表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
平等の神様
55/68

⑴対価

 Life is too short, and the time we waste in yawning never can be regained.

(人生は余りにも短く、そして、退屈し消費した時間は決して取り戻すことが出来ないのだ)


 Marie Henri Beyle








 事件から一週間、霖雨と葵は事情聴取を受け、殆ど警察署に拘束されていた。


 広場に集まった民衆は解散し、あの団体も空中分解。主犯とされる翡翠は生死不明で、真実は闇の中へ葬られた。


 警察官の香坂や黒薙ばかりが、伝書鳩のように情報を行き来させている。しかし、本当に知りたい情報は何一つ届かなかった。


 漸く警察から解放され、霖雨と葵は疲労感に倒れてしまいそうだったが、帰宅はせずにその足で病院へ向かった。


 広場から搬送された筈の和輝の情報が、霖雨や葵の元へは一切届かなかったからだ。最後に見た限りでは無事に見えたが、大怪我を負っていることに変わりは無い。

 個人情報の取り扱いは難しい。一応、一般人である和輝の容態が第三者から知らされるなんてことはあってはならないのだ。


 兎に角、顔を見て安心したかった。

 同じ思いだったのか、霖雨と葵は示し合わせた訳でもないのに病院の入り口で鉢合わせた。久々に合わせた顔は互いに窶れて見えて、どちらとも無く笑った。


 しかし、到着した先では警察に足止めされた。患者は絶対安静だと門前払いを喰らい、まともに受付することも叶わない。


 打つ手無しだと、霖雨と葵は途方に暮れた。

 其処に、猫みたいな目をした青年が現れた。


 ヒーローの親友、白崎匠だった。

 彼は真っ白なスキニージーンズにボーダーのカットソーという爽やかな春の出で立ちをしていた。紺色のキャンパスシューズでリノリウムの床を叩き、彼は怪訝に眉を寄せた。


 霖雨と葵に対して、白崎匠は好意的ではない。自分の大切な親友を幾度と無く事件に巻き込んで来た迷惑な輩だと認識しているのだろう。


 今回の事件にしても、原因とまでは言わないが、根幹にいたのは葵だ。そして、その中で最大の被害を受けたのは和輝だった。親友である白崎匠から見れば、面会を快くは思わないだろう。

