⑴スタートライン
Without friends no one would choose to live, though he had all other goods.
(友人がいなければ、誰も生きることを選ばないだろう。例え、他の凡ゆるものが手に入っても)
Aristotle
稲妻が走るように、脳の深部がチカチカと痛む。
起きていることすら困難で、眠ってしまおうと思うのに、激しい痛みによってそれも儘ならない。
鎮静剤の効果は見られない。副作用のことを考えると、追加投与は躊躇われる。
堪えるようにシーツを握ろうとしたが、両掌は厚くギプスで覆われていた。両腕に巻き付けられた包帯は、まるでミイラか透明人間みたいだ。
此処は、まるで、あの手術室のようだ。
何処かで緑柱玉の瞳が愉悦に見下ろしているような気がして、歯の根が合わずにがちがちと音を立てた。耳元に聞こえる金属音、額に落ちる水滴、身動き一つ取れず、逃げ出す術も無い。
助けを求める先も、声も無い。振り上げられた刃が身体の末端から削り取って行く。ダイナモがごうごうと鳴り響き、意識が途切れて行く。
コンティニューは、もう無いよ。
風鈴みたいな涼やかな声が尾を引いて闇に反響した。何か言葉を紡がなければと思うのに、何もかもが荒波に攫われるようにして遠退いてしまった。
何もかも、が。
「おはよう、和輝」
和輝が目を開くと、其処には幼馴染の蕩けるような笑顔があった。
薄ぼんやりとした周囲の空気が勢いよく吸い込まれるように、和輝は現状を把握した。
白い天井、白いベッド、等間隔に打ち鳴らされる心電図。無菌スーツを纏った匠は、労わるようにそっと頭を撫でた。
其処から勇気が送り込まれたように、鉛のようだった身体がすっと軽くなる。
猫のような匠の瞳に、包帯でぐるぐる巻きの自分の姿が見えて、和輝は目眩を覚えた。
「俺、助かったの?」
「ああ」
匠は眉間に皺を寄せて、苦々しく頷いた。
ああ、助かったのか。
あの地獄みたいな拷問を受けた手術室から、助け出されたのだ。和輝は息をするように言った。
「ありがとう」
匠は首を振った。
「俺が助けた訳じゃない。お前の同居人が、助けてくれたんだ」
「そっか」
じゃあ、お礼を言わないといけないね。
そんなことを零すと、匠はばつが悪そうに視線を遠く窓の外へ投げた。
「これ以上、この国には置いておけないよ」
「如何いう意味?」
「お前の家族と話したんだ。このままだと、何時か取り返しの付かないことになる。今回は助かったかも知れないが、次は解らない。退院次第、お前には欧州へ引っ越してもらう」
覚悟を決めて話しただろう匠の言葉を、和輝は自分でも驚くくらいすんなりと納得した。
欧米へ来る前は、欧州で医大に通っていた。
大学病院で現場研修という形で学ばせてもらえると聞いたから、留学して来たのだ。
元に戻るだけだ。欧州なら、通学には便利だ。此処に残る理由なんて、何もーー。
何も?
