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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
ボーナスタイム
49/68

⑵予定調和

 駅前の喫茶店は、シャッターが下りていた。

 それはまるで死者を葬る棺桶のように物寂しく、底冷えしていた。


 落書き一つ無いグレーのシャッターは、賑わう界隈からぽつりと置いて行かれたみたいに固く閉ざされている。一枚の貼り紙が、当面の営業休止を知らせている。曰く、再開の目処は立っていないらしい。


 裏口からは国家権力の代表格とも呼ぶべき制服警官が、蟻の巣穴を突いたみたいに、引っ切り無しに出入りしている。一足遅かったことを悟り、霖雨は呆然とした。


 何があったのかは解らないが、不自然なタイミングだ。

 霖雨と葵は、開かれる様子の無いシャッターの前で立ち尽くしていた。


 自分達三人の行動の交差点は、此処しかない。揃って違法薬物に侵されたというのは、偶然にしては出来過ぎている。霖雨は鞄の中へ押し込んだコーヒー豆の瓶を思い出し、堪えるようにベルトを握り締めた。


 以前、和輝はこの喫茶店でアルバイトをしていた。その時に口にしたコーヒーやクラブハウスサンドに憧れ、店主を尊敬した。彼の腕前に追い付こうと今も努力を重ねていたのだ。

 だが、その味わいが違法薬物による作為的なものだったとしたら、余りにも虚しいではないか。純粋に憧れて努力して来た和輝が、馬鹿みたいだ。その努力は無意味で、無価値で、信頼は裏切られていて、命すら狙われていたとしたら、これは最早、喜劇ではなく、悲劇だ。


 あの店主もグルだったのだろうか。


 誰かに否定して欲しいと願った。それが例え、何の根拠も無いきれいごとだったとしても。

 霖雨は助けを求めるように、隣に立つ葵を見た。しかし、透明人間は能面のような顔で言った。




「俺達は、何時から翡翠の掌で踊らされていたんだろうな」




 葵は、疲れ切った掠れた声をしていた。


 何時から?

 霖雨の瞼の裏には、この喫茶店がきっかけで起こった出来事が具に蘇っていた。


 和輝がアルバイトを始めたこと。

 女優のアイリーンと出会ったこと。

 並行世界で和輝が命を落とし、それを救う為に奔走したこと。

 翡翠と出会ったこと。

 霖雨が就職活動の壁にぶつかっていたことも、葵が行き場を無くして時間を潰していたことも、エイミーという女に執着されて危機に陥ったことも、全てがパズルのようにぼろぼろと崩れ落ちて行く。全ては翡翠の掌の上で、仕組まれていたのだろうか。


 霖雨は光の無い闇の中に投げ落とされたような絶望感に苛まれた。足掻いても足掻いても這い上がれない闇の底で、来る筈の無い救いの手を待ち続けている。

 自分達の流した汗や涙は何だったのだろう。それでも意味があっただなんて、霖雨には言えない。




「やあ」




 突然、背後から気さくに声を掛けられて、霖雨は肩を跳ねさせた。

 脊髄反射みたいに振り返ると、見覚えのあるーー顎髭を蓄えたあの店主が立っていた。

 まさかの本人の登場に、霖雨は勿論、葵も無表情ながら動揺していた。

 自分達の探す翡翠という男は生粋の嘘吐きで、人間嘘発見器と呼ばれる和輝を以ってしても見破ることは出来なかった。此処にヒーローはいない。自分に、この男の嘘が見抜けるかーー?




「翡翠を探しているんだってね」




 店主は、如何にも休日であるというように、淡いブルーのストライプの入ったシャツと、糊の効いたチノパンを穿いていた。滑らかな革靴はよく磨き込まれ、中天の太陽光を反射して美しく輝いていた。とても、ガサ入れされている喫茶店の店主とは思えない。

 普段はカウンター越しでエプロンを装着している姿しか見ていなかったので、何となく新鮮だ。


 霖雨の不躾な視線も構わず、店主は下されたシャッターを見た。




「貼り紙の通り、当分の営業は控えるつもりだよ。店内から、違法薬物が検出されたんだ」




 店主は困ったように眉を寄せた。

 何時も仏頂面で愛想の欠片も無い男なのに、まるで印象が違う。霖雨がそんなことばかり観察していると、葵が鋭く言った。




「他人事みたいですね。あんたは、真っ先に疑われて然るべき人間でしょう」

「事情聴取は受けたよ。無関係だと判断されるまでは大変だった」




 店主は、変わらぬ無表情だった。

 葵ばかりが苦々しく眉を寄せている。




「薬物混入の経路は解ったのですか」

「まだ捜査中だそうだ。ーーでもまあ、予想は着く」




 このシャッターの向こうでは、今頃、国家権力が血眼になって捜査をしていることだろう。

 店主は他人事みたいに呑気に構えている。葵は、何かを躊躇うようにそっと目を伏せて、問い掛けた。




「翡翠のことを、教えて欲しい」




 その名前を口にするだけで、どれ程の労力を使ったのだろう。

 葵は静かに息を零していた。店主は予期していたように、流水の如くさらりと答えた。




「此処では、早川翡翠と名乗っていた。近隣の大学へ通う学生で、君達と同じ国の出身だと言っていたよ。それ以外は知らない。一介のアルバイトだ。詮索する理由も無いからね」




