⑷未来の約束
滑走路は春の日差しの下で、白い帯のように光を反射している。支援作業用の赤い特殊車両が行ったり来たりする横には、幾つかのジェット機がピカピカに磨かれて行儀良く並んでいた。
管制塔からの指示を受けた航空機が、空気をびりびりと震わせる轟音を上げ、ゆっくりと着陸する。
葵は、それが爆破炎上する幻を見た。
耳を劈くような爆発音と悲鳴。爆風に装甲は一瞬で剥がれ落ち、悪魔のような赤い炎が天を舐めた。
悶え苦しむ乗員乗客は、炎の中で、まるで踊っているように見えた。緊急車両のサイレンが轟き、切口上のアナウンスが響き渡る。葵は硝子窓の向こうから、対岸の火事の如く見ていることしか出来なかった。
喉がからからに乾いていた。
もしかすると、自分は、叫んでいたのかも知れない。
「神木葵」
名を呼ばれ、葵の意識は現実に回帰した。すぐ隣で監視している黒薙の存在を知覚し、漸く自分が過去の妄想に取り憑かれていると理解した。
「時間だ」
黒薙は天井から下げられたアナログ時計を顎でしゃくった。
時刻は午後二時半。如何やら、自分一人の為にわざわざジェット機を出してくれるらしい。
まるで、要人みたいだ。国家から弾き出された異物の自分には、必要な処置なのかも知れない。
こんな形で、帰国するとは思わなかった。
自分は透明人間だ。誰にも知覚されない。いてもいなくても変わらないのだと思っていたが、社会は自分を脅威と見做したらしい。
葵は鉄面皮の黒薙を見遣り、問い掛けた。
「護送してくれるのかい?」
「見送りだよ」
素っ気無く、黒薙が言い捨てた。
そりゃ、そうか。葵は納得した。
黒薙はFBIの犯罪行動分析課の職員で、インターポールではない。国境を跨いだ自分の為に母国まで連行する筈も無かった。
「わざわざ、どうも」
葵は皮肉っぽく言った。
何の縁も所縁も無い自分の為に、空港まで護送役を買って出てくれたのだ。見送りの一つすら期待出来なかった。感謝して然るべきだろう。
けれど、黒薙は苦虫を噛み潰したように顔を歪めていた。
「香坂に、頼まれたんだよ。身内は関わる事が許されないから」
香坂は、葵の名義上の保護者だ。
護送も連行も買って出たけれど、規則上介入出来ず、渋々、顔見知りの黒薙に頼んだのだろう。
香坂も、元々は同僚だった葵の兄に頼まれたのだ。兄は死んだけれど、其処此処に生きた証が刻み込まれている。
これは、喜ぶべきなのか?
独りじゃなかったと?
それでも、母国へ連行された後は隔離施設で独りきりだ。
これから向かう施設はどのようなところだろう。母国へ帰るのなら、せめて、兄の墓参りをしたかった。そのくらい、許されるのだろうか。
海の向こうの母国へ思いを馳せると、この国で出会った人々や、起こった出来事が瞼の裏に鮮明に浮かび上がった。
人は独りきりでは生きられない。繋がりながら、生きている。それでも、今の自分の掌には何も無い。手荷物一つ無い。
何もーー。
そう思った時、不意にポケットに押し込んだ一枚の栞を思い出した。ヒーローが見付け、白崎匠が託した祈りの結晶。四つ葉のクローバー。
「何かして欲しいことはあるか? 俺に出来る事なら、最大限努力しよう」
黒薙がそんなことを言うので、葵は言葉に甘えて答えた。
「本が読みたいな」
「リクエストは?」
「何でも良いよ」
安っぽいライトノベルでも、時代遅れのSF小説でも、根拠の無い自己啓発本でも、聖書でも良い。
葵が言うと、黒薙は懐を探った。
擦り切れそうな黒いジャケットの中から取り出されたのは、見覚えのある薄い文庫本だった。
表紙には、夜明け前の空みたいな紺色を背景に、白い鳥のシルエットが浮かんでいる。ヒーローの愛読書、かもめのジョナサンーー。
空港の雑踏が一瞬遠退いて、ある筈の無い誰かの顔が浮かび上がる。
葵が凝視していると、黒薙は怪訝そうに眉を寄せた。
「不満か?」
「いや、意外な趣味だと思って」
黒薙は不満気に口を尖らせた。
「俺の趣味じゃない」
じゃあ、誰の?