「葵と霖雨は?」
頭の奥に引っ掛かっていた記憶がふっと蘇った。暗い回廊の奥、開かない扉。拷問を受けて逃げ出す手段も無かった自分を助けに来てくれた友達。彼等は、今何処にいるのだろう。
匠は訝しむように、猫のような目をすっと細めた。
「二人は無事だよ。この部屋の外で待っている」
「会いたいな」
「会わせないよ」
ぴしりと言った匠の言葉には、断固として譲らない強い意志が滲んでいた。
匠の言葉は純粋な心配だ。自分の行動を制限して操作しようとするものではない。
匠には心配を掛けている。自分が入院すると決まった時、生きた心地がしなかっただろう。ふとサイドテーブルを見れば、鮮やかな切花が飾られていた。多忙な父や兄が見舞いに来ていたことが解る。
こんな顔をさせたかった訳じゃなかった。
きっと、引っ越しの手筈は全て整っているのだろう。これは連絡だ。決定事項の通達なのだ。抵抗の手段は無いし、反論する理由も無い。
だけど、それでも。
「別れの挨拶くらい、させてくれよ」
和輝が言うと、匠は肺を空にする程に深い溜息を吐き出した。
「そう思うのなら、少しでも早く治すことだな」
「努力するよ」
無菌室は面会謝絶だ。
霖雨や葵に会うのは、まだ先のことだろう。
痛みを誤魔化すように爪先に力を込める。無駄な抵抗と解っていても、此処で呻き声の一つでも上げて匠に心配を掛けるよりはマシだった。
その時、扉が軽く叩かれた。面会謝絶なので、訪れるとしたら、家族か医療関係くらいだろう。
返事をしようとした和輝を制して、代わりに匠が対応した。微かな音を立てて引き戸が開かれる。
無菌スーツを纏った小柄な男が立っていた。
面識は無い。匠が此方を見たが、和輝は首を振った。
警戒を滲ませる匠の前に、男は黒いカードケースを見せた。其処に立つ男の名前と写真が載っている。
匠が不審そうに目を向けるが、やはり、和輝は首を振った。不機嫌そうな仏頂面の男は、射抜くような鋭い視線で和輝を睨んだ。
「生きていて良かった」
見知らぬ男に戸惑いを隠せず、和輝は距離感を掴めないまま其の場凌ぎに言葉を紡いだ。
「お蔭様で」
「あいつ等も、随分と心配していたぞ。ICUから出たら、顔を見せてやれ」
「そのつもりです」
やけに馴れ馴れしいな、と思った。
黒曜石を嵌め込んだような漆黒の瞳からは、僅かながら信頼が滲んで見える。
何者だろう。
和輝が黙っていることに疑問に思ったのか、男は眉を寄せた。
「如何した?」
「ええと、どちら様ですか?」
何処かで会ったような気もするけれど、思い出せない。まるで、頭の中が濃霧に包まれてしまったようだった。
男は、石像のように固まっていた。何か衝撃を受けているようではあるが、和輝には解らない。
たっぷり五秒は固まっていたと思う。
漸く動き出した男は、懐に入れた先程のカードケースを取り出し、和輝の眼前へ突き付けた。
「FBI捜査官の黒薙という」
「はあ」
「お前には世話になった。ーーありがとう」
黒薙の真っ黒な瞳に、朝日にも似た柔和な光が宿る。それを確かに知っている筈なのに、和輝には思い出せなかった。
「どういたしまして?」
ことりと首を傾げると、黒薙は何も言わずに背中を向けた。何処か物寂しい背中だった。
何か声を掛けようと思ったが、それは全て砂上の楼閣の如くぼろぼろと崩れ落ちてしまった。
ボーナスタイム
⑴スタートライン
葵は、ソファへ掛けたまま一人で俯いていた。家の中は無人で、死んだように静まり返っていた。
和輝が意識を取り戻したのは、搬送されてから丸三日経ってからだった。
しかし、面会謝絶で、家族かそれに等しい者しか入室出来なかった。葵と霖雨は、開かない扉の前で立ち尽くしていた。
其処に訪れたのは、和輝の親友である白崎匠だった。彼は入室許可を得たらしく、無菌スーツを纏っていた。
扉の前に立つ葵と霖雨を冷ややかに見て、匠は扉の向こうへ消えた。大切な親友が生死の境を彷徨うことになった原因は、自分だ。罵声の一つでも向けられて当然だった。
それでも、何も言わなかった匠を見送り、葵と霖雨は渋々ながらその場を後にした。
