⑺友達
白煙に包まれた広場は、蟻の巣を突いたような大混乱だった。警官隊と民衆の激しい衝突は最早収束不能で、誰もが興奮に染まり、冷静さとは真逆の状態に陥っている。
自由を求める民衆の暴動だ。だが、全ては違法薬物による変性意識状態なのだ。彼等の意識は翡翠によって作り出された紛い物に過ぎない。
翡翠は、過去をやり直したいのだ。
自分が納得出来るように舞台を整え、演者を用意し、事実を塗り替えようとした。けれど、その計画は既に、御破算だ。
噴霧された解毒剤によって、やがて人々は理性を取り戻すのだろう。
全ての目論見が悉く潰えた翡翠は、糸の切れた操り人形みたいに項垂れていた。だが、その時、彼の腕が予備動作も無く持ち上げられた。
霖雨や葵、香坂や黒薙が構える暇も無かった。
人の命を指先一つで奪う凶器ーー、その銃口が、予定調和から脱出したヒーローへと突き付けられていた。
脅威と対峙した和輝は、顔色一つ変えなかった。まるで、こうなることをただ一人予期していたみたいに。
「お前が本当に欲しかったものって、何なの?」
心底不思議そうに、透明度の高い双眸が問い掛ける。顔を上げた翡翠は、ぎくりと身体を強張らせた。
このヒーローの瞳には、妙な力がある。此方の思惑を看破し、思考すら見通すような底知れぬ恐ろしさがある。
「好奇心は人を生かしもするが、殺しもする」
「好奇心じゃないよ。俺はただ、お前のことを助けたいんだ」
「友達だから?」
この二人は、相容れない。二人は異なる正義を持っていて、それが衝突する時、どちらかが命を落とす。
霖雨は、そう思っていた。
この二人を会わせてはならない、と。
けれど。
「他に理由があるか?」
けれど、違うのかも知れない。
和輝が言うように、傷付けたり、殺し合ったりする以外の選択肢があるのかも知れない。
至極当然のことを言うみたいに、和輝は透き通る眼差しを向けていた。
「俺に出来ることはあるかい」
「じゃあ、」
翡翠は、何かを言い淀むみたいに口籠もった。何時も台本を読むようにつらつらと言葉を放つ彼の仮面が剥がれたように見えた。
「じゃあ、一緒に死んでくれって言ったら、死んでくれるの?」
撃鉄の起こされる音が、繁劇紛擾の大混乱の中でやけに静かに響き渡った。
庇うように、葵が腕を広げる。和輝は答えた。
「一緒に生きることは、出来る」
その瞳と同じ柔らかな否定だった。否、肯定だったのかも知れない。これは何時かの透明人間とヒーローの問答だ。過去を思い出し、霖雨は心臓が握られ軋むような痛みを抱いた。
翡翠や朝比奈という異常者は、殺害することにしか価値を見出せないのだ。それは彼等の未熟な愛情表現で、最大の親愛の証なのだ。
和輝には、それが解らない。此処には見えない境界線がある。
翡翠は吐き捨てるように嗤った。
「どうせ、お前には解らない」
「何でもかんでも、言葉で説明出来ると思うなよ。そういうの、苦手なんだ」
困ったように、和輝は眉を寄せた。とても銃口を突き付けられているとは思えない。
価値観や信念の壁が、彼等を切り離している。きっと、彼等は理解し合えない。
でも、そうだねえ。
血の気の無い白い面で、和輝は霖雨を見た。
「お前の歩く空が晴れていると、俺は嬉しい」
そう言って笑った和輝が、出会った頃の彼と重なって見えた。きっと、彼は変わらないのだろう。
例え絶望の闇が包み込んでも、朝が来ることを信じて歩き続けるのだ。希望は失われないと体現するように。
「馬鹿だねえ」
翡翠が、肩を落とした。向けられた銃口は下げられ、あれ程に恐ろしかった殺人鬼が、まるでただの人間に見える。
お前は馬鹿だねえ。
何時かの言葉をなぞり、翡翠が笑った。それこそが、彼の本質なのかも知れない。霖雨は何故だか、そう思った。
「ボーナスタイムは、終了しました」
唐突に、翡翠が言った。
霖雨は勿論、葵や和輝にも理解出来なかった。
「さよならだ、ヒーロー」
「またね、じゃないのかい?」
「そうだねえ」
何処か演技掛かった仕草で、翡翠は顎に指を添えた。