葵は文庫本を受け取り、何の気無しに頁をぱらぱらと捲った。見覚えがあるような気もするが、解らない。希望的観測に過ぎないのかも知れない。
黒薙は、既に検品済みだと告げた。
なるほど、確かに暗号や手紙の違いは残されていない。だが、新品ではない。明らかに読み古された本だ。
「ありがとう。返す当ては無いが、構わないか?」
「返しに来い」
「無茶言うな」
「お前が返しに来られないなら、受け取りに行くさ」
これは、それまでお前に預ける。
黒薙が言った。刃のように鋭い眼光が貫いて、葵は続ける言葉を失ってしまった。
この黒薙という男は、違法薬物の影響で表情そのものを失ってしまっている。それでも、その頑固さは障子紙みたいに透けていた。
搭乗口が開く。
甲斐甲斐しい空港職員を鮮やかに無視して、葵はゲートを潜った。
振り返る必要も無い。文庫本を小脇に抱え、機体の入り口を見ていると、黒薙が言った。
「常盤霖雨から、伝言を預かっている」
ああ、今の今まで忘れていた。
あの憐れな一般人は、如何なったのだろう。流石にあの家は一人で暮らすには大き過ぎる。持ち主だった葵すら持て余していたくらいだ。
住居の権利は既に霖雨へ譲渡している。売れば多少は学費の足しになるだろう。就活に追われていたけれど、目処は立っただろうか。
黒薙が言った。
「俺も頑張るから、お前も頑張れ」
その声が、此処にいない霖雨のものと重なって聞こえた。
曖昧で、要領を得ず、優柔不断な彼らしい言葉だ。何を頑張ると言うのだろう。大体、彼が努力したところで、自分には何の関係も無い。
そう思うのだけど。
「良い友達を持ったな」
憧憬を滲ませた声で黒薙が言うので、そうなのかも知れないと思ってしまう。
入口が開く。機体と空港を繋ぐ橋の上で、葵は最後に振り返った。
「最高の友達だよ」
こんな事、本人には言ってやらないけど。
海を隔てた遠い異国の地で、自分と同じように努力している友達がいるというのは、何故か、励みになる。例え、もう二度と会えないとしても。
葵は後ろ向きのまま、機体へ乗り込んだ。
空気の抜ける音がして、扉が閉じる。其処で黒薙の仏頂面も、忌まわしい空港の風景も消えてしまった。
座席には既に母国の警官らしいガタイの良い男が座っていた。今更、抵抗も逃亡もする気は無い。男は懐から手錠を取り出して、葵の手首を拘束した。
手錠を掛ける瞬間と言うのは、もっと感慨深いものだと思っていたが、呆気無いものだ。
葵が座ると、男はむっつりと口元を結んだまま、シートベルトを締めた。
小さな窓の向こうは突き抜けるような青空だ。機体の翼と、滑降路と、硝子張りの空港が見えた。
一度がくりと揺れて、機体が動き出す。
此処からが、長いんだよな。
退屈を潰す為に、葵は受け取ったばかりの文庫本を取り出した。隣の屈強な男がぴくりと眉を跳ねさせたけれど、終には何も言わなかった。
表紙を捲り、早速、栞を挟み込む。
萎れた四つ葉のクローバーは、まるでミイラだ。だが、これはヒーロー達にとっては掛け替えの無い祈りの結晶だ。
既に何度も読んだ事のある本だ。内容なんて暗記している。ぱらぱらと捲っていると、ある一部の頁が何度も読み返されたみたいに歪んでいる事に気付いた。
逸脱した価値観の為に、ジョナサンは群れから追い出された。しかし、彼は意にも介さず飛行の訓練を強行する。生きる為に飛ぶのではなくて、飛ぶ為に生きたいと願って。
失敗を望む鳩派のカモメ達を裏切り、ジョナサンは新たな境地へ到達する。場面は正に、ジョナサンが新境地へ臨み、希望を見出したところだった。
ーーこれはこの世での使命が終わったか如何かを知る為のテストだ。もしも、貴方が生きているのならば、使命はまだ終わっていない。
その言葉をなぞるみたいに、一頁ばかりが縒れてしまっている。
まだ、終わっていない。これを読んでいた人間は、自身に言い聞かせて来たのだろう。諦めてはいけない、希望はある、此処はまだ道の途中だと。
希望的観測が、確信に変わる。この本は、紛れも無く、ヒーローの私物だ。
如何して。
ふと窓の向こうを見ると、空港に人影が見えた。まるで、見送っているみたいに。
