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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
迷宮の怪物
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⑵モラトリアムの復讐

 何故だか解らないが、無性に苛々する。


 何かを殴り付けたいような凶暴な衝動に駆られ、葵はポケットに押し込んでいた煙草を取り出した。使い捨てのライターは安っぽい蛍光色で、作り物みたいな炎を点す。


 フィルターを咥え、ニコチンを摂取する。

 胸の中で沸き上がる凶暴な衝動は、煙と共に空気に吐き出した。神経が凪いで行く反面で、燃えて短くなる先端に、次の煙草の心配をしなければならなかった。

 ソフトケースの中には、未使用の煙草が数本収まっている。この分では、夕方まで保たないだろう。


 和輝が渡欧してから、煙草の消費量が増えた。ついでに、不眠が悪化しているので、夜半の飲酒も増えてしまった。

 身体が重くて堪らない。関節と頭がじくじくと痛んで、立っていることすら億劫だった。


 あのヒーローがいないと、自分はストレス解消の術が無いのだ。サンドバッグ代わりにしているのだろうかとも考えたが、ここのところ八つ当たりしている覚えも無いので不思議だった。


 やるべきことが見当たらず、葵は店で煙草を購入し、束の間の安息を手に入れた。

 読書をしようと思うのに、場所が無い。家には入れないし、喫茶店にも今は近付けない。路上で時間を潰せる程、図太い神経はしていなかった。


 買い物をするにしても、必要なものは無い。

 会うべき友人なんて持っていない。

 急に、自分が底の見えない穴へ放り込まれたような気がして、胸がざわざわする。奇妙な焦燥感に駆られ、葵は再び煙草に火を点けた。


 この苛立ちをどうにかしたいと、足元は忙しなくアスファルトを叩く。存在感が希薄なので、誰も振り向きはしない。




「寂しい奴だな」




 突然、背後から声を掛けられて、葵は勢いよく振り返った。

 冷たい寒風の中、厚手のニットを羽織った霖雨が立っていた。

 傍らには彼の愛車であるシルバーボディのMAGUMAが停められている。

 滑らかな稜線は一部派手に塗装が擦り剥けていた。以前、和輝を後部座席に乗せていた時、事故に巻き込まれて転倒したらしい。

 二人とも大した怪我も無かったそうだが、運が良いのか悪いのか解らない。




「しょうがないな」




 そんなことを吐き捨てて、霖雨は黒いヘルメットを投げて渡した。咄嗟に取り落とすことは無かったが、反動で煙草の灰が手の甲に触れて痛みのような熱を感じた。


 行くぞ。

 霖雨は背中を向けて、ぐいぐいと歩き出す。店から出て来た客の何人かは、昏い眼差しで霖雨を見ていた。相変わらずの変人ホイホイだ。


 促されるまま、葵はバイクの後部座席に座った。霖雨は黙ってエンジンを掛ける。獣の息遣いのような激しい排気音を残し、バイクは弾丸の如く飛び出した。


 何処へ向かっているのかは解らない。ただのドライブなのだろうか。けれど、バイクは何かしらの目的地があるかのように、迷いなく進んで行く。


 何処へ行くのだろう。

 後ろに飛んで行く景色と風を感じながら、葵はそんなことを考えていた。


 街を抜け、視界は急激に拓けていった。

 世界は紅い光に包まれている。左手は壁のような岩壁で、右手には夕陽に染まったパノラマが広がっていた。

 白い砂浜は緩やかなカーブを描き、人の姿は見られない。激しいエンジンの音の中、微かに打ち寄せる波の音が聞こえる。

 水面は宝石のようにきらきらと輝き、水平線は空に溶けてしまいそうだ。海の彼方へ沈もうとする夕陽がただただ眩しく、葵はそれを遮るように目を眇めた。


