表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
ボーナスタイム
50/68

⑶繋がる糸

 意識の回復と喪失を交互に繰り返しながら、和輝は薄氷の上を裸足で歩いているみたいな心地を味わっていた。

 一つでも判断を誤れば、暗く冷たい氷の海に転落してしまう。二度と太陽を拝むことは出来ないような言い知れぬ恐ろしさに、指先が悴むように震えていた。

 綱渡りなのだ。脳に受けた損傷は容易く回復しない。目を閉じれば、もう二度と目を覚ますことが出来ないのではないかと恐ろしくなる。


 和輝は、目を開けた。

 途端に押し寄せる視覚的情報に目が眩み、身動き一つ出来ない倦怠感の中で吐気を催した。指先は包帯によって覆われ、腕には無数の点滴針が突き刺さっている。心電図の等間隔な電子音が、頭の中に反響しては砕けて、硝子片のように鋭い痛みに変わる。


 匠を呼ぼうと思った。彼に出来ることがあっても無くても、独りで痛みを堪え続けているのは、余りにも苦痛だった。ナースコールを掛けようと思うのに、世界が激しく揺れ動いて手を伸ばすことすら出来ない。


 後頭部に杭でも突き刺されているみたいな激痛だった。何かを考えようとしても、痛みに掻き消されて纏まらない。


 それでも、何かをしなければいけないという理由も解らない正体不明の衝動が津波のように押し寄せて、足元がふわふわとして落ち着かなかった。


 その時、ノックの音が転がった。

 ぼんやりとした意識の中、返事を待たずして扉がゆっくりと開いた。


 匠。

 和輝は、其処に立つ者の正体すら解らないまま、唯一無二の親友の名前を呼んだ。しかし、声は砂漠のように嗄れて空気の漏れる音だけが零れた。




「久しぶりだな」




 やけに鋭敏となった聴覚が、聞き覚えの無い声を拾い上げる。

 声の主は用心するようにしっかりと扉を閉じて、和輝の横たわるベッドまでやって来た。残念ながら、とても客人を持て成す程の余裕は無かった。

 和輝は効かない鎮痛剤を恨めしく思いながら、真横に立った客人を睨んだ。




「随分と弱っているみたいじゃないか」




 余計なお世話だと悪態吐こうとして、自分に虚勢を張るだけのエネルギーがあることに驚いた。

 自覚すると何故だかすっと身体が楽になり、激しい頭痛は波が引くように静まって行った。


 グレーの薄いストライプの入ったスーツを纏う男は、何かを含む意味深な笑みを口の端に浮かべていた。そのまま我が物顔で据え付けられた椅子を引き寄せ、どかっと座った。


 男は胸の内ポケットから黒いカードケースを取り出した。つい最近見た覚えのあるそれに、和輝は彼の身分を知る。




「君に訊きたいことがあるんだ」

「俺で答えられることなら」

「翡翠という男についてだ」




 翡翠。

 その名前が頭に浮かぶと、同時にあの頭痛が波打ち際のように襲って来た。

 此処が、助けの無いあの手術室であるかのような錯覚に陥って、和輝は堪えるように固く目を閉じた。




「大丈夫か?」




 男が覗き込む気配がして、和輝は目を開けた。

 大丈夫じゃない。

 そう思うけれど、それを口にしたところで何かが変わる訳でも無い。

 如何にか頷くと、男は怪訝そうに眉を顰めて話を続けた。



「君を拉致した翡翠という男のことを知りたいんだ」

「俺が知っていることは、少ないですよ」

「だが、彼と最も親しかったのは、君なんだよ」




 そうだろうか。

 自分と翡翠は、親しかったのだろうか。少なくとも、和輝は翡翠のことを友達だと思っていた。例えその経歴が嘘ばかりで、真実なんて一つも無かったとしても。




「翡翠は、無事ですか」




 和輝の口からは、そんな言葉が零れた。男は理解出来ないものを見るみたいに目を細めた。




「逮捕には至っていない」




 それは、喜ぶべきなのだろうか。自分を苦しめ、葵を追い詰めた翡翠を憎むべきなのだろうか。和輝には、解らない。

 それでも、彼が辛い思いをするのは、嫌だ。




「俺に出来ることがあるのなら、協力します。その代わり、お願いを一つだけ、聞いて下さい」




 和輝は、気を落ち着けるように深呼吸をした。罪悪感と焦燥感が互い違いにやって来て、締め付けられるように胸が苦しい。


 だが、この場所で何も出来ないでいるのは、もっと嫌だ。





「連れて行って欲しい場所があるんです」










 ボーナスタイム

 ⑶繋がる糸










 都心部に位置する公共の建物は、地下の崩落によって倒壊の危険があり、立ち入りは禁止されている。

 黄色い規制線の向こうでは制服警官が行ったり来たりして忙しなく動き回っている。


 霖雨と葵は、ヘンゼルとグレーテルが道標に残したパン屑を拾うようにして、翡翠の手掛かりを追っていた。

 逮捕を望んでいる訳ではないけれど、このまま闇に姿を眩ませておくと、後々になって恐ろしい脅威になることは解っていた。放って置けば、何時か背後から刺されるような気がして、落ち着いて生活も出来ない。


