距離にある寂れたアパートだった。
寝落ちしてしまいそうに朦朧とした意識を必死に繋ぎ留め、満員電車に身体を滑り込ませ、他人の背中に凭れ掛かって仮眠を取る。
身体が鉛のように重かった。瞼は縫い付けられたように開かず、乗り過ごさないようにアナウンスに耳を傾ける。
等間隔の擦過音が子守唄のようだった。
人熱で白く染まる窓の向こうは闇に包まれている。凭れ掛かった草臥れたスーツの背中からは煙草の臭いがした。
眠ってしまおう。
抗い難い強烈な睡魔に誘われ、和輝は深呼吸をした。他人の不快な温もりも気にならなかった。ーーだが、その時、明確な意思を持った何かが臀部に触れた。微睡んだ意識は、瞬時に覚醒した。
満員の車内は、振り返ることも出来ない程の密度だった。臀部を弄る不躾な掌の感触に、肌がざわりと粟立った。血の気が引いて、指先は悴んだように動かない。
和輝は、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。このまま黙って堪えるつもりだった。自分は成人男性だ。駅に着いたら、取っ捕まえてやる。不快ではあるが、こんなもの、怖くない。
周囲の人間は気付かない。誰もがむっつりと黙り込み、或いは眠っている。助けなんて必要無い。
駅に着いたら、覚悟しておけ。
和輝が決意した時、耳元に臭気を纏った荒い息が掛かった。不快感に生理的に震えた。いよいよ呼吸は荒く、掌の動きは大胆になった。
気味が悪い。気持ちが悪い。和輝は拳を握った。
こいつ、絶対に許さないーー!
怒りが沸点に達したその瞬間、懐かしい母国の言葉が背中に突き刺さった。
「止めろ」
りん、と何処かで風鈴が鳴ったような気がした。
明確な拒絶と侮蔑を込めた誰かの声が、息苦しい車内の空気を一掃する。がちがちに強張った拳は、糸が解け落ちるように開かれていた。
満員の車内で、誰かが背後の男の腕を捻り上げる。
くぐもった呻き声と動揺に満ちた騒めきの中で、和輝は如何にか背後を振り向いた。
ひょろりと背の高い青年が、両目を釣り上げて立っている。端正な顔には確かな怒りが滲み、それは今にも爆発しそうだった。
腕を捻り上げられた中年男性は血の気を失い、口角に泡を吹いて言い訳を喚き散らす。他人事だと白い眼を向けていた人々は、非日常的な捕り物劇に身を乗り出した。
中年男性は拘束され、次の駅で引き摺り降ろされた。
既に睡魔も吹き飛び、和輝も降車した。そのまま駅員の元へ連行され、事情聴取を受けることになった。早く帰宅して眠ってしまいたかったのだけど、致し方無い。
子供のような言い訳を重ねる中年男性と、怠そうな駅員。自分に代わって状況を説明する青年の横顔を眺めながら、和輝は時刻を確認した。本来ならば、今頃ベッドの中に入っている筈だった。
正義感の強い青年に、苛立ちは無かった。感謝すらしていた。あの時、彼が間に入ったくれなければ、自分はこの男を殴っていた。
危うく傷害事件の加害者になるところだった。
だが、被害者面をしてめそめそしているのはプライドが許さない。
痴漢の論議は、泥沼になる。被害者は兎も角、加害者は悪魔の証明をしなければならない。とは言え、今回の被害者は自分で、寝惚けていたとは思えない程に、気味の悪い感触を覚えていた。青年もまた、現場を目撃したのだ。男に逃げ場は最早存在しなかった。
駅員は示談を勧めている。青年は処罰を求めている。男は無実を主張している。和輝は言った。
「謝罪も示談金もいらない。ーーその代わり、一発殴らせろ」
腕をぐるりと回し、和輝は拳を握った。
強張った関節が乾いた音を立てる。振り被ろうとする和輝を駅員が慌てて制止した。男は青褪め、腰を浮かせて逃げようとする。
喜劇みたいに混乱する状況を見ていた青年は、小さく息を逃した。呆れて溜息を吐いたのだろう。だが、和輝には、何故か笑ったように見えた。
青年は空咳を一つして、取り成すように言った。
「僕は弁護士をしています。訴訟を起こすのなら、相応の覚悟をして頂きたい」
弁護士。
その肩書きを聞いて、駅員と男の目の色が変わる。それまでは、如何にかなるだろうと強気だった男が抵抗の手段を失くしたように項垂れた。
負けてはいられないな、と謎の競争心で和輝も自己紹介をした。
「俺は精神科医をしています。精神鑑定をお望みなら、何時でもどうぞ」
弁護士と精神科医を前に、男はいっそ憐れな程に小さく見えた。
ぴしりと凍り付く男を見て、和輝は胸が抄く思いだった。
Hello,world!!
