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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
羅針盤
46/68

⑷君が信じた

 ひび割れ崩れ落ちる瓦礫の中で、緑柱玉の瞳が猫のように光っている。足元に力無く転がされたヒーローを、霖雨が必死に手繰り寄せる。


 血塗れの小さな身体は、身動ぎ一つしなかった。肩に開いた銃弾による穴からは、凝固しない血液がだらだらと零れ落ちる。

 銃弾を放った葵は、途方に暮れた迷子みたいに、呆然と立ち尽くしていた。




「如何して、人を殺してはいけないの?」




 全ての感情を取り払った機械のように、翡翠が抑揚の無い声で言った。その手には黒く光る拳銃が握られていた。


 銃口の先、葵は肩を跳ねさせた。このまま耳を塞いで、蹲ってしまいたかった。


 葵には、答えられなかった。




「何が正しかったと思う?」




 答えを待たず、翡翠は問いを重ねた。

 誰も答えない。息の詰まるような沈黙だった。


 そんなこと、俺には解らない。

 今も解らないままだ。


 葵の視界は滲むようにして歪んでいた。

 過去と現実が交差し、目の前の事態すら把握出来ない。世紀末を思わせる地震に見舞われたように、立っていられない。


 蛍光灯に照らされた辺りは、真っ赤な夕暮れと重なった。それが過去の記憶なのか、現実の事象なのか解らなかった。


 葵が神なんていないと知ったのは、中学生の頃だった。


 唯一の肉親である兄が自分のストーカーに惨殺された。茹だるような熱波に襲われた夏の日だった。


 脅威は通り雨の如く降り注ぐ。回避する為には刃を握るしかなかった。葵は自分のストーカーを殺害する手段を講じていた。


 何のきっかけだったのか、それを兄に知られてしまった。

 自分達は相容れぬ価値観の為に拳を振るった。互いに満身創痍だった。葵は、兄は問い掛けた。


 如何して、人を殺してはいけないの?


 兄は、答えた。

 蛍光灯に照らされた面は腫れ上がり、額からは血の雫が流れ落ちていた。



 ーー俺が嫌だからだよ。



 罪には、罰だ。

 殺人を犯せば、断罪されるのはお前だ。そうすると、俺はお前といられなくなる。だから、駄目なんだ。それは、いけないことなんだ。



 ーー俺は、お前と一緒に生きていきたいから。



 俺は、きっと、あの言葉を聞きたかったのだ。

 もう一度だけでいいから。


 人を殺してはいけないと知っている。それでも、身を守る為には、戦うしかなかった。けれど、それは許されない。だから、その理由を探して来た。

 正当防衛ならば、許される。だが、兄はそれを許さなかった。


 その兄も、葵を守る為に死んでしまった。

 最悪の事態を想定して、最善の選択をしたのに、結末は常に最悪だった。


 死ぬことも許されなかった。それならば、何処に救いを求めたら良いのだろう。

 自分は何を糧として生きたら良いのだろう。人を殺さなければ生きられない。


 此処は出口の無い迷宮だ。一筋の光も差さない闇の中で、どちらが前かも解らずに、ただ、立ち尽くすことしか出来ない。




「答えなんて、必要無かっただろう?」




 緑柱玉の瞳は、葵を真っ直ぐに映していた。


 そうだ。

 理由なんて、いらなかった。


 自分はサイコパスと呼ばれた異常者だ。常人の価値観なんて理解出来ない。


 その診断を下された時、名状し難い失望感に襲われた。社会から貼られたレッテルにより、神木葵という少年は首を絞められたように息を引き取った。

 被害者の遺族という外面を取り繕いながらも、内面では歯車が摩耗するように心が削り取られ、人格すら維持出来なかった。


 最初に消えたのは、味覚だった。

 独りきりの食事は作業となり、効率のいいエネルギー摂取を求めてインスタント食品に偏った。味が消えると食感も不明瞭になり、自分が何を食べているのかすら解らなくなった。