 海岸を見下ろす切り立った崖の停車帯に、バイクは停められた。エンジンの切れる様は、生命の死に似ていた。

 鼻を突く潮の臭いが漂っている。海から吹き付ける風は湿っぽく、そして、身を切るように冷たかった。


 ヘルメットを脱いだ葵は、ガードレールに凭れ掛かって海を眺めていた。

 霖雨はエンジンの停止を確認し、葵の隣に並んだ。


 普段なら、隣に並ぶなと悪態吐いているところだ。だが、何故だか今はそんな気も起きなかった。

 黙って海を眺めていると、霖雨が言った。




「お前、眠れてないだろ」




 葵は、答えなかった。

 答えたところで、何か変わる訳ではない。それなら、何も言わなくていい。弱さは隠しておくべきだ。ーーそれが、あのヒーローの考え方だった。

 葵には、一般的な思考が解らない。自分の感覚が常人と異なることを理解している。だから、誰かの真似をすることで、社会に溶け込んで来た。それが、葵の処世術なのだ。

 人間に擬態する捕食者。それが、サイコパスと呼ばれた自分の本質だ。




「和輝がいなくなってからだな。何だか妙に苛々して、塞ぎ込んで、酒も煙草も増えているし。ーーお前、大丈夫か?」




 その質問の仕方は、悪手だ。

 大抵の人間は、大丈夫だと返すしかない。

 そして、葵は答える義理もないので黙っていた。ただ、霖雨にすら見抜かれる自分の弱さに嫌気が差す。


 答えない葵を見遣り、霖雨がそっと息を逃した。




「少し前、お前の同級生と電話をしたんだ」

「同級生の顔なんて、覚えていない」




 人の顔なんて覚えていない。

 或る時点まで、葵にとって他人の顔や名前はただの記号だった。


 霖雨は言った。




「お前が向こうの大学にいた頃の同級生だよ」




 大学ーー。

 脳裏に浮かぶのは、構内を武力で制圧した異常者による大学占領事件だった。自分のせいで大勢の人間が死んだ。

 葵は、主犯を殺そうとした。殺しても構わない。誰にも迷惑は掛からない。自分の孤独と異常性を実感した出来事だった。境界線を越えたのは、その時だったのだ。




「お前がナイフを握る前に、止めてやれば良かったって、言っていたよ」




 意味が解らず、葵は考えた。

 ナイフを握る前であろうとなかろうと、自分は同じ選択をしたのだろう。それしか選択肢が無かった。ーー今更、他にも選択肢があっただなんて言われても、どうしようもない。

 事件は起こり、終わったのだ。傷痕はやがて時間が癒すのだろう。そして、葵の後悔は、あのヒーローがきっと、救ってくれる。


 ああ、だからか。

 だから、自分はこんなに苛々しているのだ。

 あのヒーローがいないから、不安で仕方ないのだ。




「お前の同級生には悪いけど、今更なんだよな」




 それは、優柔不断でお人好しの霖雨らしかぬ言葉だった。




「あの時、こうすれば良かった。ああすれば良かった。そんなことは、後からなら幾らでも言える。後悔して救われるのは、本人だけだ」




 霖雨の言葉は、件の同級生へ向けられている筈なのに、何故か葵は、自分に言い聞かされているように感じた。

 其処で霖雨が、此方を向いた。夕陽に染まった横顔は、そのまま消えてしまいそうに儚かった。




「お前は今まで、後悔したことなんて無かっただろう」

「無かったよ」




 葵は、端的に肯定した。


 後悔なんてしていない。自分は最善を尽くした。最悪の結末を避け、最良の判断をした。ただ、結果が常に最悪だっただけだ。

 自分には、他の選択肢は無かった。何度同じ場面に立ち会ったとしても、同じ選択を下すだろう。

 ーーだが、もしも、それが自分ではなく、あのヒーローだったのなら、別の結末を迎えられたのだろうか。今更になって、そんなことを思う。


 だから、葵は罪滅ぼしみたいに、ヒーローの真似をしながら生きている。




