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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
羅針盤
47/68

⑸余暇

 固く結ばれた糸が解け落ちるように、翡翠の突き付けた指先は下された。それは舞台の幕引きのような寂寞を連れ、形容し難いしこりを胸に残した。


 霖雨は意識を失ったヒーローを抱え、微笑みを浮かべる翡翠を見ていた。

 崩落する瓦礫の中にいる彼の姿は、既視感を覚えさせる。これでゲームセットとは、思えなかった。


 何かが起こるような気がして、霖雨は嫌な胸騒ぎの中でヒーローの腕を強く握った。だらりと力無く下げられた腕には拷問による凄惨な傷跡が痛々しく残り、骨と皮だけしか存在しないかのように痩せ細っている。

 ヒーローの肩に空いた風穴からは、凝固しない血液が流れ落ちる。一刻も早く病院へ搬送し、輸血する必要があった。


 霖雨の隣には、その双眸に確かな光を宿した透明人間がいる。彼は別れを惜しむみたいに、翡翠をじっと見詰めていた。


 その時、何かの弾けるような音が粉塵を切り裂いた。シャボン玉が割れるように、夢から覚めるように、翡翠は一陣の風の如く視界から消えた。


 背後から切羽詰まった怒声が突き刺さった。




「お前等、無事か?!」




 霖雨と葵が振り向いたのは同時だった。

 崩落する瓦礫の向こうに、頭から煤を被ったように真っ白に染まった黒薙が立っていた。片手に下げた拳銃からは僅かに硝煙が昇っている。




「避難するぞ!」




 それが合図みたいに、霖雨はヒーローを背負い直して駆け出した。葵もまた、後を追うように走り出す。


 両側から迫るような回廊を脱出した瞬間、背後から全てを呑み込む轟音が響いた。

 振り向くと、回廊はすっかり瓦礫で埋まっていた。間一髪というやつなのだろう。


 霖雨は軽い目眩を感じて、その場にしゃがみ込んだ。相変わらずヒーローは目覚めない。

 何時もそうだ。このヒーローは好きなことを言って、やりたいことをやって、最後はガス欠になる。勝手な奴だと思うが、これが彼の向ける信頼なのだと知っているので、口に出して責めることは躊躇われた。


 黒薙はヒーローの様子を見ると、すぐに携帯電話を取り出した。救急車を呼んでくれるらしかった。

 ずるずると壁に凭れ掛かるようにして座り込んだ葵が、辺りの空気すら重くなるような深い溜息を零した。




「俺がPTSD?」




 皮肉っぽく、葵は自嘲した。

 霖雨は、和輝の言ったPTSDという症状を詳しくは知らなかった。専門的な知識がある筈も無い。だが、ヒーローの話の概要は理解した。




「お前がそんなタマか?」




 軽口を叩くように、霖雨は笑った。


 神木葵はサイコパスではない。

 根っからの殺人鬼なのではなく、過去のトラウマが原因で、身を守る為に仕方無く人を殺していた。薬物に汚染された彼は正常な判断が出来ない心神耗弱状態で、罪には問われない。


 そう、つまり、葵を裁くことは誰にも出来ないのだ。


 葵が殺して来たのは社会が迫害して来た犯罪者で、正当防衛すら成立する。ヒーローは、葵を全面的に許容するのだ。罪も穢れも弱さも全てを認めて、清濁合わせ呑むように受け入れるというのだ。


 それでいいのだろう。葵には、そうして受け容れてくれる人が必要だった。社会から謂れのないレッテルを貼られた葵を救うには、それしか無かった。


 それでも、葵が手を下したのは事実。


 己の両手を見下ろし、葵は嘆くように呟いた。




「じゃあ、俺のこれまでの時間は無駄だったのか」




 葵にサイコパスの診断を下した者の理屈なんて知らない。だが、和輝の導き出した答えが真実とすると、これまで死人のようにひっそりと息を殺して生きて来た葵が、滑稽だ。


 ただ一つの誤診が、葵の人生を狂わせた。

 堪らなくなって、葵は拳を握った。




「無駄だったとは、思わないけどね」




 霖雨が言うと、葵はそっと目を上げて、息を吐き出すようにして笑った。


 弁解のつもりは無かった。葵を慰めるつもりも無かった。

 事実、葵が海を渡らなければ、和輝に出会い、その結論に至ることも無かった。全ての事象が因果律に支配されているのなら、意味の無いことなんて、塵一つ無いのだ。


 霖雨は、葵に伝えなければならないことがあった。




「罪には問われないからと言って、全てが許される訳じゃない」




 ヒーローには出来ない汚れ役は、自分がやる。霖雨は感情を取り払った冷たい声で吐き捨てた。

 葵が望んだことではないけれど、彼は確かに人を殺して来た。それが例え社会から弾き出された底辺を彷徨う人間だったとしても、彼がその手で命を奪ったのだ。法律は葵を裁かない。そして、守りもしない。