 食事の代わりに飲酒が増え、手持ち無沙汰な時間は全て読書と喫煙になる。外部から齎された高揚感から目が醒めると、死んでしまいたくなるような絶望感に襲われた。


 そして、自己実現理論を逆行するように意識は朦朧となり、全てが上部だけの虚構のように感じられた。


 頭の中で何かの潰れる音がした。薄っぺらな新聞紙を握り潰すような、子どもが蟻を踏み付けるような微かな音だった。


 何もかも嫌になって、もういいかと投げ出したくなって、逃げるように海を渡った。

 他人に期待なんてしていなかった。彼等は水族館の水槽の向こうにいるように、異なる世界で生きている。当たり前のように家族がいて、身を守ってくれる誰かがいる。


 帰るべき家があって、温かい食事があって、ただいまと言えば、おかえりと返って来る。

 そんな平和な世界を当たり前みたいに消費して、下らないことに悩んで、また、顔を上げて生きて行く。


 如何して、俺には許されないのだろう。

 彼等には当たり前なのに、如何して俺には何も無いのだ。帰るべき家や、温かい食事や、おかえりと言ってくれる誰かが、欲しかった。


 そんな当たり前が、欲しかったんだよ。




「葵が辛いのは……、もう嫌なんだよ」




 意識の無い筈の和輝が、熱に浮かされた譫言みたいに言った。血塗れの指先が、錨のように葵の袖を掴んでいた。


 もしかしたら。

 もしかしたら、俺にもあるのかも知れない。そんな希望が肌一面を熱くする。


 手を伸ばせば、届くかも知れない。兄を救えるのかも知れない。ーーその手を、掴めるのかも知れない。


 一寸先すら見えない闇を手探りで探る中で、雲間からそっと一筋の光が差し込むように。


 この声が、この手が導いてくれる。ーー何度でも!