黒薙と、香坂と、ーー霖雨だ。
名残惜しむように、縋るようにして此方を見上げている。
今すぐに機体から飛び出してしまいたいと思った。だが、その衝動を押し込めるようにして機体が浮上する。
足元に嫌な浮遊感があった。
飛行機は、嫌いだ。もう二度と、友達を失くしたくない。目の前で何も出来ないのは、嫌なんだよ。
瞼に浮かぶのは、爆破炎上する機体だ。
自分こそが正に機体に乗っているのに、正体不明の衝動に駆られて、葵は掌をぎゅっと握り締めた。
平等の神様
⑷未来の約束
「……行っちまったな」
ぽつりと、香坂が零した。
名義上の保護者だと言う彼は、血縁関係も無い葵の為に海を渡り、この地まで追い掛けて来た。それでも、結局は何も出来なかった。
連行される葵の側にすら、いられなかった。それはどれ程の虚しさなのだろう。霖雨には、解らない。
残す方と残される方、どちらが辛いのだろう。その答えは今も出ない。未来永劫、出ないだろう。
会話の途切れた静寂の中、黒薙がくるりと霖雨を見た。
「お前はこれから、如何するんだ?」
霖雨は顎に手を添えて、唸った。
あの家は一人で暮らすには広過ぎる。美しかった過去ばかりが浮かんで、前を見て生きて行けそうも無い。
手放すということも、正直、難しい。振り返るのは辛いけれど、何もかも無かったみたい失うことは出来ない。何時の日か、また三人揃う日が来るかも知れないから。
「当面は安いアパートでも探して、就活に励むよ」
「進路は決まったのかい?」
香坂が問い掛ける。
霖雨は笑った。
「まあね。目指すものは、決まったよ」
霖雨はそっと深呼吸をした。
胸の内では覚悟を決めていても、言葉にすると責任感が滲む。
霖雨は、弱気に押し潰される前に、一気に言った。
「俺は、弁護士になる」
香坂と黒薙が、揃って目を丸める。
霖雨は量子力学を専攻する大学院生だ。それが今更、弁護士だなんて、現実感の無い遠い話だった。
「何でまた、弁護士?」
「頑張るって、約束したからね」
霖雨は空を見上げた。
飛び立つジェット機が、日光を反射してきらきらと輝いている。
あの時、窓の向こうにいた透明人間は相変わらず仮面みたいな無表情だったけれど、その肩が微かに震えていたように見えた。
泣いていただろう。
目の前にいたなら、柄じゃないだろうと指を差して笑ってやったのにな。
「約束だよ」
透明人間へ向けた誓いは、届かない。だが、構わなかった。
諦めなければ必ずなんて思わないけれど、自分から可能性を失くすことはもうしない。何度だってコンティニューして見せる。法が壁となるのならば、その懐へ入ってやろう。
霖雨の独白めいた誓いは、空港の雑踏の中に溶けて消えた。側にいた香坂と黒薙ばかりが眩しそうに目を細めている。
香坂はポケットから名刺入れを取り出した。
「俺に出来る事があったら、何時でも言ってくれ。必ず力になるから」
「ありがとう」
名刺を受け取り、霖雨はポケットへ丁寧にしまい込んだ。同じく黒薙が名刺を差し出す。
「お前等には借りがあるからな」
貸しだなんて思っていないけれど、厚意は有難く受け取っておく。
二人分の名刺をしまったポケットが、まるでホッカイロでも入れているみたいに、じんわりと暖かい。
一つ二つと、希望が繋がっている。
この希望の星を繋いでいけば、きっと届く。
まずは司法試験を突破しなければならない。
鞄の中には買ったばかりの法律関係の本が幾つも押し込まれている。余りの重さにベルトが肩に食い込むけれど、仕方無い。
何年先になるかは解らないが、諦めるつもりは無い。
あのヒーローの顔をもう一度見ておきたかったな、と思う。
今頃、渡欧の準備に追われているだろうか。それとも、まだ療養中?
面会の許可が出なかった霖雨には、知る術が無い。同じように、黒薙や香坂にもその権利は与えられなかったらしい。
だが、近況報告がずぼらなのは今に始まった事ではない。
訳の解らないトラブルに巻き込まれることも、同居人が姿を消す事も、既に慣れている。
だから、大丈夫。
何時までも立ち止まっている訳には行かない。
霖雨は鞄を背負い直し、歩き出した。