 駅前の喫茶店の閉鎖を知り、次の手掛かりを求めて、霖雨は和輝が拉致されていた建物へ向かった。建物は、地盤沈下のような災害にも似た爪痕を深く残している。


 和輝が拉致されていたのは、この建物の地下だった。手術室と書かれた小部屋は既に跡形も無く瓦礫によって葬られているのだろう。

 今も警察関係者が調査をしているようだが、恐らく、彼等に真実は公開されないのだろう。


 そして、事件の裏を知る僅かな人間ーー黒薙は、崩落した建物を遠く見ながら言った。




「この建物の地下は、違法薬物の製造工場になっていた」




 驚きはしなかった。黒薙と再び会うことも、建物が崩落したことも、この場所が違法薬物と関連していることも、予想していた。むしろ、そうではないことが有り得なかった。


 主犯ーー翡翠は、舞台の裏側から全てを操っていたのだろう。恐らくは、和輝と彼が出会ったことも偶然ではなかった。


 そして、この場所が違法薬物の製造工場になっていたことを考えると、今も世間を賑わせているあの男が疑わしくなって来る。しかし、この疑念は帰納法と同じで、決定打に欠ける。確証も無い。


 こういう時こそ、ヒーローの出番なのだ。

 悪の組織があり、其処に所属している者は、悪人である。そんな二次元のような帰納法を納得させるあの強烈な存在感が恋しくなる。

 葵ではないけれど、無数にある選択肢の中から問答無用で正解だけを択び取るヒーローを求めてしまう。


 残念ながら、彼は今もICUで絶対安静の身だ。現実とは、中々に儘ならないものだ。


 八方塞がりだな、と霖雨が溜息を零し掛けた時、葵が唐突に言った。




「違法薬物GLAYは、死者蘇生を目的に製造されていた。それならば、翡翠の目的も同じ筈だ」

「断定は危険だよ。飽くまで可能性の一つとして考えるべきだ」

「もしもこの仮定が真実ならば、其処からあいつの目的を導き出せるかも知れない」

「書類上存在しない翡翠の過去を知る方法なんてあるのかな」




 其処で、横から聞いていた黒薙が口を挟んだ。




「翡翠という男の過去は知らないが、神木君に関わる人間から推測することは出来るんじゃないか?」




 葵は一瞬面食らったように目を丸くした。


 確かに、翡翠の葵への執着を考えると、二人の交差点を探るべきだった。だが、どちらも過去を開示しない人間であるので、困難を極めることは想像に難くないし、帰納法は決定打に欠ける。




「葵と翡翠に関連する死者?」

「そう。ーー例えば、飛行機の爆破テロとか」




 葵は数年前、友人を飛行機の爆破テロで亡くしている。同じ機体に翡翠の知り合いが乗っていた可能性はある。だが、それは納得感に欠けるように思う。


 葵にとって最も深い傷跡となった過去の事件。それは、気丈な葵がPTSDとなり、過去と現実を見失う程の傷跡だ。


 霖雨には、一つしか思い付かなかった。そして、それは葵も同じようだった。

 黒薙は、観察するように此方をじっと見詰めていた。




「朝比奈香理」




 葵が、言った。

 その声は、まるで地獄の其処から届いたような忌まわしさを連れて、身も竦む程に冷たく響いた。


 霖雨は、それが何者なのか知らなかった。聞いたことも無い。ただ、葵にとって目も向けたくない程に忌まわしい存在であることは傍目にも解った。

 黒薙は答えを予期していたかのように、眉一つ動かさなかった。むしろ、葵がその名を口にすることを待っていたようにさえ見えた。


 状況に取り残された霖雨は、堪らず問い掛けた。




「誰だ?」

「俺の兄を殺したサイコパスだよ」




 葵の顔は紙のように血の気を失い、仮面に似た無表情だった。それはまるで、喜びも悲しみも凍り付いてしまったかのようだった。




「兄が死んだ時から、ずっと訊きたかったんだ。ーー何が正しかったと思う、って」




 ぽつりと零された声は、闇夜を照らす一本の蝋燭が吹き消されたような虚しさと、酷い寂寞を連れていた。




「繋がったな」




 磨き込まれた断頭台が落ちるような容赦の無い声で、黒薙が言った。




「翡翠という男は、葵の兄が死んだ事件ーー詳細に言うのなら、加害者に関わる人間だ」

「それって、葵が中学生の頃だろ。何年前だよ」




 霖雨が指折り数えていると、黒薙が答えた。




「十年前だよ」




 十年ーー。

 霖雨は、月日の経過を嘆くべきなのか、それ程の執着に驚嘆するべきなのか解らなかった。


 凡そ十年前、葵は陰湿なストーカーの被害に遭っていた。如何しても回避出来ないストーカーを排除する為に、葵はその女を殺そうとした。だが、その計画を知った兄は弟を力ずくで止めた。

