⑷犠牲者
霖雨と葵は駅前の雑踏の中にいた。
膨大な情報を前に、打つ手を失くしていたのだ。頼みの綱であるFBI捜査官の黒薙は堂々と路上喫煙をしながら、誰かと連絡を取っている。
凡そ十年前に起きた母国の殺人事件の資料の収集に手間取っている。当然と言えばそれまでなのだが、このまま手を拱いている訳にもいかない。
焦燥感に駆られる霖雨の隣で、葵は焦点の合わない胡乱な眼差しで虚空を見詰めている。全てが自身の過去に帰結すると知り、彼が何を考えているのかなんて解らない。
暴走だけは止めなければならない。
霖雨は過去の過ちから、それを強く覚悟した。
その時、何処か懐かしい独特の芳ばしい香りが漂って来た。コーヒーの無料提供をしているエプロン姿の女性がいた。キャンバスのように真っ白なワンボックスカーの窓はシールドに覆われ、内部を覗き見ることは出来ない。
道行く人は芳ばしい香りに誘われて、コーヒーブレイクとばかりに足を止める。
デジャヴだ。
偏頭痛のような記憶の奔流に、霖雨は眉を寄せた。駅前に停められた白いワンボックスカーと、コーヒーの無料提供、エプロンに刻まれたオレンジ色のマーク。
水面から飛び跳ねる流線型の魚。
特徴的な背鰭と尾鰭。ーーイルカだ。
変な臭いがする。
何時かのヒーローの声が耳元に蘇って、霖雨は寒風に当てられたように身を凍らせた。何も知らぬ人々は休息するようにその液体を飲み下す。
紙コップに入ったコーヒーを持った女性が、霖雨の前にやって来る。心此処に在らずと言った調子の葵は、その存在感の希薄さから知覚されない。
ボランティアに励む者独特の慈愛に満ちた笑みを浮かべ、女性はコーヒーを差し出した。霖雨はそれを断る手段も、根拠も持ち合わせてはいなかった。
さあ、どうぞ。
女の声が、スローモーションみたいに低く聞こえた。闇の底へ誘い込もうとする悪魔の囁きに、霖雨は抵抗の手段が無い。
その時だった。
「終わったぞ」
煙草を踏み消した黒薙が、霖雨と女の間に割って入った。
霖雨は漸く呼吸を思い出し、油の切れた人形のように軋む関節の痛みを知覚した。
怪訝に目を細める黒薙を前に、霖雨は如何にか差し出されたコーヒーを断った。女は幾分か残念そうにしていたが、食い下がりはしなかった。
再び雑踏の中でコーヒー提供を始めた女の背中を、霖雨は呆然と見ていた。
訝しむように、黒薙が問い掛けた。
「如何した?」
霖雨は息切れを起こしていた。
呼び掛けても反応を示さない霖雨を見て、黒薙はその視線の方へ顔を向けた。慈愛に満ちた笑みを浮かべる女が、まるで、仮面のように見えた。
黒薙は差し出されたコーヒーを見て、すっと目を細めた。
「許可は得ているのか?」
「私達は、ボランティアですよ」
「ボランティアにも許可が必要だ」
女は残念そうに肩を竦めた。霖雨には、彼女の動作が全て、虚構に見えた。
遣り取りを見ていたらしい女の仲間がわらわらと集まり、何事かと問い掛ける。黒薙は眉一つ動かさなかった。
角砂糖に蟻が集まるようにして、エプロンを纏った民衆が取り囲む。逃げ道を失い、霖雨は葵と背中合わせに身構えた。
「私達が間違っていますか」
民衆が、まるで一つの巨大な生物みたいに自分達を睨んでいた。その大きな口に呑み込まれるような錯覚に陥って、霖雨は弁解の言葉もなす術も無く、縋るように葵へ背を預けた。
海底に揺れる海藻のように、人々は自分達を糾弾する。弱者は徒党を組んで、強者を悪者にする。何時かの葵の言葉が蘇り、霖雨は底知れぬ闇の奥を覗き込んだような言いようの無い恐怖を覚えた。
何だ、こいつ等。
困惑に満ちた声で、黒薙が呟いた。
「私達は人々の為にこれを配っているのです」
「ボランティアです」
「貴方の為に行なっているのに」
「如何して理解してくれないの」
「これは救済なのですよ」
「さあ、どうぞ」
「さあ、どうぞ」
「さあ、どうぞ」
そう言って、人々は執拗にコーヒーを勧める。柔らかな湯気を昇らせる三つの紙コップには、一見すると何の変哲も無いコーヒーが注がれていた。こんな状況でなければ、霖雨は手を伸ばしていたと思う。
黒薙は庇うように霖雨と葵の前に立ち、それを掌で制した。
「ーーアレルギーなんだ」
アレルギーなんて、聞いたことも無い。
存在するのかも知れないが、少なくとも、霖雨は覚えがなかった。黒薙の下手な言い訳をどのように受け止めたのかは解らないが、コーヒーを勧める女は霖雨へ視線を向けた。
その声が発される寸前、黒薙が言った。