「和輝はヒーローになりたいと言うけど、葵は和輝になりたいんだね」




 その通りだ。だが、言葉にするとなんと愚かで浅はかな考えだろう。

 葵が答えずにいると、霖雨が笑った。




「沢山、悩むといい。自分の可能性を感じて、困難にぶつかって、悩んで、悔やんで、苦しむといい」

「酷い奴だな」

「お前の苦悩はね、モラトリアムと同じなんだ。遅れて来た青春なのさ」




 せいぜい、楽しめ。

 白い歯を見せて、霖雨が悪戯っぽく笑った。


 そうか。悩んで、間違って、失敗して、後悔してーーそれで、いいのか。

 何かが胸の中に転がり込んで来て、空虚な穴が塞がれたような気がした。

 どうしようもないと逃げ出したくて、投げ出したい時には、きっと手を差し伸べてくれる。自分が選択を誤っても、最悪の結末は彼等が回避してくれるのだろう。

 そんな無責任も、許されるのか。


 強張っていた肩の力が抜けて、葵は深呼吸をした。ニコチンの含まれない海の風が肺の中を満たしていく。


 それで良かったのか。

 水平線に沈む夕陽を見遣り、葵は少しだけ笑った。








 迷宮の怪物

 ⑵モラトリアムの復讐








 打ち寄せる波の音の中、奇妙な音が混ざっていた。ふと目を向けると、まるで水平線に向かっているかのような人影が見えた。


 真冬の海に入るなんて、酔狂な人間もいたものだ。

 呑気に眺めていたら、隣で霖雨が焦ったように言った。




「あれ、おかしくないか」




 人影は細い女だった。

 水着は勿論、ウェットスーツでもない。極普通の普段着だ。オレンジ色に染まる海に、深いグリーンのセーターが異物のように浮かび上がって見える。


 葵の脳は、既に一つの可能性を感じていた。

 それが感情と結び付き、冷静な判断を下すより早く、身体は動き出していた。


 崖を大きく迂回して、海岸まで走る。波際には、女性物のパンプスが行儀良く並べられ、それを重しに一通の封筒が置かれていた。


 ちくしょう、何だって、目の前で!


 葵はモッズコートを脱ぎ捨てる。

 追い掛ける霖雨の制止も聞かず、砂浜に残る足跡を踏み消すようにして、真っ直ぐに海へ飛び込んだ。

 頭が真っ白になる程、冷たかった。波間に揉まれて、思うように進めない。声を上げるが潮騒に掻き消される。服が水を吸って重くなり、まるで見えない誰かに羽交締めにされているような気がした。


 水平線へ進んで行く女性へ声を上げる。振り向いた女性が、心底驚いたように目を丸めた。


 来ないで!

 女の金切り声がした。葵はそれを無視して進み続ける。


 俺だって、行きたくない。こんな見知らぬ女が死んだところで、世界には何の影響でも無い。ーーけれど、目の前で死なれたら、寝覚めが悪いだろうが!


 女性の首に腕を回し、引き摺るような形で葵は岸へと泳ぎ出した。金切り声で何かを喚いているが、全て無視した。

 強引に岸へ上がり、女性を投げ捨てる。倦怠感なのか、純粋に衣服が海水を吸った為なのか、身体が重くて堪らなかった。


 荒い呼吸を繰り返す女性の側に、霖雨が跪く。その身を案じる姿が様になっていた。

 女性は双眸から大粒の涙を零しながら、悲鳴みたいに叫んだ。




「死なせてよ!」

「勝手に死ねよ!」




 酷く疲れていたので、葵も言い返すみたいに叫んでいた。




「死にたきゃ、死ねよ! でも、俺の目の前でするんじゃねーよ!」




 女性は両手で顔を覆って、啜り泣き始めた。

 なんて、面倒臭いのだろう。さめざめと泣く姿に庇護欲なんて駆られる筈も無く、葵は砂浜に倒れ込んだ。


 大した運動はしていない。年齢の為なのか、日頃の運動不足なのかは解らなかった。

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