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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
平等の神様
57/68

⑶掌の希望

 喫煙所は満員だった。

 病院だと言うのに、喫煙者の数は多い。

 これでは、人々はこの場所に健康を取り戻しに来ているのか、それとも暇潰しに来ているのか解らない。

 葵は密閉された個室の前に立ち、其処で漸く自分が煙草を持っていないことに気付いた。


 禁煙したのだ。

 ヒーローが、身体に悪いと再三言ったから。


 ストレス発散の術を失い、当たる先の無い怒りは胸の中に降り積もる。

 葵は舌打ちを一つ零して踵を返した。


 このまま戻って、如何する。身から出た錆とは言え、戻れば母国へ強制送還されて、施設の中で飼い殺しだ。しかし、他に行く宛も無い。通過する他人は自分を知覚しない。自分一人がいてもいなくても、世界は滞り無く進んで行く。

 透明人間なのだ。自分はこの世界から弾かれた異物だ。


 独りじゃないと、思ったのにな。

 そんな虚しさが、胸の中にじわじわと広がって行く。

 瞼の裏に、ここ一年の記憶が沸々と蘇っていた。あれは全て夢だったのだろう。彼等と過ごした日々が、泡のように浮かんでは消えて行く。

 失うことには、慣れている。幸運だったのは、それが死という永久に超えられない壁の向こうではなかったことだ。ヒーローは生きている。生きていれば、希望がある。


 喫煙を諦め、葵は行く宛も無く、結局、中庭へ向かった。平和呆けした見知らぬ他人が、日光浴をしているだけだった。


 春の日差しの下で、何故か視界がぐにゃりと歪んだ。指先が震えて、胸の奥から正体不明の何かが突き上げる。


 あ、と思った時には遅かった。

 熱い涙が、目から零れ落ちた。


 何が悪かったのだろう。

 過去とは決別し、やっとこれから始まると思ったのだ。失ったものは、もう戻らない。だから、今この手にあるものを握り締めて生きて行こうと誓った。けれど、希望は両手に掬った砂のように、指の隙間から零れ落ちる。


 あのヒーローは、もういない。

 あの日々は、もう戻らない。


 お前が、泣いても良いって言ったんだろ。

 世界中の誰が否定しても、独りきりでも泣いても良いんだって。


 両親が死んだ時も、兄が殺された時も、友人を失った時も零れなかった涙が溢れて止まらない。

 この世は冷静な天国で、祝福された地獄なのだ。希望を手にした時には、絶望が顔を覗かせている。


 足掻いても、足掻いても、這い上がれない。このまま闇の底へ沈んでしまいそうだと思った。そして、自分を救ってくれる希望はもう二度と現れはしないのだ。

 その手を掴んだつもりだったのに、糸が解け落ちるみたいに希望が消えて行く。助けてくれと声を上げたところで、届く宛も無い。


 遣り場の無い後悔が胸を突き破り、穴を空ける。葵は堪え切れず、天を仰いだ。それでも、熱の塊は次々に込み上げては頬を滑り落ちた。


 その時だった。




「神木葵」




 背後から名を呼ばれ、葵は乱暴に涙を拭って振り向いた。美しく整備された緑色の絨毯の上に、猫のような目をした青年が立っていた。


 ヒーローの相棒、白崎匠だった。

 立ち去ったものと思っていたが、まだこんなところで油を売っていたらしい。


 白崎匠は足音も無く、歩み寄って来た。




「透明人間と呼ばれた男が、らしくないじゃないか」

「余計なお世話だ。お前には、関係無いだろう」

「俺にとっては、お前なんて無関係の他人だよ。如何なろうと、知った事じゃない」




 でもね。

 白崎匠は、繊細な硝子細工を取り出すように、そっと言った。




「でも、お前は和輝の友達だから」




 それは染み入るような、真摯で悲痛な声だった。




「和輝は、お前を救いたかったんだよ。どんな結末であったとしても、それだけは、信じてやってくれ」




 まるで、言い訳みたいに。

 白崎匠は、償い切れない罪を贖うようにして目を伏せた。


 だが、その目が再び上げられた時、丸い瞳には何時か見たヒーローと同じ透明な光が確かに宿っていた。




「そんなこと、知ってるよ」




 あのヒーローが自分の為にどれ程骨を砕いたのか、知っている。自分が守られていた事くらい、もう痛い程に解っている。




「あいつには、感謝してる。もう十分だ」

「此処で終わりか?」




 葵には、その言葉の意味が解らなかった。




「何の事だ?」

「諦めるのか?」

「何を」

「お前が欲しかったものって、何? 望んだものって何?」




 最悪の結末を予測し、最良の選択をした。ーーそして、自分は何を望んだのだろう。

 それを問われて、葵は漸く気付いた。自分は保守的で、何時も後手に回っていた。それを守る為に戦おうとはしなかった。


 和輝は兎も角、白崎匠も、あの翡翠すらも、信念を貫く為に戦うことを選んだ。それが正しいか如何かは解らない。けれど、戦うことすらしなかった自分に比べ、彼等は勇敢だった。