「お前が膝を着き、何もかも諦めたその時には、迎えに行くよ」
その時は、俺が殺してあげる。
翡翠は予言のように告げ、うっとりと嗤った。彼のターゲットが葵から和輝へと切り替わるのが、解った。
葵は臨戦態勢を解かぬまま、緑柱玉の瞳を見詰めている。
「こいつが死ぬ時は、俺が殺す」
「物騒だな」
つい、霖雨は零してしまった。
だが、翡翠は可笑しそうに喉を鳴らしていた。
「バイバイ」
名残惜しむように顔色を歪めた翡翠が、くるりと背中を向けた。香坂や黒薙も、その無防備な後ろ姿へ発砲しようとはしなかった。そして、誰も追い掛けようとはしなかった。
白い煙の向こうに消える背中がやけに小さく見えた。
包帯に覆われたヒーローの拳が震えている。
霖雨は俯いた和輝に見ない振りをして、消えて行く質量のある幽霊を何時までも見送っていた。
ボーナスタイム
⑺友達
「ずっと考えていたんだけどさ」
救急車での搬送の為に担架へ乗せられたヒーローは、遺跡から発掘されたミイラ男みたいだった。このまま博物館にでも寄贈してやれば、その無鉄砲さや御人好しさも多少はマシになるかも知れない。
強化硝子の向こうに展示されるヒーローの姿を思い浮かべながら、葵は身体を起こすことも出来ない和輝の言葉の先を促した。
「俺は友達だから、葵のことも、翡翠のことも知っている。どちらが正しいとか間違っているとか、そんなことは解らないよ。十年も前のことなんて、見てもいないからね」
先程の言葉をあっさりと翻して、和輝が困ったように言う。
何もかもぶち壊しじゃないか。葵は呆れてしまった。
あの時ーー、何も正しくないと和輝は言った。まるで、当たり前の正解を導き出したみたいだった。
けれど、すぐに気付く。このヒーローは人の嘘が解る。善悪の判断は出来なくても、相手が嘘を吐いているかは解るのだ。
葵には見えなかった翡翠の本心が、和輝には見えていたのかも知れない。だから、善悪ではなくて、彼の心に投げ掛けたのだ。
異常者と、殺人鬼と、サイコパスと呼ばれた翡翠に心があると信じて。
「どちらか一方が有りで、もう一方は無しって言うんじゃなくて、どっちも有りって言うのは如何かな?」
「何を言っているのか、解らない」
葵は、今にも救急車に乗せられそうな和輝へ率直に答えた。彼の言っていることは大抵要領を得ないが、意識が朦朧としている為か一層理解不能だ。
だが、和輝は透明な眼差しを真っ直ぐに向けていた。ーー彼に出会った時から、何かに似ていると思っていた。兄の面影を重ね合わせていたのだと思っていた。だが、今にも閉じられそうな双眸を前にして、葵は漸くその答えを知る。
鏡だ。
彼の瞳は、鏡に似ている。
自分は、彼の鏡のような双眸に映る自分の姿に兄の面影を重ね合わせていたのかも知れない。合点がいくと同時に、滑稽だった。
和輝はその目を歪めて、笑った。
「俺は葵のことも翡翠のことも信じたいから、どっちも有りにする」
「ずるくないか?」
呆れたように、霖雨が言った。
葵には理解出来なかったが、如何やら、彼等には通じているらしい。
「その結果、両方を取り零すかも知れないよ」
「その時のことは、その時考えるよ」
「無責任だな」
「責任は取るよ。何時かね」
こいつ。
葵が思うよりも、和輝は好い加減だ。こんな馬鹿に救われたと思うと頭が痛い。
違法薬物に汚染された民衆は解毒剤の効果からか理性を取り戻し、病院へ搬送され、或いは逮捕された。
民衆の暴動だ、犯罪組織のテロ行為だと押し寄せたマスメディアが好きに報道し、事態の収束にはまだ時間が掛かるだろう。
警察官である香坂や黒薙は既に駆り出され、この場にはいない。首謀者が消えたこの騒動をどのように纏めるのか、彼等の手腕に期待する。
少年みたいに笑った和輝は、苦笑いを浮かべる救命救急士によって救急車へ乗せられた。
相変わらず、派手だねえ。
無茶ばかりだねえ。
命が幾つあっても、足りないな。
そんな軽口を叩かれながら、和輝は搬送されて行く。同窓会みたいな様相を呈していた。