「行くぞ」
強引に会話を割って、黒薙は人の群れを泳ぐように横断した。霖雨と葵は引っ張られるように、スーツの背中を追い掛けた。
如何にか人の群れから脱出したが、よくよく見ると彼方此方で同じようにコーヒーを配る集団がいた。彼等は通勤途中の会社員や学生、道行く主婦等、構わずにコーヒーを配っていた。
何の違和感も無く飲み下されるコーヒーに、霖雨は堪え難い程の無力感を抱いた。何かがおかしいと解っているのに、それを声にして訴えることも出来ない。
背中を向けてぐいぐいと前進する黒薙が、吐き捨てるように言った。
「嫌な臭いがする」
それが何時かのヒーローの言葉と重なって、霖雨はコーヒーに含まれた違和感の正体を悟った。
ボーナスタイム
⑷犠牲者
集団狂気から逃れ、霖雨は黒薙の車へ乗り込んだ。車窓の向こうでは、今もあのコーヒーが配給されている。
彼等はボランティアと言い、自分達の行為に何の疑問も抱いていないようだった。そのコーヒーが何か理解しながら、慈善行為であると疑いもせず他人へ勧めている。霖雨には、それが恐ろしかった。
後部座席で窓の向こうを眺めながら、葵が言った。
「危ない集団だな」
「ああ」
黒薙は短く肯定した。
ハンドルを握る黒薙の横顔は無表情だった。何を考えているのかなんて解らない。
霖雨は歯痒かった。
「取り締まれないんですか」
「違法性が立証出来れば、可能だ」
「お前等警察は、何時もそうだ」
バックミラー越しに、葵は黒薙を睨んでいた。
「幾ら助けを求めても、証拠が無いと言って、何もしない」
黒薙は何も言わなかった。
葵は苛立ったように、尚も叱責した。
「最悪の事態が起こると解っているから、助けを求めているんだ。お前等が重い腰を上げた頃には、もう既に手遅れなんだ」
黒薙は、葵の叱責に何の返答もしなかった。
事実として、警察組織にはそういった側面もあるのだ。だが、此処で反論することは余りにも無意味だし、黒薙自身には何の責任も無かった。
黒薙は警察官であるが、警察組織そのものではない。そんなこと、葵にだって解る筈だ。
霖雨は頭痛を堪えるように顳顬を揉みながら、仲裁に入った。
「此処で黒薙さんを責めたって、何にもならないだろ。これ以上、後手に回らないように情報を整理しよう」
「整理する必要は無い。もう手遅れだ」
嘆くように、葵は頭を抱えた。
何時もの冷静な彼らしくない。だが、苦悩するその姿こそが、不完全を抱える人間らしく見えた。
この状況を打開する手段を持たない霖雨は、結局、黙るしか無かった。
その時、それまで黙っていた黒薙が言った。
「今散布されている薬は、従来のものに比べて効果は低い。まだ間に合う」
「お前の血液から解毒剤が作れるんだろう。だが、数には限りがある。この広まり方と比較して、どちらが優勢かなんて、火を見るより明らかだ」
「いたちごっこを続けるのなら、ね」
そう言った黒薙は相変わらず無表情だったが、何か考えがあるらしかった。葵は黙って先を促した。
「大元を叩くという手段がある」
「大元が解っているのか?」
「証拠は無い。だが、確信はある」
葵は小馬鹿にするように嗤った。しかし、黒薙は意にも介さず続けた。
「さっきの奴等のエプロンに刻まれていたマークを見たか?」
「オレンジ色のイルカ」
はっとして、霖雨が答えた。
少なくとも、霖雨に覚えは無い。犯罪組織のシンボルマークにしては、些か可愛らしいようにも思う。
葵は何かを考えるように顎に手を添え、言った。
「イルカは救済の象徴だ。オレンジ色は太陽を意味する」
霖雨はシンボルマークの知識なんて無かったので、葵の言葉に曖昧に頷くことしか出来なかった。
宗教的な色を帯びて来たような気がして、現実味が無い。あのエプロンのマークだけで、その意味までは考え付かなかった。
救済、太陽。あの集団的狂気のような遣り口には、霖雨も覚えがある。だが、何の確証も無い。
解っている。
全ての事実を糸で繋いだ結果、何が浮かび上がるのか、誰に行き着くのかなんて、もう解っている。
証拠が無いのだ。
例え、この仮定を真実として大元へ向かったとしても、自分達には打つ手が無いのだ。無関係だと言われれば、何も出来ない。警察が動けないのも、同じ理由だ。慎重にならなければ、救えるものも救えない。
けれど、そうして後手に回り続けた結果が、葵の過去の悲劇なのだ。
歯痒いし、遣る瀬無い。焦燥感はあっても、何も出来ない。