 臆病な自分の弱さを見抜いているのか、白崎匠は突き付けるようにして問い掛ける。




「俺は、諦めることも必要だと思う。逃げることもまた強さだ。だが、そんな強さを求めるには、まだ早いんじゃないか?」




 まだ、諦めるには早い。

 白崎匠は、真顔でそんな事を言う。彼はヒーローとは対極に位置する冷静な現実主義者だと思っていたが、案外、似た者同士なのかも知れない。


 葵は、答えられなかった。自分の中で、彼の問いに対する答えが出ていなかった。

 黙っていると、白崎匠は溜息を零した。




「ーー何も出来なかった俺に、言える事じゃないな」




 葵は、首を振った。




「いや、その通りだよ」




 白崎匠は肩透かしを食らったような顔をして、唐突に言った。




「良いものを貸してやるよ」




 そう言って、白崎匠はポケットから一枚の紙の帯を差し出した。

 長方形の白い和紙は、保護するように透明なシールカバーで覆われている。


 見覚えがある。

 栞だ。ヒーローがよく使っていた、四つ葉のクローバーの栞。




「昔、和輝が俺の為に探してくれたんだ。留学する時に貸してやったんだけど、さっき、返って来た」




 ああ、そうか。これは和輝が白崎匠の為に見付けたものだったのか。

 幸運を呼び込むという謂れを持つこの一枚の栞は、彼等の祈りなのだ。


 そんなものを、自分が預かる訳にはいかなかった。




「結構だ。ーー幸運はもう、貰ったんだよ」




 だが、白崎匠は差し出した手を戻さなかった。胸元を殴り付けるようにして、それを押し付ける。




「何時か、返しに来い。お前が必要無いと胸を張れる日まで、これは預けておく」




 嘗て、死を覚悟したヒーローを繋ぎ留めた未来の約束だ。

 確かに、今の自分には、これが必要だった。


 無関係の他人である筈の白崎匠が、自分のことみたいに辛そうな顔をする。そんなもの、求めていなかった筈なのに。




「何なんだよ、お前等」




 他人の癖に、如何して自分なんかの為に此処までするのだ。

 葵は栞を受け取った。眼窩から正体不明の熱が込み上げる。


 絶望に膝を着こうとする度に、諦める事を許さないと希望が顔を出す。




「この世に希望なんて無い。期待は裏切られる。それなら、何にも希望を抱かず、誰にも期待なんてしなければいい。そう思ってたのにーー、無理だった」




 諦め、手放す覚悟をした筈なのに、如何して彼等は許さないのだ。自分の未来を他人の彼等が諦めないと言うのなら、自分が諦める訳にはいかないじゃないか。


 白崎匠は怪訝そうに猫目を細めて、斬り付けるような鋭さで言った。




「そんなに死にたきゃ、死んじまえ。それで、次の朝に生き返れば良い」




 無関係の他人である筈の白崎匠の姿が、此処にいないヒーローと重なって見えた。燦然と輝き、此処にいるよと強く訴え掛けている。

 希望は失われない。ーーそう強く体現するみたいに。


 中庭に面した硝子の向こうに、黒薙の姿が見えた。ボーナスタイムは、終わった。

 白崎匠もそれを悟ったように、身を翻した。




「またな」




 また一つ未来の約束を残して、白崎匠は背を向けた。


 コンティニューするかい?

 過去の亡霊が問い掛ける。




「何度でも」




 独り言を零して、葵は足を踏み出した。










 平等の神様

 ⑶掌の希望









 病室はパステルカラーだ。

 その中で、ベッドに収まった青年だけが強烈な原色でその存在を訴え掛けている。


 匠は、白痴のようにぼんやりと窓の外を眺める幼馴染を見ていた。

 数年前、高校生だった頃、彼はこうしてベッドに収まっていた。和輝は傷害事件に巻き込まれ、再起不能の怪我を負った。尊敬する先輩は植物状態で、仲間は自殺し、主犯のOBは逮捕された。

 夢を失い、希望を絶たれ、彼は自殺を図った。彼の手首には、あの頃の傷が今も残っている。


 こんな顔をさせたい訳じゃなかった。

 そんなつもりで、送り出した訳じゃなかった。

 だから、匠は誰にとも無く誓ったのだ。もう二度と、ーー和輝を独りにはしないと。




「和輝」




 呼び掛けると、和輝はたった今気付いたみたいに振り向いた。普段は野生動物みたいに敏感な癖に、やけにぼんやりとしている。

 後遺症なのかも知れない。もう一度、医師に話を聞こう。


 匠が側に行くと、和輝は幼い子供みたいに白い歯を見せて笑った。




「春は良いねえ。春眠暁を覚えずって、こういう気持ちなんだろうね」

「笑えない冗談だな」




 匠が言うと、和輝は大袈裟に肩を竦めた。


 生涯植物状態で、意識回復の見込みは無い。

 この国に来て、彼は線路に落ちた時にそう宣告された。側頭葉の損傷だ。それがあの事故によるものなのか、拷問によるものなのか、はたまた心因性のものなのかは最早解らない。彼は常人ならば目覚めない筈の死地から帰還した。ーーけれど、それは奇跡だ。奇跡はもう起こらない。


