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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
ボーナスタイム
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⑹もう一つの真実

 此処は敵陣真っ只中だ。信者が一斉に襲い掛かって来たら、自分達なんて一溜まりも無い。しかし、信者は皆一様にぼんやりとした顔で、目の前で起こる出来事全てを遠い世界のことみたいに看過している。


 この目を知っていると、霖雨は思った。

 自宅を強襲した大男や、過去と現実の判断出来なくなっていた葵と同じだ。

 違法薬物GLAYによる、集団心神喪失状態ーー。


 この狂った空間で、翡翠は何をしようと言うのか。霖雨は警戒を解かぬまま、彼の次の動作に身構えた。

 翡翠は、相変わらずの食えない笑みを浮かべていた。




「今から十年前、一人の警察官が異常者に殺された。激しい交戦の中、警察官は最期の抵抗に犯人の脛に噛み付いたという」




 やはり、それか。

 霖雨は、胸の中に石でも転がり込んだかのようにすとんと納得した。自分達の仮定は間違っていなかった。


 翡翠が、猫のようにすっと目を細めた。




「これは間違った筋書きなんだよ」




 彼が何を言っているのか、霖雨には解らなかった。しかし、追及する者がいる筈も無い。痛い程の沈黙の中で、翡翠は嬉々として語り始めた。




「始まりは、一つの恋だった」




 恋ーー。

 その言葉は、逃れられぬ呪詛に似ていた。翡翠は、背筋が凍るようなうっとりとした微笑みを浮かべていた。




「一人の女性が恋をした。想いを遂げる為に手紙を認め、彼の元へ向かった。だが、邪魔者が現れた」




 誰のことを、言っているのだ。

 霖雨には解らない。葵と和輝ばかりが神妙な顔付きで耳を傾けている。




「二人は出逢い、彼女は想いを遂げる筈だった。だが、邪魔者が現れたばかりに彼女は逮捕され、彼と引き裂かれた」




 その時、和輝の身体がぐらりと傾いて、霖雨の肩に凭れ掛かった。少年のように小柄な身体は熱を帯びていた。


 それでも、美しい双眸には刃の切っ先にも似た鋭い光が宿っている。

 熱に浮かされた譫言みたいに、和輝が言った。




「随分と、自分に都合の良い話をするね」




 激しい運動の直後みたいに荒く息をする和輝が、忌々しく顔を歪めていた。




「彼女は、異常者だった。他人に共感しないサイコパスだった。自分の考えが普遍的なものだと思い込み、相手も同じ思想だと決め付け、暴走したんだ。結果、彼女は警官を殺害し、逮捕された」