⑴縁
「悪い事をしたかな?」
弁護士を名乗る青年は、苦笑を浮かべて言った。
駅員室から解放され、和輝は再び睡魔に襲われていた。ぼんやりとした頭を振って、青年の謙遜染みた言葉に慌てて答える。
「いや、君が間に入ってくれなかったら、俺は今頃警察署だった」
多分、あの男を殴っていたと思う。否、殴っていた。自分もまだまだ未熟だ。
青年は白い歯を見せ、少年のように腹を抱えて笑った。何が面白かったのかは解らないが、和輝は毒気が抜かれ、釣られて笑った。
無人のプラットホームで、二人きり。奇妙な状況だ。一頻り笑い合った後、青年は眦に雫を滲ませて言った。
「自己紹介がまだだったね」
青年は慣れた仕草で懐から名刺を取り出した。
和輝は、差し出されたそれを形式に則って恭しく受け取った。
名刺には彼の名前と、所属する弁護士事務所の住所、電話番号が母国の言葉と外国語で記されている。ぼんやりと聞いたことのある事務所だった。
まさか、海を隔てた異国の地で、同じ出身の人間とこんな形で出会うとは思わなかった。
和輝はその名を読み上げた。
「りんう」
「そう」
「変わった名前だね」
「よく言われる」
青年ーー霖雨は、肩を竦めて笑った。
常盤霖雨。空に名前を書き、霖雨が言う。
「和輝は精神科医をしているんだって?」
「ああ」
ちりり、と脳の中で何かが警鐘を鳴らす。
俺、名乗ったっけ?
霖雨は和輝の疑念等御構い無しに、手を出した。
「名刺」
「ああ、ごめん」
催促されて、漸く和輝は名刺を取り出した。
霖雨はそれを受け取ると、まるで品定めするみたいにじっと見詰めていた。
不備は無い筈だが、不安になる。
和輝がそわそわしていると、顔を上げた霖雨が満面の笑みを浮かべていた。
「縁があったね」
意味は解らなかった。だが、否定する理由も無かったので、和輝は曖昧に笑った。
霖雨は名刺を大切そうにしまい込んで言った。
「俺は母国で働いているんだけど、今日は偶々出張で此方に来ていたんだ」
「縁があったねえ」
先程の霖雨の言葉をなぞり、和輝は答えた。霖雨は笑っている。
「袖振り合うも多生の縁だよ」
そうだね、とは頷けなかった。
霖雨の言葉には、表面上には見えない意味が込められているような気がした。
和輝も受け取った名刺をポケットへ入れて、目の前の青年から滲む違和感を呑み込んだ。
「何時帰るの?」
「明日には帰るよ」
「そうか。何かお礼がしたかったんだけど」
霖雨は笑った。
「じゃあ、貸しにしておく。帰国する時には連絡してくれ」
「解った」
また、違和感だ。
自分は出身地を告げていない。
「またね」
そう言って、霖雨は背中を向けた。
細く薄い背中が、そのまま夜の闇に溶けてしまいそうだった。和輝はプラットホームに立ったまま、彼が消えるまで見送った。
時刻を確認すると、既に終電も無くなってしまっていた。現在地が自宅からそう離れていないことに安堵し、和輝は屈伸運動をする。走って帰るつもりだった。
色々なことがあると、自分は考え過ぎる。意味の無いことにまで考えを延ばし、結局、徒労に終わるのだ。
自分は深く考えることに向いていない。哲学者にはなれないのだ。
駅を出ると、既に霖雨の姿は無くなっていた。
ぽつぽつと街灯が正しく灯火のように浮かんで見える。住宅地に明かりは消えているのに、夜空に星は見えなかった。
都会の空は明る過ぎるのだ。
満点の星空が見たいと思う。母国の夏空に浮かぶ星座を思い出し、強烈な郷愁の念に駆られた。
だが、その時、誰かの声が聞こえた。
「星に手は届かないんだぜ」
和輝は勢いよく振り向いた。辺りを見渡すが、何処にも人影は無い。
幻聴だ。疲れているのだ。ーーだけど、確かに聞こえた。
誰なんだ。
額に手を当て、そのまま蹲ってしまいたかった。頭蓋骨の内側から鈍器で殴られているみたいに、頭が痛くて堪らない。何年も原因不明の頭痛に悩まされている。
早く帰ろう。
シャワーを浴びて、洗濯機を回して、明日に備えて眠ろう。こんな幻聴が聞こえないくらい深い眠りに着こう。
人気の無い街路を見詰めて、和輝は走り出した。