 それでも、巻き込んだからには顔を見たい。何が出来るとは思わないが、このまま引き下がる訳にも行かない。それこそ、無責任だろう。


 白崎匠は、入り口の扉の前に立ち塞がるようにして向き直って動かない。

 猫に似た目は威嚇するように二人を睨んでいた。




「和輝には、会わせないよ」




 梃子でも動かないと言わんばかりの叩き付けるような強い口調だった。

 霖雨も葵も面食らってしまい、続ける言葉を吐き出せなかった。




「そんなに容態が悪いのか?」




 霖雨が狼狽して問い掛けると、白崎匠は訝しむように目を細めた。




「それを聞いて、如何するの?」

「如何するも何も、心配だろ」




 霖雨は当たり前のことを答えた。だが、白崎匠は顔色一つ変えなかった。




「容態は安定しているよ」

「良かった」




 霖雨が胸を撫で下ろす。葵は何も言わなかった。

 白崎匠は蝟のように全身から警戒を滲ませて威嚇している。




「何の用なの?」

「友達が心配で顔を見たいと思うことに、理由がいるのか?」

「今更?」




 白崎匠は、明確な敵意を向けていた。

 霖雨は、先日、顔を合わせた時のことを思い出す。此処まで警戒され、邪険に扱われる謂れも無い筈だ。


 だが、彼は言った。




「あいつは、死に掛けたんだぞ」




 知っている。だが、口には出来なかった。

 ヒーローは自身の危険も顧みずに、助けを求める人がいれば手を伸ばす。それが彼の抱く存在意義で、信念だった。

 どんな危機からも必ず生還するヒーローを知っていると、彼は殺しても死なないように感じてしまう。だが、彼は白崎匠の言う通り、死に掛けたのだ。




「お前等が警察署で事情聴取と言ってぬくぬくと保護されている最中、あいつは生死の境を彷徨っていたんだぞ」

「俺達だって、好きで警察署にいた訳じゃない」

「そうだとしても、お前等は何もしてくれなかったじゃないか」




 静かな怒りが、水面に浮かぶ波紋のように広がった。ぎゅっと握られた白崎匠の拳が震えていることに、霖雨はその時になって漸く気が付いた。




「お前等は、何も解ってない。お前等はあいつのことを不死身のヒーローだと思ってる。でも、あいつはただの人間で、一度死んだら生き返りはしない」




 そんなこと、解っている。ーー否、解っていなかったのかも知れない。


 真綿で首を絞めるようにして、沈黙が下りて来る。逃げ出してしまいたいと思う。自分の行為の責任を取ることは恐ろしいことだ。それでも、引き下がる訳にはいかなかった。


 白崎匠は深呼吸をして、観念するみたいに言った。




「他人に聞くより、直接会った方が早いかもな」




 自分に言い訳をするみたいに、白崎匠が零した。

 何が彼の意思を変えたのか、白崎匠はくるりと踵を返して院内へ招き入れた。

 霖雨と葵は狐に摘まれたような心地で、足を踏み入れた。


 エレベーターで最上階の角部屋。

 入り口には制服を纏った警察官がいた。まるで門番のようだ。

 白崎匠はノックもせずに扉を薄く開けて、中を覗き込んだ。

 ネームプレートには何も書かれていない。警察官に守られる様は要人みたいだが、今回の事件の規模を考えると当然のことなのかも知れない。




「匠」




 耳に焼き付いたボーイソプラノが、心地良く響いた。


 名を呼ばれた白崎匠は、静電気のような緊張を滲ませている。だが、相対しているヒーローは、顔こそ見えないが普段と何も変わらない呑気な調子だった。




「良いから、寝てろ」

「退屈なんだよ」




 張り詰めた糸が解けるように、緊張感が消えて行くのが解った。


 霖雨が思うよりも元気そうな声だった。けれど、そのヒーローは巧みに嘘を吐くので、声だけでは判断出来ない。やはり、顔を見ないことには帰れない。


 白崎匠は、扉を開けた。


 部屋の中には、霖雨の知らない医療機器の数々が設置されていた。心電図は患者の脈を刻み続け、看護師が在留している。

 真っ白なベッドの横に置かれたサイドテーブルには、溢れんばかりの鮮やかな花々が活けられていた。見舞いの品らしきフルーツバスケットが色を添え、室内は春の野原の如く色取り取りに染まっていた。