「罪は人を許さない。許すとしたら、それは人しか有り得ない」




 葵は、氷ような冷たい目をして、霖雨へ問い掛けた。




「その人がこの世にいなかったら? 誰に首を垂れ、許しを乞えばいい?」




 葵が霖雨に答えを求めるのは、珍しい。

 真夜中に虹が架かるような、真夏に雪が降るような、何となく良いものを見たような気がして、霖雨はそっと笑った。


 背中で意識を失っているヒーローが乗り移ったみたいに、言葉がするすると零れ落ちる。




「それなら、失った人に顔向け出来るように、堂々と強く美しく生きていくしかないさ」




 きっと、ヒーローなら、そう言うだろう。


 生きていこうよ。

 良いことばかりじゃない。上手くいくことなんて、ちょっとしかない。

 それでも、前を向いて生きていこう。

 そうしたら、きっと何時か、届くから。


 葵は小馬鹿にするように鼻を鳴らして笑ったけれど、霖雨には見えてしまった。

 伽藍堂だった胡乱な瞳が、ダイヤモンドみたいに煌めく瞬間を。









 羅針盤

 ⑸余暇








 緊急搬送されたヒーローは、出血性ショックで瀕死の重傷だった。救命救急医の迅速な手当てが功を奏し、如何にか一命を取り留めたものの、意識は混濁してICUに送られ、面会謝絶だった。


 葵は、開かない扉の前で項垂れていた。

 数時間前までの記憶が曖昧だった。長い夢を見ていたようで、まるで浦島太郎にでもなったようだった。


 崩壊した建物から姿を消した翡翠は見付かっていない。記録上、存在しない人間を捜査することは難しく、葵や霖雨の体験した事実も公には出来ない。

 ただ、あの場所に突入して来た黒薙は協力的で、独自に翡翠の消息を追ってくれると話していた。期待はしていないが、何もしないよりはマシだった。

 翡翠はボーナスタイムだと言った。これは束の間の休息、余暇なのだ。次に会う時は、互いに無事では済まないだろう。


 薄いタイルの床が蛍光灯の明かりを反射して、冷たく光っている。項垂れた自分の影ばかりが窖のように暗く、思考すら闇の色に塗り潰してしまうようだった。


 思考を切り替える必要がある。それを理解しているのに、不明瞭な視界では四肢を削がれたように無力で、億劫だった。


 遠く、床を打ち付ける足音が聞こえた。

 それは葵の影に重なり、奇妙な生き物のように歪んだ。




「君達の血液中から、少量ながら違法薬物の成分が検出されたよ」




 葵が顔を上げると、人形のような無感情の目をした黒薙が立っていた。煤だらけのスーツには皺が寄り、クリーニングでも到底蘇りはしないだろう。


 黒薙は葵の隣に座った。

 煙草の臭いが微かに漂い、急に身体がニコチンを求めた。




「GLAYと呼ばれる違法薬物だ」




 重度の依存性と幻覚作用を持ち、他人を意のまま操る魔法の薬。犯罪組織御用達の品が、如何して自分達の血中から検出されたのだろう。


 何処で投与されたのか。

 葵には、その経路が解らなかった。

 自分や霖雨は兎も角、野生動物みたいな嗅覚を持つ和輝が気付かないとは思えない。




「身に覚えが無いんだが」

「それは、そうだろうさ。お前等に気付かれないように、敵は周到に準備をして来たんだ」




 黒薙の指先は痙攣みたいにスーツの膝を叩いていた。生地が擦り切れそうに薄くなっている。あの崩壊する建物に、単身突入して来たのだ。スタンドプレーの好きな人種なのかも知れないが、余りにも無謀な行為だ。

 けれど、彼がいなければ、自分達は死んでいたかも知れない。少なくとも、和輝は助からなかっただろう。




「da capoと呼ばれる犯罪組織を知っているか?」




 da capo?

