⑵清算の時間
病院のロビーは閑散としている。
霖雨と葵は背凭れの無いベンチに座り、互いに掛ける言葉も無く、只々時間の経過を堪えていた。
夢を見ているような気がした。
現実感が無く、起こり得ない筈の事象も全て違和感無く受け入れてしまいそうだ。朝の来ない闇の中で、誰か起こしてくれないかと待ち焦がれている。
揺り起こす者も、肩を叩く者もいない。ひっそりと呼吸を繰り返す他人は通過し、日常は滞り無く進んで行くのだ。
到底、信じられることではない。
和輝と過ごして来た日々が、まるで遠い世界の出来事みたいに感じられた。過去ばかりがきらきらと輝いて、現実の冷たさを訴えている。
きっと、夢は終わりなのだ。
翡翠の言うように、ボーナスタイムは終わった。霖雨や葵にとって、和輝のいたあの日々はボーナスタイムだったのだ。過去の記憶が泡のように浮かんでは弾けて消えて行く。
波紋に歪む視界の中で、不意に葵が立ち上がった。
「煙草、吸って来る」
禁煙したんだろ。
霖雨は思ったが、何も言えなかった。
手を伸ばそうとして、霖雨は止めた。どんな言葉も手段も、今の葵を救うことは出来ない。
胸を掻き毟りたくなるような焦燥感と虚しさに襲われ、身体から力が失われて行く。
その時、立ち去ろうとする葵の前に一つの影が立ち塞がった。
浅黒い肌、刃の切っ先のような鋭い眼光、凍り付いた仏頂面。ーー黒薙は、褪せたスーツに身を包み、仁王立ちしていた。
「神木葵、お前に話がある」
葵は突っ撥ねた。
「俺には無い」
しかし、黒薙は譲らなかった。
「不法入国の疑いで、逮捕状が出ている」
逮捕状。
通行人と化した霖雨は、その言葉を胸の中でそっと繰り返した。
葵は不法入国者だ。今更のことに、霖雨は愕然とする。彼は母国でサイコパスの診断を受け、逃げるようにしてこの国へ来た。今の葵には身分を証明する類の物が無い。透明人間なのだ。
「母国へ強制送還だよ」
苦く、黒薙が言った。
こうなることは、解っていた筈だ。黒薙の漆黒の瞳は、強くそれを訴え掛けている。葵とて、解っている。
強制送還された葵が如何なるのか知っている。彼は母国でサイコパスの診断を下された。社会に於ける捕食者だ。本来ならば、政府によって監視されるべき人種だった。
和輝は、それを否定した。霖雨も、誤診だったと確信している。だが、一度下された決定は覆らない。
黒薙は口元を歪め、黒曜石の如く漆黒の瞳に苦渋を映し出している。
見掛けとは裏腹に、情に厚いこの男のことだ。手は尽くしたのだろう。それでも、変えることが出来なかったのだ。これは相談ではなく、通告なのだ。
如何する。
霖雨はこの場を切り抜ける手段を探した。逃亡するか、出し抜くか。この百戦錬磨の捜査官を相手に、何か出来ることがあるか。
霖雨が腰を浮かせると、黒薙の捕食動物のような眼光が射抜いた。それだけで霖雨は、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまった。
黒薙は、絞り出すような掠れた声で言った。
「察してくれ」
強要ではなく懇願するように、黒薙が言った。
解ってくれ、ではなく、察してくれ、と。
仲間を引き連れて包囲し、有無も言わさず捕縛することも可能だった筈だ。それでも、たった一人でこの場を訪れたのは、自分達に対する信頼に他ならない。
社会には、法が必要だ。彼等は法の番人であり、それを犯すことは許されない。これは最大限足掻いた結果だ。覆すことは出来ない。
それでも、何故、今なのだと叫びたくなる。
目の前にいる黒薙は代行者であり、処分を下した人間ではない。此処でそれを当たり散らしても、何の意味も無い。
泣きっ面に蜂と言うのか、弱り目に祟り目と言うのか解らないが、今この瞬間でなくても良かっただろうと、霖雨は顔の無い法律という番人に訴え掛けたかった。
葵は、やっと救われる筈だったんだ。
過去の柵から脱出して、決別して、漸く幸せになれる筈だったんだよ。
まるで、賽の河原だ。
石を積んでも、積んでも、崩される。希望を見付ける度に、絶望が顔を出す。報われぬ努力、終わらない地獄。
