⑸ジョーカー
大学病院の廊下には、春の淡い日差しがステンドグラスのように差し込んでいた。ひっそりと静まり返った界隈は、まるで教会のような厳かで神聖な空気を漂わせている。
匠は、両腕から零れ落ちそうな程の花束を抱え、親友の眠る病室を目指していた。世界各地の彼の友人から贈られた色取り取りの鮮やかな花は、どれもが悉く短く茎を切られていた。早期回復を願う彼等の祈りが透けて見えるようだった。
母国より単身留学した親友は、何故か欧州より渡米して、非日常的な事件に巻き込まれてICU送りになった。生まれ付いてのトラブルメーカーだとは知っていたが、まさか脳に損傷を受けて意識不明の重体になったとあっては、最早、開いた口も塞がらない。
匠は連絡を受けた直後、そのまま空港へ向かった。包帯でぐるぐる巻きにされ、幾つもの点滴を投与されている姿を見た時には、心臓が止まるかと思った。
FBIだと言う刑事に聞けば、違法薬物を投与され、精神病質者から一週間近く拷問を受けて、ルームシェアする同居人によって救出されたのだという。正直、よく解らない。
搬送されて三日経ち、漸く意識が回復したが、脳に受けた損傷から後遺症が残る可能性があるという。
目覚めた時に会話した限りでは、多少の意識の混濁はあったようだが、命に別状は無いらしい。兎に角、生きていて良かった。
そんな傍迷惑な親友を心配して、世界各地の彼の友人から膨大なメッセージが届いている。このメッセージを全て見せて、浅慮で計画性の無い親友に説教をしてやりたい。
事態を受け止めた親友の家族は、この地に彼を置いておく訳にはいかないと言って早々に渡欧の手続きを済ませていた。病状が落ち着き次第、彼にはこの地を離れてもらう。
匠は花束を抱え直し、ICUの入室許可を取る為に窓口へ顔を出した。
受付の看護師は既に匠の顔を覚えていた。余談ではあるが、匠がこの病院へ押し掛けた時、相当に酷い顔色をしていたらしく、この世の終わりが訪れたのかと思ったそうだ。
匠が顔を見せた時、看護師が奇妙な顔をした。何かを言い淀むような、何とも言えない妙な顔だった。
嫌な予感がして、匠は問い詰めた。そして、両手から溢れんばかりの花束は、リノリウムの床に落下した。
親友の眠るICUは、蛻の殻になっていた。
「あの、馬鹿」
匠の顳顬がぴくりと震えた。
看護師は顔色を伺うように右往左往し、廊下では医師の駆け付ける足音が響いている。
最新の面会記録は、香坂というFBI捜査官だった。彼と親友にどのような繋がりがあるのかは知らないが、匠には関係も無い。
腹の底からマグマみたいな怒りが沸々と湧き上がる。
空になったベッドには、一枚の書き置きが残されていた。相変わらずの蚯蚓がのたくったような悪筆で、清々しい程に力強い言葉が一つだけ残されていた。
いってきます、と。
ボーナスタイム
⑸ジョーカー
郊外の広場には、老若男女問わず大勢の人間が押し寄せている。国境、人種を問わない人々は皆一様に熱の籠った眼差しをしていた。
まるで祭り会場だ。屋外だと言うのに、人いきれで視界が白く曇っているような気さえした。
霖雨はバイクを路肩に停めて、犇めく人の群れを眺めていた。携帯電話に映る地図は現在地と目的地が重なっていることを示している。
だだっ広いコンクリートの地面は、最早人の群れで埋め尽くされ、天を衝くような石碑ばかりがその姿を晒している。
四年前に起きた飛行機爆破テロの被害者を悼む石碑だ。ブルーパールの滑らかな表皮は墓石のように、日差しを反射して不気味に佇んでいる。