出遅れた葵や霖雨は顔を見合わせ、同乗しようとした。だが、踏み出した足は、其処に仁王立ちする青年に阻まれた。
白崎匠だった。
彼は車内で、待ち伏せていたようだった。
曰く、ICUから無断で飛び出して来たらしい。意識不明の重体で運ばれて来た親友が、傷も癒えぬまま病室から突然消えたのだ。大層、肝を冷やしたことだろう。
白崎匠の猫のような双眸が、ちらりと此方を一瞥した。射抜かれたような冷たい視線に背筋が凍る。彼は感情を押し殺したような無表情で、何も言わなかった。
救急車の扉が下される。葵と霖雨は閉め出しを食らったように追い出されてしまった。
だが、扉が閉ざされる刹那、爆発するような怒号が聞こえた。
「ーーふざけんじゃねえぞ、この馬鹿野郎!」
葵は思わず肩を跳ねさせた。
冷静そうに見える白崎匠も、感情のままに怒鳴ることがあるのだなと、感心すらしてしまった。
サイレンと共に走り出した救急車を見送り、置いてけ堀になった葵は尻ポケットを探った。しかし、目当てのものは其処に無かった。
「禁煙したんだろ?」
霖雨に言われて、葵は腹の据わりが悪くなる。
そうだった。
手持ち無沙汰になり、葵は深い溜息を零してその場にしゃがみ込んだ。
ここ数日の騒動を思い返し、疲労感がどっと背中に圧し掛かる。このまま眠ってしまいたいとすら思った。
その時、ぼんやりと空を見上げていた霖雨が言った。
「翡翠は、朝比奈って人が好きだったのかな」
それは葵には共感出来ない感情だった。
始まりは、一つの恋だった。
翡翠はそう言っていた。葵には、その心理作用が解らない。
霖雨や和輝のことは、面倒だと思うが、嫌いではない。だが、朝比奈やエイミーという異常者が向けていた執着とは異なる。
霖雨や和輝が澄んだ湖畔の水面ならば、彼女達は、まるで底知れぬ澱んだ沼に似ている。一歩でも足を踏み入れたら、二度と這い上がれないような泥濘だ。
「殺したい。殺されたい。きっと、それが彼等の愛だった」
罪な男だねえ。
霖雨が皮肉っぽく笑った。
「厄介な感情だな」
「感情なんて、厄介なものだよ。機械にでもなってしまえば、楽だろうね」
何時か、葵は和輝と心とは何かと問答をした。
葵は共感能力の有無であると定義した。和輝は、理解出来ないものを理解したいと願うことこそが心だと言った。
今でも葵の考えは変わらないけれど、和輝の言うことも解るような気がした。ヒーローの言うように、どちらか一方ではなくて、どちらも有りと言う考え方ならば、議論は完結するのかも知れない。
それでいいかと、思った。
「厄介で、面倒なことこの上無いがーー、機械になるよりはマシかな」
和輝の作る食事が美味いと思ったり、霖雨の愚痴に呆れたり、そうして日常は続いて行くのだ。葵はそれでいいと思うし、それがいいとも思った。
霖雨は少しばかり驚いたみたいに目を丸めて、綻ぶように笑った。
「お前、変わったね」
「そうかもね」
「俺はいいと思うよ。人間らしくて」
何だかよく解らないが、構わないかと思った。立ち上がると、膝の関節から乾いた音が鳴った。急速に自分が年老いたように思った。
見上げると突き抜けるような蒼穹が広がっている。ブルーパールの石碑に名前を刻まれた友人が、其処に立っているような気がした。
影送りだ。こんなものは目の錯覚だ。そう解っていても、葵は言ってやりたくなった。
生きて行くのは、しんどいよ。
楽になりたいと思う時もあるよ。
でもね、死のうとは、思わないんだ。
友達が、出来たんだよ。
俺は此処で生きて行くよ。何時か会う時に胸を張って誇れるように、堂々と生きて行くから。
だから、その日まで。
「さよならだ」
何時か、兄の墓参りをしよう。長い間待たせてしまった。暮石を磨いて、掃除をして、花を供えよう。流石にカレーまで供える訳にはいかないから、言葉で仲直りをしよう。
遠い母国の空が瞼の裏に蘇り、急に胸が締め付けられるような郷愁の念に駆られた。
石碑へ背を向けて、葵は足を踏み出した。
霖雨ばかりが首を傾げていたので、葵はその脛を軽く蹴ってやった。