「それこそ、お前にとって都合の良い話じゃないか」




 苛立ったような尖った声が突き刺さる。翡翠は蛇蝎の如く、和輝を睨み付けていた。


 彼等の話は、十年前に起きた殺人事件のことなのだ。

 朝比奈香理という異常者が葵に執着し、ストーカー行為を繰り返した。生命の危機を感じた葵は、彼女の殺害の手段を講じ、兄に阻止された。

 兄は弟に代わり、朝比奈の元へ向かい、交戦し、殺害された。少なくとも、それが公式に残された事件の概要だった。


 視点が異なれば、内容も異なる。

 葵にとっての事実が、翡翠にとっての真実とは限らない。


 葵は、朝比奈を殺そうとした。

 そして、朝比奈は、葵に殺されようとしていた。

 だが、現実は、葵の兄が現れ、身代わりのように死んでしまったのだ。




「彼女は彼に殺されたかったんだ。彼もそれを望んでいた。邪魔者さえ、現れなければ!」

「殺害を望んだ訳じゃない。それ以外の選択肢を失う程に、追い詰められていたんだ」




 息も絶え絶えの和輝が、懸命に反論する。

 その声も翡翠には届かない。




「彼女は邪魔者を葬った。しかし、愚かな法に支配された社会は、彼女を悪にして、排除した」




 彼女は、少数派だった。少数派は弾圧される。だからこそ、翡翠は集団という力を得て善悪を逆転させようとしている。

 現時点、弾圧されるべき少数派は自分達だった。善悪の基準が時代によって変動する曖昧なものだとしたら、果たして咎められるべきなのは誰なのだろう。


 翡翠が口を開く。

 その言葉が発せられる一瞬が、霖雨にはまるでコマ送りに見えた。




「何が正しかったと思う?」




 何が。

 霖雨には、解らない。翡翠の言っていることが何一つ理解出来なかった。まるで、水族館の水槽の向こうを覗いているような、演劇の舞台を見上げているような奇妙な心地だった。


 歓声も野次も上がらない静寂の中で、和輝の声が風鈴のように凛と響いた。




「何も正しくないだろ」




 人々を争いへと駆り立てる狂気に水を差すもの。冷水を浴びせるような理性的な声だ。それは、十年の時を経て届いたヒーローからの返答だった。


 何が正しかったと思う?