 そして、兄は弟に代わり、話を付ける為にストーカーの元へ向かった。二人は交戦し、兄は殺されてしまった。

 女は逮捕され、死刑判決を受けた。だが、獄中でもその執着は終わらず、終には脱獄し、葵の通う大学を武力によって占拠し、誘き出そうとした。

 葵は女の元へ赴き、今度こそ殺そうとした。だが、今度は葵の友人が、力ずくで止めた。

 女は再び逮捕され、死刑が執行されたーー。


 何が正しかったと思う。

 葵は、翡翠は、何度もそう問い掛けた。

 霖雨には、解らない。だが、これが全ての原点だった。葵と翡翠は相似形だ。彼等を分かつものは、何だったのだろうか。


 その時、頭の中で懐かしい声が聞こえた。


 何も正しくないだろ。


 それは、ヒーローの声だった。

 葵は、和輝に出会ってしまった。それは嘗ての兄や友人のように、身を呈して葵を救おうとする希望の光だった。

 救いを求めた葵を罰するように、翡翠が現れた。今度は和輝を排除する為に。


 これは、過去の因果なのだ。

 昇華されなかった過去は未来へ復讐する。葵も翡翠も、答えを探して彷徨う亡霊だ。


 思えば、葵が友人を失った爆破テロの主犯は国際犯罪組織ーーD.C.だった。

 全ての点と点が糸で繋がったように、霖雨は納得すると同時に、胸が潰れる程に虚しくなった。


 だって、十年前の事件の被害者も加害者も、もうこの世にはいないのだ。罰する相手も、許しを乞うべき相手も死んでしまった。これは誰も救われない予定調和の悲劇だった。


 翡翠は、過去を書き直すようにして和輝を殺そうとした。

 和輝が拉致され、葵が銃口を向けたあの時も、翡翠は同じ問い掛けをしていた。自らの思う正解を証明するように。


 だが、ヒーローは死ななかった。それこそが、過去との最大の相違点であり、翡翠の犯した最大の失敗だった。

 あの時、翡翠は和輝を排除し、葵に殺されようとしていた。それは十年前に朝比奈香理が起こした事件の理想像だったのだ。

 葵の兄や友人がいなければ、朝比奈香理は葵によって殺されていた。


 霖雨には、誰かに殺されたいという欲求なんて微塵も理解は出来ない。だが、真に人を愛し、その人の中に生き続ける方法として、彼女はそれを望んだのだろう。

 その願いは叶わなかった。だから、今度は翡翠が、彼女に代わって思いを遂げようとしている。




「俺のせいなんだよ」




 葵は額を押さえ、その場に蹲った。こんなに弱った葵を見るのは初めてだった。

 周囲の酸素が集結したかのような息苦しさに、霖雨は掛ける言葉をすぐに見付けられなかった。


 葵が和輝と出会わなければ、こんな事件は起こらなかった。ーーだが、それを言うのなら、霖雨だって同じだ。





「何かに絶望しながら生きるには、人生は長過ぎる」




 霖雨は、何時かのヒーローの言葉をなぞった。葵は弾かれたように顔を上げた。まるで、母親に捨て置かれた迷子みたいだった。




「過去を変えることなんて誰にも出来ないし、或る時点で起きたことに対して、正解や不正解だなんて断言は出来ないだろう。未来は過去の積み重ねで作り上げられて、誰の干渉も受けないし、予測も出来ない。俺は、そう思う」




 お前のせいじゃないよ。

 霖雨が肩を叩くと、葵はへらりと軽薄に笑った。




「この可能性を俺が予期していたとしても?」

「そうだ」




 葵は悪くない。誰を何を言われようと、霖雨には譲るつもりは毛頭無かった。

 それでも、過去を振り返り、後悔することは止められない。それは現在をより良いものとする為に、過去の過ちを繰り返さない為なのだ。


 霖雨は、迷い子のように行く先を失った葵を見詰めた。




「過去を繰り返さない為に、現時点のお前に出来ることがあるぞ」




 藁にも縋るように、葵が問い掛けた。




「何だ?」




 霖雨は胸を張って、威張るように堂々と答えた。




「助けを求めることだ」




 葵は誰も巻き込むまいとして、全ての責任を取る為に最良の選択をした。だが、その前提が間違っている可能性がある。独りきりでは解決出来ない程に、事態は悪化していたのだろう。


 此処にはヒーローはいないけれど、助けを求めるのならば、その手を掴んでやりたい。

 葵は、笑った。何処か泣き出しそうな笑みだった。




「助けてくれ」




 霖雨は、頷いた。




「助けるよ」




 例え、それは雲を掴むような到底不可能な選択肢であったとしても。

 ヒーローがそうであったように、霖雨にだって、その手を離すと言う選択肢は存在すらしていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