病院の前では黒薙や香坂を始めとするFBI捜査官が待ち受けていた。生産性の無い事情聴取を受け、解放された頃にはすっかり日は暮れていた。
霖雨は夕飯の買い出しに出掛け、自宅には葵だけが残った。
一人きりの室内で、蛍光灯の白い光を浴びながら思考の海に潜り込む。
違法薬物の投与された経路を考えていた。
御人好しの霖雨は兎も角として、自分や、野生動物みたいな嗅覚を持つ和輝までもが、知らぬ間に違法薬物を投与されるなんてことがあるのだろうか。
三人揃って、と考えると、必然的に薬物が盛られたのは、食卓になる。しかし、食事を主に使って来たのは、和輝だ。
その和輝が気付かない筈も無い。
ならば、此処では無い。
三人の行動が重なる地点がある筈だ。趣味も趣向も異なる自分達三人が立ち寄る場所ーー。
前すら見えない闇の中に、一筋の光明が差し込むように、葵は一つの可能性に気付いた。
同時に、玄関で鍵の開く音がした。それが合図みたいに、葵の脳内に浮かんだ可能性はシャボン玉のように弾けた。
「ただいま」
「おかえり」
互いに素っ気なく声を掛けた。
疲労により気力が消耗し、凡ゆることが億劫になっている。
霖雨はビニール袋を片手にキッチンへ向かった。
手を洗う水音がリビングまで聞こえた。葵は弾けてしまった思考を一つ一つ拾い上げるつもりで、姿勢を正した。
手を洗い終えた霖雨が、蛇口を閉める。
「考えてみたんだけど」
唐突な声に、葵の思考はまたしても途中で霧散した。
霖雨は構わず、カウンター越しに言った。
「違法薬物の投与された経路、一つしか思い当たらないんだ。一人なら偶然もあるかも知れないけど、三人だろ。食事はこの家で、和輝が作るし、利用するスーパーマーケットもまちまちだ」
同じようなことを考えていたらしい。
葵は黙って先を促した。
「俺達の行動が重なる場所ーー、駅前の喫茶店」
霖雨の零した可能性は、葵も考えていた。
駅前の喫茶店は、以前、和輝がアルバイトをしていた場所だ。そして、翡翠もまた同じくアルバイトをしていた。
アルバイトを辞めた後も、和輝は喫茶店のマスターの淹れるコーヒーに憧れ、其処で挽いた豆を購入している。葵も霖雨も時間がある時には度々喫茶店まで足を運び、自宅では和輝の淹れたコーヒーを飲んでいた。
違法薬物が何処に混入していたか?
コーヒー豆だ。恐らく、嗅覚の鋭敏な和輝が気付かない程の極少量から、段階的に増やして行ったのだろう。
敏感な和輝がいる時には極少量を、霖雨や葵が飲む時には通常量を提供し、少しずつ薬物に汚染させて行ったのだ。
キッチンから出て来た霖雨の手には、円筒形の瓶が収まっている。半分程の量のコーヒー豆が瓶の中で波を立てていた。
一見すると、極普通のコーヒー豆だ。店で挽いたものが、常に瓶の中に収められている。
違法薬物GLAYは、元々は錠剤型だったという。用途に合わせて液体や気体のものも開発されているが、効果は薄く、実用段階には至っていない。
ならば、自分達は、実験台だったのだろう。
コーヒー豆に混ぜ込んだ違法薬物が、どの程度作用するのか観察していたのかも知れない。
そして、自分達だけでは満足の行く結果が得られず、道行く人々にもばら撒き始めた。その結果が、自宅を強襲したあの大男だ。
テーブルに瓶を置き、霖雨はラグの上に胡座を掻いた。
「俺は、何の証拠も無く人を疑うのは嫌いだ。だからといって、何の証拠も無く他人を信じるなんてことも出来ない」
「それなら、確証を探しに行くか」
葵が言うと、霖雨が驚いたような顔をした。
当然の選択肢だった筈だが、霖雨は信じられないものを見たように目を丸めている。それが面白くなくて、葵はゆっくりと重い腰を上げて、胡座を掻く霖雨の背中を軽く蹴った。
和輝ならば、否定の材料を探すのだろう。此処にあのヒーローがいないのならば、自分がやるしかない。
霖雨が慌てて立ち上がる。追い掛ける刹那、ふと思い出したように言った。
「気になることが、もう一つあるんだけど」
葵は玄関へ向かう足を止め、振り向いた。
霖雨は所在無さげに視線を落としていた。
「和輝が拉致されていた場所、俺達が行ったことのある場所だっただろう?」