 けれど、その中心に、霖雨の視線は強烈に惹き付けられた。惑星のような引力で、見る者全てを魅了する。


 美しい少年だった。

 周囲の全ては彼を彩る脇役でしかないのだと言うように、その存在感は圧倒している。部屋の中は彼を描く為のキャンバスなのだ。

 くっきりとした二重瞼、長い睫毛に彩られた栗色の双眸。額には包帯が巻き付けられているけれど、頬に差した朱色が腕白そうな印象を与える。


 天使が舞い降りたかのように、霖雨はうっとりとして動けなかった。




「和輝」




 葵がその名を呼ぶと、和輝は驚いたみたいに目を瞬いた。其処で漸く霖雨は呼吸を思い出した。

 白崎匠は様子を伺っているように、何も言わない。




「元気そうじゃないか」




 霖雨はほっとして言った。

 部屋に足を踏み入れようとしたが、看護師の睨め付けるような視線に萎縮してしまって、その一歩は引き戻された。


 和輝は花が咲いたように、美しく微笑んだ。

 多分、この先の人生で、彼以上に美しい人間には出会わないだろう。霖雨にはそんな直感があった。




「お蔭様で?」




 首を傾げながら、和輝が言った。

 経緯を考えると嫌味だが、目の前の彼は慈愛に満ちた目をしていた。


 和輝は扉の横に立って監視している白崎匠を見て、途端に砕けた口調になった。




「お茶くらい出せば」

「お前が出せば」




 仕方無いな。

 和輝がベッドから起き上がり、白く細い両足を床へ下ろした。リノリウムの床に行儀良く並んでいる青色のスリッパがやけに大きく見えて、遠近法が狂っていることに気付く。


 和輝は立ち上がると、サイドテーブルの抽斗を開けた。あれでもないこれでもないと中を漁り、結局、小さな緑茶のペットボトルを取り出した。

 手渡されたそれを受け取り、霖雨は小さく礼をした。葵は何かを伺うように、和輝の一挙一動を観察している。

 冷えている筈も無い温い緑茶のパッケージには、懐かしい母国の文字が記されている。見舞いの品の一つなのかも知れない。


 和輝は、霖雨と葵を見上げて、少女みたいに首を傾げた。




「緑茶は嫌い?」

「いや」

「それなら、良かった」




 和輝はからりと笑った。

 これまでは毎日顔を合わせていたのに、強制的に離れた後になると距離感が掴めない。


 その時、和輝が奇妙なことを言った。




「君達が母国の言葉を話しているから、同じ出身だと思ったんだ」




 霖雨は、金縛りに遭ったように、身体が動かなくなった。

 何か得体の知れないものが部屋の中に充満しているような気がして、息苦しささえ覚えた。

 名状し難いこの違和感は、何なのだろう。

 彼は何を言っている。そんな、今更なことを。


 霖雨と葵が黙っていると、和輝は笑顔のまま問い掛けた。




「ところで、どちら様ですか」




 それは、突然、背中から空虚な穴の底へ突き落とされたかのような衝撃だった。


 鳩尾を打たれたように、声一つ上げられない。和輝が何を言っているのかすら、霖雨には解らなくなってしまった。


 其処で白崎匠が進み出て、会話を叩き切った。




「診察の時間だ」

「その人達はどちら様?」




 白崎匠は逡巡するように目を泳がせて、答えた。




「俺の知り合い」

「そうなんだ。わざわざ、ありがとうございます。匠が世話になっています。どうぞ、これからも、」

「ーーいいから、さっさと行け!」




 追い払うみたいに白崎匠が怒鳴り、和輝は小さく会釈して廊下の向こうへ走って行ってしまった。


 病室の前に取り残され、何が起きているのかも解らないまま、霖雨は呆然としていた。

 葵ばかりが、沈黙する白崎匠を睨むように見詰めていた。




「そう睨むなよ。俺が何かした訳じゃない。ーー教えてやるから、場所を変えるぞ」




 部屋には入らず、白崎匠は踵を返した。その方向が、先程、和輝の駆けて行った方向と真逆だったので、本音は会わせたくないのだろうと察した。


 霖雨も葵もこの場で追求する意味を見出せず、邪魔者扱いする看護師の視線から逃れるように、白崎匠の後を追った。








 平等の神様

 ⑴対価








「予兆は、あったんだ」




 病院の中庭は青々とした芝生が敷かれ、春の暖かな日差しに満ちている。入院患者と来訪者が昼下がりの散歩を楽しみ、やがて、建物へと消えて行く。

 匠は壁際のベンチまで進むと、ポケットの中から缶コーヒーを取り出した。

 有り触れた安い缶コーヒーだ。匠はプルタブを起こした。空気の抜ける微かな音が、まるで彼の堪えて来た溜息のように聞こえた。




「異常者に拉致された和輝が救出されて、一度昏睡状態になった。如何にか意識が回復した時、FBI捜査官だという男が来た。俺は面識が無かったんだが、和輝の知り合いらしかった」




 黒薙という男だと、匠は言った。




「だが、和輝は彼を知らないようだった。さっきみたいに、どちら様って訊いた」




 霖雨は、言葉を失っていた。

 どんな反応をするべきなのか解らなかった。




「側頭葉の損傷による高次脳機能障害というのが、医師からの診断結果だった」




 脳の損傷ーー。

 翡翠に拉致された和輝は、地下の手術室で拷問を受けた。その内容を霖雨は知らない。

 両手の爪は全て剥がされ、手術室は血塗れだった。だが、驚異的な回復を見せた和輝を大丈夫だと思い込んで、霖雨は追求すらしなかった。




「治療法は無く、回復の目処は立っていない。生涯記憶が戻らない可能性もある。あいつが受けた拷問は脳波を狂わせ、人格を破壊するものだった」




 拉致され拷問を受けた際、ダメージを受けた脳は、機能を守る為に記憶を消したのだ。

 あの和輝が、記憶を消したいとすら思う程のストレスが脳には掛かっていた。霖雨は気付くことも出来なかった。


 何時も、そうだ。

 言葉が凶器になると言い訳をして、本当に必要な時に何も出来ていない。失くしてから、後悔する。


 翡翠は、これを予期していたのか?

 彼はボーナスタイムと言った。それは、和輝の記憶が消えるまでの残り時間だったのか?

 今更問い掛けることも出来ない。




「部分的な健忘症だ。調べたところ、和輝が失ったのはお前等に関わる記憶に限られている。日常生活に支障は無い程度らしいが、自分が何処で誰と暮らしていたのかは覚えていない」




 匠に表情は無かった。まるで、感情をごっそりと何処かへ落として来てしまったかのような虚ろな目をしていた。


 霖雨は言葉を見付けられず、どんな言葉も藪蛇になるような気がして黙り込んでしまった。両手の指先から血の気が引いて、冷たくなって行くのが解った。




「馬鹿だと思っていたが、記憶を失くす程に馬鹿だったか」




 小馬鹿にするように葵が言った。けれど、その目に嘲りの色は無く、動揺しているのが見て取れた。


 白崎匠は続けて言った。




「和輝は連れて帰るよ。この国はもう、安全じゃない」

「大学は如何するんだ? 勤務先は?」

「元々、大学は欧州だ。勤務って言ったって、体の良いアルバイトみたいなもんだろ」




 何か不都合があるか。

 苛立ったような強い口調で、白崎匠が言う。

 霖雨には反論が浮かばなかった。何の不都合も無い。彼にとっては、この国にいることが既に不都合になってしまっている。


 霖雨は藁にも縋る心地で訊いた。




「……偶に連絡しても良いかな」

「駄目だ」




 取り付く島も無く、白崎匠が言った。




「脳が記憶を抹消することで、心を守ったんだよ。思い出す必要の無い記憶だ。何かのきっかけで思い出して、あいつが苦しむ姿は見たくない」




 見たくないんだよ。

 白崎匠の懇願するような声に、霖雨は返す言葉が一つも見付けられなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