 それは嘗て翡翠が語った嘘の経歴だった。

 和輝にも見破ることの出来なかった嘘だ。

 店主はそっと息を吸い込み、意を決したみたいに口を開いた。




「ただ、犯罪組織と深い繋がりがあったようだった」

「犯罪組織?」

「D.C.だよ」




 此処に至って、またその名前を聞くのか。

 D.C.は、Devil's childrenと呼ばれる田舎のヤクザだ。違法薬物の売買を主な収入源として、敵対する組織との抗争にティーンエイジャーを巻き込んでいたこともあった。


 翡翠がどの程度の関わりを持っていたのか疑問ではあるけれど、取り立てて目ぼしい情報でも無い。霖雨が別の質問をしようとするのを遮って、葵が意味深に問い掛けた。




「どっちのD.C.だ?」




 どっち?

 霖雨には、その質問の意味が解らなかった。だが、店主は曖昧に笑って、答えた。




「da capoだよ」




 何のことだ。

 話に置いて行かれそうな霖雨を哀れに思ったのか、葵が冷めた目で言った。




「違法薬物GLAYの研究、製造、開発を行うマッドサイエンティストの集まりだそうだ」




 GLAYの開発ーーということは、翡翠は、違法薬物を製造している側の人間なのだ。

 見た目は何処にでもいそうな優男だった。だが、内面は反して狂っている。

 何を目的として危険な薬物を作り出そうとしたのだろう。

 翡翠は、和輝を殺そうとしていた。そして、葵に殺されたがっていた。


 その理由は?




「あんたは、誰の味方なんだ?」




 葵は、警戒を滲ませた低い声で問い掛けた。

 その返答次第では、霖雨は葵を引き摺ってバイクに飛び乗る必要があった。


 店主は、感情の読み取れない瞳でじっと見詰めていた。此方が返答を待っている筈なのに、まるで、自分達がどんな反応をするのかと観察でもされているようだった。

 居心地の悪さに、霖雨は生唾を呑み下した。店主は、髭の生えた口元に柔らかな笑みを浮かべた。




「ヒーローの味方だよ」




 ヒーロー。その言葉は、まるで唯一無二の宝物みたいに美しく輝いていた。








 ボーナスタイム

 ⑵予定調和







 黒薙から、連絡があった。

 駅前の喫茶店から違法薬物が見付かり、現在捜査しているものの、店主を始めとする従業員に関連性は無く、事情聴取を終えた。


 それは先程、件の店主から直接聞いた話だった。今更な情報ではあるが、自分達が直接喫茶店へ向かい、店主と話すことなんて黒薙は想定していなかったのだ。

 霖雨は曖昧な相槌を打ちながら、黒薙の話を聞いていた。連絡を入れてくれただけでも、感謝するべきなのだろう。


 喫茶店を後にした霖雨と葵は、行き場も解らないまま駅前の広場で通り過ぎて行く人の群れを眺めていた。

 誰も此方を振り返りはしない。自分達にとってそうであるように、彼等にとっても自分達はただの他人なのだ。

 国家を揺るがすようなテロの脅威が迫っているだなんて、夢にも思わない。地球の裏側で戦争が起ころうと、恐ろしい疫病が蔓延しようと、飢えに苦しみ涙を涸らそうとも関係が無いのだ。

 愛の反対は憎しみではなく、無関心だと言う。

 霖雨は、猛スピードで進む世界から取り残されてしまったかのような孤独感に陥った。この場所で霖雨が声を上げても、人々は振り返りはしても、立ち止まりはしないのだろう。


 赤く錆びた街灯の柱に凭れ掛かった葵が、空中に泳ぐ羽虫を追い掛けるような焦点の合わない目で言った。




「以前、この街で猟奇的な殺人事件が横行していただろう」




 知っている。

 FBI捜査官の黒薙と出会った殺人事件だ。

 犯人は被害者の背中にアルファベットを刻み、足の裏に焼き鏝でmessengerと焼き付けた。被害者に関連性が見付からないことから無差別殺人だと界隈を騒がせていたが、全ては一人の男の死によって繋がっていた。


 或る犯罪組織に潜入捜査していたFBI捜査官が、薬物中毒の心神喪失状態で見付かった。彼は薬物に操られて霖雨達の家を襲撃し、最後は建物の崩壊に巻き込まれて事故死した。