 何も正しくないだろ。ーーそんなこと、始めから解っていた筈なのに。


 翡翠は呆れたように肩を落とした。




「俺とお前は解り合えないよ」




 そう言って、翡翠は何の予備動作も無く、懐から黒い鉄の塊を取り出した。霖雨や葵が身構える暇も無かった。周囲の人間は死んだ魚のような目をして、声一つ上げなかった。


 引き金に指が掛かる。翡翠は、舞台演者のように声高らかに、歌うように叫んだ。




「ご覧下さい! ーーあの日、本当は何が起こるべきだったのか!」




 照準は瀕死のヒーローへ向けられていた。十年前と同じように、異常者は邪魔者を葬り去ろうとしている。霖雨は蛇に睨まれた蛙のように身動き一つ出来なかった。

 これは翡翠の書いた筋書きなのだ。此処にいるのは舞台演者で、脚本家へは届かない。


 だが、銃弾が放たれる刹那、葵が和輝を庇った。

 乾いた音が一つ、尾を引いて響いた。


 瞬きすら間に合わないコンマ数秒。空気を引き裂いた銃弾は舐めるように葵の頬を滑った。




「葵!」




 霖雨は悲鳴を上げた。頬の傷を知覚していないように、葵は殆ど反射的に拳銃を取り出していた。


 葵と異常者、そして、邪魔者。

 十年の時を超えた悲劇が蘇る。


 葵は、彼女を殺そうとした。彼女は、葵に殺されたかった。

 癒えることの無い傷を刻み込み、葵の中で永遠に生きようとした。


 彼女の意思を継いだ翡翠は、邪魔者を葬り去り、葵に殺されたいのだ。霖雨には、漸く彼の書いた筋書きが見えた。これは過去の再現で、翡翠は現実を捻じ曲げようとしている。


 邪魔者さえ、いなければ。




「それは、駄目なんだよ」




 細い腕が、葵の拳銃を押し留める。それは筋書きから脱出したヒーローの声だった。


 会ったことも無い筈の葵の兄が、和輝と重なって見えた。

 それは駄目なんだよ、いけないことなんだ。零れ落ちる砂を掬い上げるみたいに、彼等は何度でも手を伸ばす。


 怒りに染まった葵の目が、一陣の風が海面を凪ぐようにして鎮まって行く。




「俺の兄貴は、馬鹿だった」




 拳銃を構えていた葵の腕が、力無く下ろされる。翡翠は、理解出来ないものを見るみたいに、その緑柱玉の瞳が転げ落ちんばかりに目を見開いていた。




「自分を犠牲にして、貧乏籤ばかり引いて、下らない自己満足の為に命すら落とした」




 でもね。

 俯いた葵の手から、拳銃が落下する。




「でもね、俺はそんな兄貴を、誇りに思う」




 顔を上げた葵の目に、奇妙な光が宿っていた。透き通るような眼差しは消えてしまいそうに儚いのに、決して揺らぐことの無い強い意思に満ちている。


 希望の光だ。

 失っても、失っても、希望はある。ヒーローの言葉を裏付けるように、葵が声を上げる。




「俺の兄貴は、ヒーローだった!」




 犬死ではなく、名誉の死だった。無駄死にではなく、救済だった。絶望の闇が包み込もうとしても、何度でも希望の光がやって来る。




「俺はもう、迷わない」




 確かな意思を示した葵に、翡翠は風船が破裂するように怒りを爆発させた。

 怒りや屈辱が真っ赤に熱された一本の鉄の棒のように凝縮されて、憎悪へと化していくのが解った。








 ボーナスタイム

 ⑹もう一つの真実








「コンテニューは、もう無い!」




 翡翠の声を合図にしたみたいに、それまで人形のように沈黙を守っていた民衆は、爆発するように声を上げた。霖雨は集団という強烈な力の前でなす術が無かった。

 津波の如く押し寄せた他人の群れは、その力を誇示するように猛威を振るう。一瞬にして呑み込まれ、粉々に打ち砕かれる。

 背後より襲い掛かった無関係の人間は霖雨を羽交い締めにして、波間に呑み込むようにしてヒーローと透明人間の間を引き裂いて行った。狂気に侵された群衆が、抵抗一つしない和輝を暴力によって弾圧しようとする。


 溺れる者が藁を掴むように、葵が懸命に手を伸ばすのが見えた。呼吸すら失くしそうな閉塞感に眼が回る。霖雨もまた、人熱で溺れそうになりながら二人へ手を伸ばした。


 この手は、届かない。

 届かないと、思った。ーーその時だった。


 乾いた音が、雷みたいに木霊した。




「Freeze!」




 イレギュラーのように怒声が背後から突き刺さった。ばらばらとヘリコプターのプロペラが回転し、頭上を旋回する。其処から真っ白な煙が散布され、辺りは混乱の渦へと叩き落とされた。


 催涙弾?

 煙幕?

 否、これは、違法薬物に対する解毒剤だ。

 

 噴煙に噎せ返る中、ガスマスクを装備した武装集団が押し寄せた。その胸元には所属を示すFBIの白い文字が刻み込まれていた。

 先頭に立つのは、擦り切れそうなスーツを纏った黒薙だった。ガスマスク一つ必要としない彼は、薬物への耐性がある。集団を狂気へと駆り立てる脅威を無効化している。




「終わりだよ」




 警官隊と民衆の大混乱の最中、拳銃を携えた香坂が翡翠へ向き直る。それはゲームセットを知らせる審判のような理性的な声だった。


 霖雨は地面に引き倒され、身動き一つ出来ない程に疲弊し切った和輝を拾い上げた。まるで、ボロ布みたいだった。四肢は包帯で覆われ、血が滲んでいる。身体は沸騰しそうに熱かった。