 ふと見ると、ベッドに据え付けられたテーブルに、大学の課題と医学書が広げられていた。

 和輝は欧州の医大に通っている。この国に来て何があったのかは覚えていない。

 記憶の欠落については、匠が知らせなくとも自分で気付くだろう。愚鈍なようで、聡い男だ。如何して記憶を失ったのか、真実に辿り着く筈だ。だが、それは今では無い。

 意識も記憶も混濁した今の彼に知らせるべきではない。医師はそう判断した。




「課題をやっていたのか?」

「ああ、そうなんだ。解らないところがあったから、匠に訊こうと思って待ってた」




 和輝は医学書の英文を指して、言った。




「この文章が解らないんだ。辞書を引いて見たんだけど、そうすると意味が繋がらなくなる」




 医学に関する課題で、力になれることがあるとは思えない。だが、彼の指す文章を見ると、決して難易度の高くない引っ掛け問題みたいな文章だった。


 問題文が理解出来ないのだから、彼は試験では何時も赤点、追試だ。だが、問題文さえ理解出来れば簡単に正解を導き出せる。


 母国で医大に進んでいれば、こんな困難は無かった。しかし、あの頃の彼は母国では生きていけなかった。

 儘ならないものだ。


 匠が答えを口にすると、和輝はまるで哲学者が真理に到達したみたいに目を輝かせていた。




「匠はすごいね」

「すごくねえよ。お前が馬鹿なんだ」




 一度答えを提示すると、和輝は矢継ぎ早に質問した。座学が壊滅的である理由がよく解る。

 溜息を一つ零して、匠は言った。




「何で引っ掛け問題に必ず引っ掛かるの?」

「好きで引っ掛かってる訳じゃない」




 素直過ぎるんだよなあ。

 口を尖らせる和輝に、匠は苦く笑った。


 課題に打ち込み出した和輝の横顔を眺めながら、匠は彼が海を渡った日の事を思い出していた。




「お前、医者になりたいの?」




 問い掛けると、和輝は不思議そうに目を丸めた。

 医者になりたい訳じゃない筈だ。彼はスポーツドクターを目指していて、その為に医師免許が必要だっただけだ。

 随分と回り道をしているようだが、彼は寄り道はしない。


 和輝は顎に指を添えて、考え込むみたいに目を伏せた。




「俺が目指したものは、ずっと変わらないよ」




 その瞬間、彼の子犬みたいな真ん丸の瞳がきらりと輝いた。




「俺はね、ヒーローになりたかった」

「お前の目指すヒーローって何」

「正義の味方?」

「馬鹿だな」

「馬鹿だよ」




 さらりと肯定して、和輝が笑った。

 少しくらい怒るかと思ったが、呆気なく認めてしまったので、匠は続けようとした苦言を呑み込んだ。


 和輝は、笑った。その双眸は覗き込めば二度と戻れない暗く淀んだ深淵のような不気味さと、触れる物も全て貫く刃の鋭さを秘めていた。

 見てはいけないものを見たような背徳感に、背筋が寒くなる。身を凍らせた匠の前で、和輝は笑いながら答えた。




「馬鹿じゃなきゃ、ヒーローなんて目指せない」




 こういうところが、恐ろしいと思う。

 生まれた時から一瞬にいて、相手の事なんて何もかも知り尽くしている筈なのに、ふとした瞬間にぞっとする程の冷たさを現す。腹の底を読ませないところが、匠は気に食わない。




「正義とは、時代と共に変化する曖昧なものだよ」

「難しい話をするのは、止めてくれ。例えば、重い荷物を持っている人がいたら、手を差し伸べる。電車で気分の悪そうな人がいたら、席を譲る。俺の言う正義なんて、こんなもんだよ」




 それはただの親切だろ。

 匠が指摘すると、和輝はころころと笑った。




「それが今にも犯罪を起こしそうな凶悪犯だったとしても?」

「極論を持ち出すのは、止めろよ。それ、悪い癖だぞ」




 匠は眉を寄せた。




「極論を持ち出す癖なんて無い」

「あれ、匠じゃなかったか。じゃあ、誰と間違えたんだろう?」




 和輝が唸り、梟みたいに首を捻る。

 匠はその様をじっと見守った。だが、結局、答えには行き着かなかったようだった。

 思い出す事を諦めたらしい和輝は、唐突に宣言した。




「俺、医者になるよ」

「何でいきなり」

「解らないけど、ーー何か、やらなきゃいけない事があったような気がするから」




 何だろう。

 そのまま横に倒れてしまいそうに首を捻る和輝を見詰めながら、匠は既に理由に気付いていた。


 それを教える気は、更々無いのだけど。


 なあ、透明人間。

 こいつはまだ、諦めていないぞ。

 和輝が信じて、自分が託した祈りを、お前が勝手に諦めるなよ。


 お前はまだ、知らない。

 この世界はまだまだ、捨てたもんじゃないって。

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