「また此処に来るとは思わなかった」
ヘルメットを脱いだ葵が、唾を吐き捨てるように言った。
年末にも葵は和輝を連れてこの場を訪れていた。爆破テロによって亡くした友人の四年越しの墓参りだったという。
過去と向き合う覚悟を決めたのだ。けれど、それから程無くして再びこの場所を訪れた。それはまるで、過去は断ち切れることなく未来に復讐するのだと、この世の因果律を知らしめているようで、恐ろしかった。
広場に女のアナウンスが響き渡る。
講演が始まるまで、あと僅かだ。風船が破裂する寸前のように、人々が期待を高めて石碑を注視する。正体不明の熱が会場を侵食し、呑み込もうとしている。
葵は存在感が希薄であることを良い事に、人々の隙間を縫って最前列まで突き進んで行く。霖雨はその背中を見失わないように、慌てて追い掛けた。
衝突しても、人々は文句の一つも、視線の一つも向けなかった。悪魔に魅入られたように、意識は石碑から外されない。
霖雨には理解出来ない。
これだけ大勢の人間が個人の意思すら放棄して、一つの巨大な生き物みたいに集まっている。
彼等はこれを、講演会と呼ぶのだ。
教祖の御高説を拝聴する有難い場所なのだと胸を躍らせている。霖雨から見れば、こんなものは崇高な信念ではなく、群集心理の類だ。此処にいる者は狂っている。
会場の興奮が最高潮に達したその時、アナウンスが声高に叫んだ。
主役のお出ましだ。葵は最前列に並び、その登場に身構えている。
会場は割れんばかりの拍手に包まれた。歓声の飛び交う熱に浮かされた人々の賞賛の中、石碑を背中に一人の冴えない白人男性が現れる。
ヘーゼルの瞳、丸眼鏡。
ミントグリーンのシャツを纏った春の出で立ちで、Sven=Svenssonは拍手に応えるように片手を挙げていた。
厚化粧の司会らしき女が、石碑の前へと招き入れる。
舞台の中心へ上がると、Sven=Svenssonは何かを堪えるように小さく息を呑み込み、そっと口を開いた。
「我々が誕生するより遥か昔、宇宙は光と陰という概念すら存在しない無の世界でした。しかし、その闇の中で、一粒の奇跡が生まれました」
人々はしんと静まり返り、彼の一挙一動を見逃すまいと注視している。会場中に設置されたスピーカーから拡張された声が、蝉時雨の如く彼方此方に反響しては降り注ぐ。
「光の誕生です」
霖雨の隣にいた若い女性が、ほうと息を零す。それは、まるで恋する乙女のような狂気を内包していた。
「光の後を追うように生命が誕生しました。しかし、自然界は弱肉強食の摂理に支配され、弱者は強者によって常に虐げられ、生物は生きる為にピラミッドのようなヒエラルキーを形成します」
霖雨は葵の横顔を盗み見た。
透明人間は、凍り付いたように彼を見詰めて動かない。この会場の中で、自分だけがまるで異質な存在になってしまったようで、霖雨は呼吸一つ満足に行うことが出来なくなってしまった。
急速に息苦しさを感じ、世界がぐらぐらと揺れるような目眩がした。
「人々は飢餓や貧困に喘ぎ、差別が生まれ、今も世界では戦争が起こっています。国境や人種の壁を理由に相手への思いやりを忘れ、礼儀を失い、命は代替出来るものであると思い込み、互いに助けようとはしません。私は、そんな世界に疑問を抱くのです。争いは終わらないのか、差別は仕方が無いのかーー」
何の話をしているのか、霖雨は解らなくなってしまった。
この男は何を訴えようとしているのだろう。
人種差別の撤廃?
世界平和?