 意識を朦朧とさせながら、和輝は結末を見届ける為に僅かに目を開いている。葵は柄にもなく焦った調子で駆け寄り、胡乱な双眸を覗き込んでいた。


 ふと目を向けた先、翡翠の肩が震えていた。燃え上がるような苛烈な怒りが、青白い炎のように見えた。




「如何して、邪魔をする?!」




 翡翠にとって、これは間違った結末なのだ。

 根底にあるのは、たった一つの恋だった。だが、それも他人の恋で、翡翠には何一つ関わりが無い。


 葵、和輝、民衆、警察。

 十年前の悲劇をなぞる筋書きで、翡翠の存在だけが奇妙に浮かび上がっている。


 この男は、何者なのだ。

 霖雨は改めて、疑問に思った。




「お前を、信じたいんだ」




 消え入りそうに掠れた声だった。

 和輝は、焦点の定まらない茫洋とした眼差しで翡翠を見ていた。其処には怒りも憎しみも存在しない。

 何処までも冷静で、理性的で、突き放すように冷たかった。


 翡翠は、深い溝を思わせる目で忌々しく睨み付けていた。




「この世は弱肉強食だ。社会という集団の中で生き残るには、弱者を虐げなければ生きて行けない」

「それは、自然界の話だろう。お前の世界では、兵隊しか生きられないよ」

「人は自然界とは異なる高次元の存在だと思うのか?」

「難しい話はやめてくれ。俺は人を信じたいんだよ」




 項垂れた和輝は、まるで神へと許しを乞う罪人のようだった。




「どんなにいがみ合っていても、窮地になれば保身も考えずに助けようとする。その不合理さこそが、人間なんだろうと思うから」




 人の弱さも汚さも、和輝は痛い程に知っている。それでも、人を信じたいと言う。

 翡翠には、解らないだろう。霖雨だって、和輝のように自信を持って胸は張れない。




「俺はお前を信じたいんだよ。友達だから」




 友達ーー。

 翡翠は、和輝のことなんて、ただの道具としか見做していなかった。知的好奇心を満たす為の実験動物だった。

 開示した情報は全て虚構で、真実なんて一欠片も無かった。和輝が翡翠を信じようと思う根拠なんて、塵一つ無い筈だ。


 だが、人の嘘が解るというこのヒーローには、嘘に塗れた翡翠という男の本質が見えているのかも知れない。如何してか、霖雨はそんな風に思った。


 怒りを爆発させた筈の翡翠は、諦念を抱くように冷静さを取り戻し、最早投げ遣りに言い捨てた。




「俺とお前は解り合えないよ」




 和輝はそれでも、食い下がる。




「全ての人と解り合えるとは、思っていない。でも、何か一つくらいなら、共感出来ることがあるかも知れない。傷付けたり、殺し合ったりする以外の選択肢があるかも知れない。同じ道を歩けなくても、同じ未来を向いて行けるかも知れない」




 ああ、変わらないな。そんなことに、霖雨は安心する。

 和輝は、出会った頃と何も変わらない。世間知らずで、理想論者で、ーーヒーローだ。




「失ったものを数えたり、無い物ねだりをしたりするのは、もう止めたんだよ」




 目に見える全てを救うことは出来なくても、目の前の一つくらいなら届くかも知れない。足掻けと、躊躇うなと、何度でも声を上げる。


 翡翠には、解るだろうか。

 葵がそうであったように、翡翠にとっても、このヒーローが最後で最大の希望なのだと。




「お前がどんな嘘を吐いたとしても、俺にはそれが解る」

「傲慢だねえ」




 翡翠が、力無く笑った。

 微かに上げられた面に浮かぶのは、何処か少年のような幼い笑みだった。


 和輝は、子犬のような真ん丸の瞳で、縋るように翡翠をじっと仰ぎ見た。




「お前の望みは何なの?」




 まるで、他愛の無い日常会話みたいに和輝が尋ねた。翡翠は油の切れた機械みたいに、ぎしりと固まった。


 空気も凍るような沈黙が流れた。

 翡翠は、媚びるような目をして答えた。




「間違った過去をやり直したいんだよ」

「本当に?」




 和輝は、不思議そうに尋ねた。

 彼には人の嘘が解る。だが、その中で唯一のイレギュラーが、翡翠だった。

 翡翠は、和輝が嘘を見抜けなかった唯一の人間だ。


 しかし、和輝は何かの確信を得ているみたいに問い掛ける。




「お前が本当に望んだものって何?」

「死者の復活だよ」




 頭痛を堪えるみたいに、一瞬、和輝の表情が苦悶に歪んだ。だが、すぐ様切り返すみたいに和輝は指を突き付けた。




「俺はお前の話をしているんだよ。小難しい話は、解らない。翡翠は何を望んだの。何をしたいの。ーー何が、欲しかったの」




 畳み掛けるように問いを重ねる和輝は、何かしらの答えを導き出しているみたいだった。

 翡翠は、答えなかった。曖昧な笑みを浮かべて、そっと視線を逸らした。




「もっと早く、お前を殺しておけば良かった。ーーさもなくば、もっと早く出逢いたかったよ」




 その言葉は、風鈴のような静かな残響を残して、虚しく消えて行った。

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