もういいだろ。こいつはもう、十分過ぎる程に苦しんだよ。ーー誰か、葵を助けてくれよ。
黒薙から庇うように、霖雨は腕を広げた。
これが社会に対する反逆行為だったとしても、指を咥えて見ている訳にはいかなかった。
「葵の診断は誤診だった。こいつには裁かれる理由が無い」
「それを誰が証明出来る? 国家の下した結論に、一個人であるお前が太刀打ち出来るとでも言うのか?」
霖雨は唇を噛んだ。
そうだ。その通りだ。自分には、何も出来ない。だけど、それでも。
霖雨が言葉を紡ごうとする刹那、葵が言った。
「もういい」
それは囁くような微かな声だった。
「俺が選んだ道なんだよ。ーー望んだものでは、なかったけど」
何かを諦めるようにして、手放すようにして葵が笑った。
前後不覚の闇の中、漸く灯った光が風に吹き消されて行くのが、解った。
「過去は未来に復讐すると言う。これは俺が逃げ続けた結果だ。清算の時が来たんだろう」
自分の尻は自分で拭う。
吹っ切れたみたいに葵が吐き捨てる。
初めて出会った頃のように、透明人間が、そっと仮面を被る。無関係の他人だと線を引き、突き放す。
堪らず、霖雨は衝動に任せて手を伸ばした。
気が付くと、項垂れた葵の胸元を殴るようにして掴み掛かっていた。
至近距離に、葵の冷めた双眸があった。全ての感情を捨て去った負け犬の顔だ。
霖雨は絞り出すような低い声で言った。
「ふざけんなよ、葵」
此処で諦めて、如何する。それじゃあ、全てが水の泡じゃないか。
どんな選択肢を選んでも同じ結末にしかならないのか。全ては徒労だったと?
「お前のことを、お前が諦めて如何するんだ!」
彼の周囲は常に死に包まれている。
肉親も友人も死に、彼自身もそれを望んでいる。だけど、それじゃあ、余りにも虚しいじゃないか。
この透明人間を、神木葵という人間を救おうとして命を賭した人々の願いを踏み躙る権利なんて、誰にも無い。
葵が息を呑んだのが解った。
傍観者と化していた黒薙は、目に見えない何かを悟ったように言った。
「俺には如何にも出来ない。お前は母国へ強制送還されて、法の名の下に一生飼い殺しだ」
葵が、そっと目を伏せる。
だけど。
黒薙が、言った。
「現実から目を背けて、何か変わるか?」
目の前にある現実が八方塞がりの絶望だったとしても、何時かは救いがある。
止まない雨も、明けない夜も、覚めない夢も無い。黒薙は無表情に、それを強く訴え掛ける。けれど、目に見えない希望を抱き続けることのなんと難しいことだろう。
「足掻け、抗え、信じろ。例え、今この瞬間が絶望であったとしても、必ず朝が来る。お前のヒーローなら、そう言っただろう」
そうだ。
ヒーローなら、そう言った筈だ。
希望がある、希望がある、希望がある、と。
葵が、ゆっくりと目を閉じた。そして、天を突くような睫毛に彩られた瞼がそっと開かれる。其処には出会った頃とは異なる、確かな光を宿した双眸があった。
「俺のヒーローは、死んだよ」
葵が言った。
葵にとってのヒーローは、唯一の肉親であった兄と、記憶を失った和輝だった。
「どんな人間も何時かは死ぬ」
葵の持ち出した極論が、まるで呪いの言葉みたいに恐ろしく響いた。けれど、霖雨には、それが藁にも縋るような祈りの言葉に聞こえた。
「この建物も包囲されているんだろう。どの道、ーーもう、疲れてしまったよ」
力無く、葵が言った。
「抵抗も逃亡もしない。だから、少しだけ、時間をくれ」
最後に自由な空気を吸わせてくれ。
そう言って、葵はくるりと踵を返した。言葉の通り、彼は抵抗も逃亡もしないのだろう。黒薙も追い掛けはしなかった。
空気に溶けてしまいそうな透明人間の背中を、霖雨は呆然と立ち尽くして見ていた。
平等の神様
⑵清算の時間
「如何にかならないんですか!」
葵の姿が見えなくなった瞬間、霖雨は爆発するように叫んでいた。
こんなことを黒薙に訴えても意味が無いと解っている。それでも、何も出来ないままでいるのは辛い。
何か、何か出来ないのか。
此処にヒーローはいない。抵抗も逃亡も許されない。絞首台に上がった葵を助け出す手段は残されていないのか。