 葵は問い返した。




「D.C.ーーDevil's chilledrenなら、知っている」

「そう呼ぶこともあるが、俺達FBIでは、D.C.はda capoのことだ。違法薬物の製造、開発を行うマッドサイエンティストの集団だよ」




 違法薬物の製造ーー。

 GLAYと呼ばれる悪魔の代物を作り上げた科学者。その顔を拝んでみたいものだ。


 葵が黙っていると、黒薙は忙しなく膝を叩く指先を抑えるようにして、厳しく腕を組んだ。




「GLAYの開発者は、狂人だった」




 よもや常人だとは思っていなかったが、まるで知ったように話す黒薙の口振りが気に掛かった。




「知り合いなのか?」

「ああ。母国にいた頃、俺は違法薬物の取締官だったからね」




 そういえば、黒薙は母国から引き抜かれたエリートなのだった。名義上の保護者である香坂も同様にこの地は来たものだから、それがどれ程に名誉なことなのか解らず、最早驚きもしなかった。




「GLAYを開発した人間は、或る純粋な願いの為に悪魔の薬を作り出した」

「純粋な願い?」

「死者の復活だよ」



 急に話がオカルトの方向に転がったような気がして、葵は頭痛を感じた。

 非科学的なものやオカルトは嫌いだ。


 だが、黒薙は葵の反応等構わずに続けた。




「組織を追っていた時、俺は本物のGLAYを投与された。本物とは言え、気体だったからな。意識の混濁くらいだったよ」

「その科学者は、薬で死者が生き返るとでも思ったのか?」

「そいつは、薬で意識を失わせ、性格というプログラムと記憶というデータを埋め込むことで、死者を蘇らせようとしていた」

「自己満足だな」

「そうだよ。だが、その為に大勢の人間が違法薬物に手を伸ばし、廃人になった」

「死者は蘇ったのか?」




 黒薙は、緩く首を振った。




「気体状態の薬物では、効果が薄く、期待以上の結果は得られなかった。被験体として選ばれた俺は、混濁した意識の中で、死者と会った。ーーこんなこと、信じなくていいからな」




 葵は鼻を鳴らした。

 元より、信じられる筈も無い。


 違法薬物、GLAYは本来、紛い物とは段違いの依存性と幻覚作用により、一度でも口にすれば現実には戻れない悪魔の代物だ。口にした者は悉くが廃人となり、現実に戻ることは無い。




「俺の身体は違法薬物に侵され、死者の幻覚を見た。人格や性格というデータを入れ込む第二段階に至っていたら、今、此処にはいられなかったと思う」




 黒薙は、二十代後半くらいだろうか。葵とそう年も変わらない筈だ。

 けれど、彼はそれなりに修羅場を乗り越えて、此処に立っているのだ。

 本来ならば、黒薙さん、と敬語で呼ぶべきなのだろう。年齢という意味でも、社会人としての先輩という意味でも、尊敬すべき人間だ。




「同じ手段を用いていると思えば、彼等の狙いは変わっていない」

「死者の復活?」

「そう」




 黒薙が母国にいた頃から動き続けて来た違法薬物の研究。現時点でどのくらい進んでいるのかなんて知る術も無いが、同じ手段を取るならば、開発は進んでいる筈だ。


 其処で、黒薙がそっと目を閉じた。

 唐突に訪れた沈黙は、呼吸すら困難な緊張感に包まれた。きりきりと引き締められた糸が千切れる刹那、黒薙は目を開けた。




「奴が生き返らせようとしていたのは、俺の先輩だった」

「如何して?」

「先輩の恋人だったんだよ」




 戦争と愛は、人を狂わせる。

 恋人を失った科学者は、彼女を生き返らせる為に悪魔の薬を作り出した。




「その科学者は、死んだのか?」

「解らない。消息は不明だ。そもそも、奴は記録上存在していなかった。俺達は空蝉と呼んでいたが、それも本名ではないようだったしな」




 質量を持った幽霊だ。ーー翡翠に似ている。

 翡翠の目的は何だ。何故、俺達を執拗に狙う。彼等の目的が死者蘇生だったとして、如何して自分達が狙われた。


 疼くような頭痛を堪えて顳顬を揉んでいると、黒薙が言った。




「GLAYには、特効薬がある」

「そんなものがあるなら、さっさとこの物騒な薬を取り締まってくれよ」

「数に限りがあるんだよ」




 そう言って、黒薙は煤だらけのスーツの袖を捲った。

 正方形の絆創膏が貼られている。採血や点滴等の注射針による無用な血液の流出を防ぐ為のものだ。




「俺はGLAYに侵されながらも、生還した。結果、血液中の成分が異常を起こし、GLAYの特効薬が作り出された」

「お前の血?」




 如何にも信じ難い話だが、この場で黒薙が嘘を吐く必要も無かった。




「お前と、霖雨と、和輝には既に投与されている。GLAYによる症状は間も無く治るだろう。後遺症は残るかも知れないがな」



 嫌なことを言って、黒薙は席を立った。

 葵もまた腰を上げて、硝子張りのICUを覗き込む。心音が電子音となり、弱々しくも続いている。

 両腕には包帯が巻かれ、両掌にはギプスだ。和輝はまた、目覚めない。


 ボーナスタイムをあげる。


 翡翠の声が、今も鮮明に耳の奥に残っている。

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