問われても、葵はよく覚えていなかった。
正直、和輝が行方不明になった時点からの記憶が曖昧だった。
「Sven=Svenssonの講演会の会場なんだよ」
葵の脳には、知覚していなかった大量の記憶が情報として雪崩の如く流れ込んだ。
殺人衝動、PTSD、ヒーローの消失、違法薬物、喫茶店、Sven=Svensson、翡翠。全ての事象は因果律に支配されている。一見無関係に見えることも、実は一本の糸で繋がっているのだ。
携帯電話を取り出して、拉致される寸前の和輝の行動を調べる。郊外の診療所へ向かい、誰かと一緒に駅前の飲食店で昼食を取っている。
街の防犯カメラ映像から確認すると、連れ立っていたのはジェイドという若い医師だった。
界隈で猟奇的な連続殺人が横行した時、messengerと名乗る犯人は被害者の背中にアルファベットを刻み付けた。それはヴィジュネル暗号と呼ばれるもので、答えはJADEだった。
和名は、翡翠。
「ーーくそっ!」
葵は衝動に任せて、壁を強く殴り付けた。霖雨が驚いたように肩を跳ねさせたが、構わなかった。
煮え滾るマグマのような激しい怒りが抑えられず、身体が震えた。こんな事は初めてだった。
何時からーー。
何時から、自分は彼の掌の上で踊らされていたのだ。
蜘蛛の巣のように身の周りで起こる様々な事件を辿って行くと、何時も必ず奴がいる。獲物が抵抗の術も気力も失った瞬間を待ち、予定調和のように捕食しようとしている。
何が狙いだ。
何の為に。
知的好奇心を満たす為ならば、他者の命等、路傍の石に過ぎないのだ。その為に、自分の意思を奪い、霖雨を危険に晒し、和輝を拷問に掛けて殺そうとした。
何が望みなのだ。ーー翡翠は、何の為に!
「葵」
沸騰し掛けた頭に冷水を被せるように、霖雨が酷く落ち着いた声で言った。
「俺には、翡翠の思い描くエンドロールが解るよ」
視界が急速に明瞭になって行く。
葵は、迅る鼓動を抑えながら、言葉の先を待った。
霖雨が言った。
「翡翠はね、葵に和輝を殺させたかったんだよ」
平静を装っていたつもりなのに、顳顬が怒りで痙攣した。
自分が、和輝を殺すーー。
それは、有り得ないことの筈だった。だが、事実、あの暗闇の回廊で、葵は和輝へ発砲した。記憶が曖昧なので、理由は解らない。翡翠を狙ったが外したのかも知れないし、薬物によって誘導されたのかも知れない。
もしもあの時、霖雨がいなければ、自分は和輝を殺していたと思う。有り得た未来を想像するだけで、恐怖に足が竦んだ。
解っている。自分は、失った兄と和輝を重ね見ていたのだ。その和輝を自分が殺していたとしたら、もう、生きてはいけなかった。
ならば、翡翠の狙いは和輝なのか?
今もICUに押し込められている重体の和輝を狙っているのか?
それとも、自分を?
何故だ。何故、其処まで他人に固執する?
「葵が銃口を向けた時、翡翠は抵抗しなかった。これは俺の予想だけど、ーー翡翠は葵に殺されたかったんじゃないかな」
自分が和輝を殺し、そのまま、翡翠をーー。
それは、あの時、十分に起こり得た事だった。霖雨というイレギュラーさえなければ。
まるで、見えない糸で繋がれているみたいだ。何処から何処までが、翡翠の書いた筋書きだったのだろう。
嘗て、世間を騒がせた女優が言った。筋書きの無い世界なんて無いと。
葵は大きく深呼吸をした。
頭が沸騰して、思考が纏まらない。こんな時こそ煙草が吸いたいと思う。だが、生憎、この家に煙草は無い。禁煙したのだ。ヒーローが再三、身体に悪いと忠告したから。
霖雨はポケットからバイクの鍵を取り出した。
「行ってみないことには、始まらない。これ以上、後手に回る訳にはいかないもんな?」
紙のような白い面で、霖雨が笑った。
相変わらず、決まりの悪い男だ。格好付けるのなら、その顔色くらい取り繕っておけと思う。
だが、彼のその高い感受性が事件の根幹に触れ、間違い無く導いているのだ。
身体中に力が漲って来て、今なら空だって飛べるような気がした。
葵はゆっくりと深呼吸を繰り返し、靴箱の上に置き晒していたヘルメットを片手に、玄関の扉を開けた。