黒薙は目を伏せ、柄にも無く言い訳のように答えた。
「やれる事は全てやった。俺も、香坂も、ーー白崎匠もな」
「白崎匠?」
ヒーローの相棒だ。
記憶を失ったヒーローに代わり、その無念を叫んだあの青年が、何をしたと言うのか。
黒薙は舞台裏を暴くように言った。
「凡ゆる伝手を総動員して、神木葵の強制送還を阻止しようとしたんだ。一介の公務員の俺なんかより、よっぽど強大なコネクションがある」
そう言えば、ヒーローの父親は臨床心理学会の権威だった。
白崎匠は、生死の境を彷徨う和輝の側にいながらも、最大限努力したのだ。彼の言う通り、霖雨や葵が警察署でぬくぬくと事情聴取として保護されている最中も、抗い続けたのだ。ーーそれでも、何も出来なかった。
「不法入国者である神木葵は、この国の法に守られない。あいつの犯して来た罪については、正当防衛も成り立つだろう。証拠が無いからな、立証は不可能だ」
それを望んだのは、葵だ。けれど、見付かった葵を、野放しには出来ない。母国はそれを見逃しはしない。
神木葵は透明人間だ。
法を守らなかった葵を、法は守りはしない。
「透明人間の神木葵の引き渡しを止める方法は無い。そして、母国へ戻ればどんな理由があったとしても、過去に下された診断に従って隔離されるだろう」
過去は未来に復讐する。葵の言葉が、重く圧し掛かる。
全ては身から出た錆であると、葵はもう受け入れている。けれど、その種を蒔いたのは、葵ではない。彼は真っ当な被害者である筈だった。
何が悪かったのだ。葵には何の落ち度も無い。最悪の結末を予測して、最良の選択をした。
「今の俺達に出来ることは、何も無い」
何も。
その瞬間、目も眩むような千尋の谷へ背中から突き落とされたような転落感に陥った。身体を支えている芯のようなものが、真ん中からぽきりと折られてしまったようだ。
霖雨は途方も無い無力感に襲われて、立っていられなかった。その場に蹲り、頭を抱えた。焦燥感に逸る拍動に、目眩がした。
もういいじゃないか。
何度でもそう思う。
けれど、法は怠慢を許しはしない。厳格に公正に、等しく裁きを下す。
その時、黒薙が言った。
「何を嘆いているんだ?」
不思議そうに、黒薙が問い掛ける。
「この結末は予測出来ていただろう。回避する術が無いのなら、打開する方法を探すべきだ」
「そんなものが、あるのなら!」
「今の俺達には無いかも知れない。だが、未来は解らない。藁にも縋るような未来の可能性に賭けるということが、お前達のヒーローの指す希望なんだろう?」
「あんたに何がーー!」
八つ当たりのようなことを口にし掛けて、霖雨は黙った。穏やかな昼下がりの病院の何処かから、不意に声が降り注いだ。
失っても、失っても、希望はある。だから、前を向いて生きるしかないんだよ。
何時かのヒーローの言葉を思い出して、霖雨は闇の中に一筋の希望を見たような気がした。
まだ、希望はある。目に見えないけれど、可能性がある。そう信じて足掻き続けるしか無いのだ。
ヒーローは何時も前を向いていた。自分の信念を貫く為には手段を選ばず、決して諦めなかった。
「……今度は、俺の番か」
和輝も葵も、最大限足掻いたのだ。
何時か、兄の春馬が言っていた。彼等は崖の淵に立ち、一方が転落する時にその手を離すという選択肢が存在しない。
それなら、自分が手を繋ごう。彼等が転落しないように。
「黒薙さん、ありがとう」
霖雨は立ち上がった。身体中に纏わり付いていた倦怠感は剥がれ落ち、やけに清々しい気分だった。
覚悟してしまえば、如何ということも無い。彼等を信じて、自分の出来ることを探し、抗い続けるのだ。例え、それが荊の道を歩むような辛く厳しい選択だったとしても。
「覚悟は決まったか?」
黒薙が問い掛ける。霖雨は、笑った。
彼の叱咤激励は、此処にいないヒーローに対する恩送りなのだろう。
「もうずっと前から、決まっていますよ」
ヒーローは、死んでいない。
彼の記憶が消えたとしても、霖雨は覚えている。だから、大丈夫。あの透明人間を救う方法がある筈だ。希望を持って抗い続ける事こそが、霖雨に出来る、葵や和輝に対する最大の恩送りなのだ。