 警察組織は、彼の存在を闇へと葬り去った。だが、それに意を唱えるように連続殺人事件が起こった。ターゲットとなったのは、警察組織から蜥蜴の尻尾切りのように葬られた男の関係者だった。




「被害者の背中に刻まれたアルファベットはヴィジュネル暗号で、最初に残されたXを鍵とすると、答えはJADEになる」




 JADEーー和名は、翡翠。


 回りくどいな、と霖雨は思った。

 これが警察組織の非情な切り捨て行為に対する報復であったとしても、わざわざ暗号になんてしなくても、メッセージを伝えたいのなら方法は幾らでもある筈だ。




「あのメッセージが誰へ向けられたものなのか、ずっと考えていた」




 葵は、ぼんやりと言った。


 メッセージを暗号にしたということは、解読出来る相手を想定していたのだ。連続殺人の姿を装った特定の誰かに対するメッセージ。




「警察組織に対する報復なのか、黙殺した社会への問題提起なのか。それとも、和輝なのか」




 messengerというメッセージは、被害者の足の裏に刻まれていたという。マスコミにも非公開の情報だ。だが、病院関係者で、FBI捜査官とも繋がりのある和輝ならば、この情報を得ることが可能だった。


 犯人は未だ捕まっていない。下手人は単独だが、背後には犯罪組織が控えているだろう。それがFBIーー黒薙の見立てだった。

 その犯人は十中八九、翡翠だ。彼でなければこんな用意周到な犯行は出来ないし、第一、自分達を巻き込む理由も無い筈だった。


 犯人が翡翠である以上、和輝に向けてメッセージを残したということは考えられる。疑念があるとすれば、ただ一つ。メッセージを解読困難なヴィジュネル暗号にしたことだ。


 和輝一人ならば、暗号解読には至らなかった筈だ。つまり、目的はその先にある。




「あのメッセージは、俺に向けられたものだった」




 葵は、擦り切れそうな声で呟いた。


 そうだ。あのメッセージは、葵へ向けられていた。

 葵は、和輝を信頼していた。過去に失った兄と重ね見る程に。

 和輝を介して情報を得るだろう葵へ、メッセージを残したのだ。翡翠にとっては、被害者も和輝も葵も、自己の欲求を満たす為の道具でしか無かった。




「如何して、翡翠はお前にメッセージを残したんだろう。その意味は?」

「あいつが、言っていただろう」




 痛みを堪えるように、葵は目を伏せた。霖雨には見えない何か忌まわしいものが、彼の目には映ったのかも知れない。




「何が正しかったと思うって。ーー俺が、巻き込んじまったのかな」




 それは、苦渋に満ちた声だった。


 霖雨の頭の中には、嫌な可能性が浮かんでいた。

 これまで和輝を中心に起きていた様々な事件は、その後ろにいた葵が切っ掛けだったのだろうか。もしもそれが真実ならば、巻き込まれ、何度も窮地を脱出し、強烈な引力で導いて来た和輝が、滑稽だ。


 霖雨には、解らない。だが、少なくとも、葵にその意思は無かった。それだけが、救いだった。




「全ては結果論だ。お前がラプラスの悪魔だって言うのなら、話は別だけどな」

「解らない。俺はこの可能性に気付いていたのかも知れない」

「未来は不確定で、運命は自分が切り開くものだ。俺はそう信じたいね」




 葵は最善を尽くした。それでも、結果は付随しなかった。ーー彼の過去を鑑みると、それは許し難い罪悪なのだろう。思考放棄と責任転嫁こそが、人間の犯し得る最大の罪なのだ。


 何処までが、翡翠の筋書きだったのだ。

 霖雨が葵と出会ったことや、和輝を拾ったこと。全ての出来事は翡翠によって書かれた筋書きに過ぎなかったのだろうか。

 それでも、やはり、未来はタブラ・ラサ(tabula rasa)の如く真っ白であると信じたい。ヒーローが翡翠の嘘を見抜けなかったように、全てを見通せる全知なんてこの世には無いのだ。


 さて。

 霖雨は膝に手を当て、立ち上がった。




「手掛かりが一つ消えたところで、行く先が決まったな」




 例え未来が確定していて、進む先は絶望しか無かったとしても、生きている限りは前に進まなければならない。どんな時にも希望は失われない。ーーそれは、ヒーローの言葉だった。

 闇夜を照らす一筋の光だ。


 足を踏み出した霖雨の後ろで、葵は立ち止まったままだった。如何したのかと振り向くと、葵が少年のように白い歯を見せて笑っていた。




「神様が振らないサイコロは、ヒーローが代わりに振ってくれるらしいからね」




 身を起こした葵が、何時かのヒーローの言葉を思い出したみたいに言った。


 霖雨もまた、此処にいない小さな青年を思い出し、懐かしい思い出に胸が擽られたみたいに可笑しくなった。

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