何か出来ないのか。今も違法薬物は散布され、何の罪も無い人々が巻き込まれている。
霖雨は唇を噛んだ。何も出来ない自分が悔しかった。
黒薙はエンジンを掛けた。死者が息を吹き返すように拍動のように車全体が震えた。
「俺は配られているコーヒーを署に持って行く。薬物の成分が検出されれば、検挙出来るからな」
現状、それが最良の手段だった。
目の前で薬物が蔓延していても、歯止めを掛けるには手続きがいる。急がば回れというくらいだ。焦ったって仕方無い。
霖雨が頭を下げようとした時、葵が言った。
「それなら、俺達は大元を叩くか」
当然のことであるように、葵がさらりと答えた。黒薙も反対はしなかった。霖雨だけが、理解出来ずに目を瞬いた。
「お前、本気か?」
「他に選択肢があるか? 最悪の事態が見えているのに、回避の手段も講じずに黙って見ている訳にはいかないだろう」
葵の選択を否定するつもりは無い。だが、余りにも葵らしくない。
無計画で、無謀だ。葵は如何してしまったのだろう。
霖雨を置いてけ堀に、黒薙は言った。
「郊外にある公共の広場で、今日はイベントがあるらしいな。ーーSven=Svenssonも、出席するだろう」
解っている。この糸の先には、Sven=Svenssonという正体不明の男がいる。そして、その正体が何者であるのか、霖雨は察しが付いていた。
証拠は無い。だが、確信はある。
黒薙は車窓の向こうを眺めていた。その目は遠く、戻らない過去を見るように胡乱だった。
「俺にはね、幼馴染がいたんだよ。だが、俺が大学生の頃、違法薬物を作り出した犯罪組織に、殺されたんだ」
「それで、警察に?」
「ああ、俺は単純だからな。それに、俺自身、薬物中毒者の両親に虐待されて育ったコカインベビーだった」
コカインベビー。
妊娠中の母親が薬物を服用することにより、胎児までその影響を受けるのだ。産まれながらにして、薬物中毒の子ども。
「俺の親は、GLAYの常用者だった。産まれた俺は幸い五体満足だったが、表情が作れなかった。泣いたり笑ったりすることが、今も出来ない」
黒薙は、何時も無表情だった。だが、それが両親の薬物による副作用であったなんて、誰が理解出来ただろう。
嬉しい時に笑って、悲しい時に泣く。そんな当たり前のことが、黒薙には産まれた時から出来なかった。
彼は違法薬物の犠牲者だ。しかも、彼自身には何の責任も無い。それでも、両親からの虐待を受け、世間の逆風と戦い、今もこうして社会の為に身を粉にして働いている。誰にでも出来ることじゃない。
葵は、黙っていた。
車内に重く苦しい沈黙が下りて来て、霖雨は息苦しさすら感じた。
葵が言った。
「さっきは八つ当たりをして、悪かった」
「いや、気にするな。俺達が後手に回っているのは、事実だからな」
無表情の黒薙が、僅かに口角を上げて笑ったように見えた。彼の表情は凍結している。だが、感情が無い訳では無い筈だ。
黒薙の話が事実という保証は無い。だが、信じてみたくなる何かがある。
誰にともなく、霖雨は、この薬物による混乱を止めようと誓った。黒薙のような犠牲者を、もう二度と出してはならない。
「Sven=Svenssonの元へ行こう」
霖雨の言葉に、葵も頷いた。
黒薙は言葉に従って、カーナビに地図を映した。郊外にある公共の広場。葵は、皮肉っぽく嗤った。
「舞台は整ったみたいだな」
その言葉の意味は、解らなかった。
だが、地図に示されるそれが葵にとってどんな意味を持つ場所なのか、霖雨は知っていた。
其処には、五年前の飛行機爆破テロの被害者を悼む石碑が建てられている。葵が友人を失い、春先には和輝と共に墓参りに行った場所だった。
断ち切っても断ち切っても、過去の因縁が葵を奈落の底へと引き摺り込もうとする。闇が彼を引き摺り込まないようにと、霖雨はその手を掴む覚悟を決める。
「行こうか」
後部座席を降りた葵の顔は見えなかった。
笑っていたような気もした。だが、泣いているようにも感じられた。
霖雨は黒薙に会釈し、その後を追った。
二人が降車してすぐに、黒薙は車を発進させた。エンジンの音が遠くに消えて行く。
葵はぼんやりとした目で、問い掛けた。
「さっきの話、本当だと思うか?」
「解らないよ。でも、信じてみたいと思った」
「……俺も」
人の嘘を見抜けるヒーローではない。
何が真実なのかなんて解らない。人は結局、信じたいものしか信じられない。
「俺も、信じてみるよ」
葵が、笑った。何処か幼い笑みに、霖雨は胸が軋むように痛んだ。