そんな使い回されて擦り切れそうなきれいごとで変わる世界ならば、誰も血を流しはしない。
「命の根源は一つです。例え姿形、言語や文化が違っていても、我々はただ一つの奇跡を袂にした仲間なのです。目を閉じた時に見えるもの、太陽に透ける血潮の色、辛苦に喘ぎ救いを求める先、それは皆同じーー光なのです」
光。
誰かが、息を零すように囁いた。
霖雨には、それが、まるで奈落の底まで突き落とす呪詛の類のように感じられた。
「闇より救う一筋の光、我々の神こそがルーメンなのです。さあ、光を崇めましょう」
Sven=Svenssonが手を挙げた。その瞬間を待ち望み、恋い焦がれたかのように、人々は一斉に声を揃えた。
「光よ!」
万歳三唱のように、生まれも育ちも異なる筈の人々が声を上げる。それは津波の如く瞬く間に会場を包み込んでしまった。
狂気だ。
此処には、正義の名を冠した狂気がある。
集団を争いへと駆り立てる人の業で溢れ返っている。
霖雨は、溺れる者が藁にも縋る心地で、隣でぴくりとも動かない葵を見た。
葵は何も言わない。何を感じているのかも解らない。沈黙が肯定ならば、此処で集団に染まれぬ自分は異物なのだろう。立っていることすら恐ろしくなる孤独感に、身体中が粟立っていた。
彼の話は或る意味荒唐無稽であるが、間違ってはいない。否定する確たる理由も無い。だが、腹の底から湧き上がる居心地の悪さは、一体何なのだろう。諸手を上げて迎え入れようとは思えない。周囲の人々と自分の見ている世界は異なるのだろうか。だから、理解出来ないのだろうか。彼等の熱を共感出来ない自分が、愚かなのだろうか。
会場中を埋め尽くす光の三唱に、異議を突き立てる程の強さは霖雨には無い。けれど、溶け込むことも出来ず、まるで背後から強大な何かに羽交い締めにされているような窮屈さに目眩がした。
集団を戦争へと駆り立てるものが狂気ならば、それを押し留めるものは、一体。
その時、一陣の風が木の葉を舞い起こすようにして、酷く冷たい声が何処かから真っ直ぐに突き刺さった。
「理解出来ない」
その声は、一つの目標に向かって一致団結する集団の足並みを崩すように、欠片の迷いも無く響き渡った。
熱に浮かされた人の群れが、猜疑心と敵意を持って異物を排除しようと睨み付ける。
異物ーー。
四面楚歌の害意の中で、霖雨は導かれるように声の主へ振り向いた。
空気が陽炎の如く滲んで見えた。無から有が生まれるように、闇から光が生まれるように、其処にいなかった筈の透明人間が、確かな質量を持って立っていた。
Sven=Svenssonが、片眉を跳ねさせる。途端、周囲からは耳を塞ぎ何処かへ逃げ込みたくなるような強烈なブーイングが溢れ出した。しかし、今更怖気付きはしないと、葵は眉一つ動かさなかった。
教祖が片手を上げると、罵詈雑言を喚き散らす民衆は波が引くようにすっと静まり返った。居心地最悪な静寂の中で、葵だけが切り取られた別世界のように平然としている。
「個人の価値観や信仰は尊重されるものであるし、例え誰であろうともそれを否定する権利は無い。当然、お前の主張を否定する権利なんて俺には無い」
溺れる者が気泡を吐き出すように、葵が言った。意志を持たない民衆は否定もしないが、肯定もしない。風見鶏のように、風向き次第でどちらを向くとも限らないのだ。
集団という力を持った彼等に、太刀打ちする術が残されているのかも知れない。まだ、間に合うのかも知れない。
何かを決意するように、葵は小さく息を吸い込んだ。
「だが、歯止めを掛ける間も無く、闇の底へ転がり込んでしまいそうなこの集団狂気に、水を差す必要がある。ーー社会の、一員として」
葵は、一息に言い切った。側にいる霖雨すら凍えてしまいそうに冷たい声だった。だが、その双眸には確かに、彼等の崇拝する筈の光が宿っていた。
社会の一員と、葵は言った。
その意味が、誰に理解出来るだろう。此処にいる誰よりも未来を見据え、命を案じ、その為に身を砕く覚悟で葵は警鐘を鳴らしている。
「集団の力を利用して、少数派を弾圧、排除し、信者の思想を操る。これは、洗脳だ」
葵の言葉は、許されない害悪であると強く訴えていた。
Sven=Svenssonは、意にも介さずに平然と笑っていた。
「私のしていることが、洗脳だと?」
「そうだ。群集心理は外部からの意見を取り入れず、自分の考えが正しいと信じ込み、危険行為も辞さない」
「何故、そう思うのですか。我々が何時、そのような行為を取ったと言うのですか」
「時間の問題だ。この集団の行く末等、高が知れている」
「我々は悲劇を繰り返さない為に、唯一無二の神を崇め、教えを伝導しているのです。何か間違っていることがあるのなら、仰って下さい」
一瞬、葵は言葉を失った。否定の根拠が、無いのだろう。それでも、舵を失った彼等が走り出した時、起こり得る悲劇を理解している。このままでは、取り返しの付かない事態になる。霖雨もまた、それを理解していた。
この感覚を、どのように伝えたら良いのだろう。悪意を持った他人の掌で踊らされているような恐ろしさを、誰が理解出来るだろう。
Sven=Svenssonという人間の薄さを、誰が証明出来ると言うのだ。
葵は、苦々しく顔を歪め、言った。
「この世に神なんていない」
断固たる強さを秘めたその言葉は、何処か、胸を軋ませるように悲しく響いた。
これは悪魔の証明だ。彼等に違法性は無いし、否定の根拠も無い。
葵に、神はいなかった。そして、霖雨にも。
神なんていない。ーーけれど。
「翡翠」
声、が。
まるで、途方も無く高い壁が取り払われて、辺りが突然明るくなったような気がした。鋭利なナイフが心臓をぐさりと突き刺すように、霖雨は鼓動を一瞬、失った。
長い夜を越えて、希望の朝を迎えたみたいだ。
霖雨が振り向くと、犇く人々の中に一筋の無人の帯が作り出されていた。それはモーセの海割りのように、霖雨の思考を導いた。
太陽のように強烈な存在感を放ち、一際小さな青年が息を弾ませて立っている。
Sven=Svenssonという得体の知れない人間を否定出来る者がいるとするのなら、それはきっと、一人しかいなかった。
この世に神なんていない。けれど、ヒーローがいる。悪魔の証明を実現し、不可能を可能とするヒーローが。
絶望と幻滅に膝を着きそうになると、何処からともなく希望が顔を出す。
「下らない茶番は止めろ」
「茶番?」
頷いたヒーローが、燦然と輝きながら足を踏み出す。無人の帯を歩き、ーー和輝は、Sven=Svenssonを睨み付けた。
「俺には人の嘘が解る」
嘘ーー。
理路整然とした正論は全て取っ払って、その惑星の如く苛烈な引力を持って、和輝が主張する。
絶対安静の重傷でICU送りになった和輝が、如何して此処にいるのかは解らない。だが、彼の隣に立つグレーのスーツの男ーー香坂が、一枚噛んでいることは明白だった。
Sven=Svenssonは、額を押さえて俯いた。それは頭痛を堪えるようで、涙を隠しているようでもあった。
小刻みに肩が震えている。だが、霖雨の耳には、喉を鳴らすような乾いた笑い声が、確かに聞こえていた。
「本当に、お前はジョーカーだねえ」
ゆっくりと面を上げたSven=Svenssonの瞳が、緑柱玉の如く輝いていた。
「もっと早く、殺しておくべきだった」
微動だにしない和輝や葵の横で、霖雨は漸く、彼の正体を理解した。
葵が庇うようにして彼等の間に躍り出る。
「もう遅い」
「いいや、まだだよ」
コンティニューでも、ニューゲームでもない。賽は投げられたのだ。
翡翠は、剃刀みたいに薄く笑っていた。