 カチリと、歯車の噛み合うような音がした。

 冬枯れの地に春風が吹き込むように、五感の一つ一つが蘇る。


 蛍光灯の光、粉塵、血の臭い。

 貧血に歪む視界。身体に鉛でも巻き付けているような倦怠感。ハウリングのような耳鳴り。

 袖を引く感触、縋り付くような視線、譫言。


 藻掻いても藻掻いても這い上がれない谷の底に、一本のロープが投げ渡されたように。




「俺には、理由が必要なんだよ」

「如何して?」

「解らないよ」




 遺影に映る両親が、顔を腫らした兄が、息を切らした友人が、頭の中に津波のように押し寄せて流れ出す。


 理由、なんて。




「でも、解らないままでいいんだ」




 和輝の作る飯を食べて、霖雨の下らない愚痴を聞いて、ーーただいまと言えば、おかえりと返って来るような、当たり前の毎日を大切だと思うから。

 この胸が押し潰されるような息苦しさの訳を、教えてくれるのなら、それはきっと、彼等しかいないと思うから。




「こいつ等が、教えてくれる」




 きっと、翡翠には理解出来ない。

 他の誰に否定されても、許されなくても、何を言われても、揺らぐ必要は無い。それでいいよと言ってくれる人が、此処にいるから。


 夜が明けるまで、歩き続けたんだ。

 闇が怖くないのは、君のお蔭なんだよ。

 ずっと、待っていてくれたから。

 探してくれたから。


 袖を引く微かな指先の力に、葵は希望を見付けたような気がした。









 羅針盤

 ⑷君が信じた








 額から後頭部まで鉄の箍で締め付けられているかのような激痛に、和輝の意識は勢いよく引き戻された。

 凄まじい濁流を遡るようにして、意識が現実へと繋ぎ留められる。人が死の瞬間に見るという走馬灯が、古いアルバムを開くみたいにそっと蘇った。


 あいつは人殺しだ。

 そう言ったのは、グレンだったように思う。


 けれど、それを聞いた時、被害者よりもまず、彼の安否が気に掛かった。

 彼は快楽殺人者ではない。望んで人を殺している訳じゃない。だから、何か理由があったのだと思った。

 彼が母国でサイコパスの診断を下されたのだと知った時、誤診だと確信していた。

 けれど、確証の無いことは口にするべきではない。自分は専門家ではないから、あくまでも友人の立場から感情論で訴え掛けるしかなかった。


 葵の閉ざした扉は強固で、ノックなんて容易いものではびくともしなかった。取手すら存在しないそれは、最早、壁と同じだった。


 それでも、葵が、助けてくれと言うから。

 闇に沈み込んで消えてしまいそうな葵を、掬い上げる方法があると思うから。


 闇に震える君の手を取る為に、閉ざされた扉を叩き続けたんだ。

 全ての爪が剥がれ落ちても、この手が血に染まっても、何度でも。


 何時か開かれると信じて、叩き続けたんだよ。君がこの手を取ってくれると信じたんだ。




「助けるさ、何度だって」




 掠れた視界の向こうに、葵の横顔が見えた。

 何かを覚悟した悲壮な顔付きだった。和輝は、折れた指先でも構わず力を込めた。

 傷が痺れるように痛んだ。最早正常な感覚機能を果たしているとは思えなかったが、此処で何もせずに蹲っているくらいなら、指先なんて千切れて無くなった方がマシだった。


 助けを求めている人を目の前にして、黙って通過するような人間にはなりたくない。


 粉塵の奥で、緑柱玉の瞳が射抜くように此方を睨んでいた。




「神木葵は、サイコパスだよ」




 翡翠が断言しても、葵は眉一つ動かさなかった。そんなことは知っているとばかりに冷たい目をしている。


 和輝は、唇を噛み締めた。砂漠のように乾きひび割れた其処は、微かに血の味がした。

 胸の内に苦く広がる淀んだ空気を吐き出すつもりで、和輝は口を開く。

 此処で、答えなければならなかった。

 裁判員の如く見下ろす彼等の前で、ただ一つの答えを選ぶように、言葉を紡ぎ出す。




「葵は、サイコパスではないよ。ーーPTSDなんだ」




 ぐるりと葵が首を回し、霖雨は転げ落ちんばかりに目を見開いた。

 有り得ない第三の選択肢を提示されたかのように、彼等は言葉を失っていた。だが、和輝に撤回する気は微塵も無かった。


 PTSDーー心的外傷後ストレス障害。

 命の安全が脅かされるような強い精神的衝撃を受けることが原因で起こるストレス障害だ。


 不眠や不安などの超覚醒症状、フラッシュバック、トラウマの原因に関連するものに対する回避傾向。


 葵が人を殺すのは、兄が殺されたことに起因する回避傾向だ。刃を振り翳す人間がいると、殺さなければならないという衝動に駆られる。精神機能は強いショック状態に陥り、パニックを引き起こす。


 それは生命維持の為の脊髄反射のように行われるので、葵には知覚出来ない。如何して人を殺すのか、解らない筈だ。PTSDを発症した患者は、それを認知しないことが多い。


 自分の為に兄が死んで、葵はショック状態に陥り、感情が麻痺してしまった。それを見た周囲の大人が、冷酷で他者に共感しないサイコパスであると診断した。兄を殺した殺人鬼と同類だと、謂れのないレッテルを貼ったのだ。


 そのレッテルが葵を追い詰めて、PTSDを発症させた。


 この可能性に、和輝は気付いていた。

 何が正しかったと思う、と葵は幾度と無く訊いた。これは後悔の表れだ。助けを求める声だった。


 周囲の人間は、声なき声で葵を糾弾した。

 其処にいるのが、二十歳にも満たない少年であるということも忘れて、社会が葵を犯罪者にした。


 もっと早く、誰か一人でも助けてやれば、彼が手を汚すことなんて無かった筈だ。

 葵の周りには、その傷に気付く人間がいなかった。表面上の冷静さと言葉に惑わされて、誰もが本質を見失った。


 こんな現実にいたら、どんな人間だっておかしくなる。

 和輝も、嘗てマスコミから苛烈なバッシングを受け、心無い人間からの嫌がらせによって、社会生活に支障を来す程に追い込まれた。あの時、矢面に立ってくれたのは、父であり、兄であり、親友であり、仲間だった。

 自分は恵まれていた。助けを求めた時に、その手を取ってくれる人が、何時も側にいてくれた。


 彼等は、言葉に出来ない苦痛を代わりに口にしてくれて、傷付いていたことを教えてくれた。自身を受け容れられなかった和輝の代わりに、彼等が肯定してくれた。


 今度は、自分の番だ。




「傷付いていたんだよ。ーーお前は、普通の人間なんだ」




 偏屈で、頭でっかちで、生活能力が無くて、引き篭もりでも。

 友達の為に、自分を犠牲に出来る優しい人間だ。


 葵は、まるで何を言われているのか解らないようだった。感情が乖離して、目の前の事象を自分のこととして受け止められないのだ。


 今の葵は、違法薬物の強い幻覚作用によって、過去と現実の区別が曖昧になっているだけだ。

 幻覚なら、和輝も見た。過去の傷跡を抉るような強烈な悪夢だ。それが過去だと乗り越えていなければ、今もあの悪夢に閉じ込められていたのだろう。


 頭の中がひび割れるように痛み、和輝は顔を顰めた。朦朧として、意識を保っていられない。暗闇で強烈な睡魔が手招きをしている。このまま眠ってしまいたいと、抗い難い欲求が意識の中で鬩ぎ合う。


 それでも、この手を離す気なんて毛頭無い。


 翡翠は訝しむように眉を寄せている。




「それが、お前の答え? 神木葵を守る為の方便?」

「俺の本心だよ」




 翡翠は、肩を落とした。

 その面には、溶けて消えてしまいそうな儚い笑みが浮かんでいた。




「コンティニューは、もう無いよ」

「ゲームクリア?」

「ーーいや、ゲームオーバーかな」




 でもね。

 霞む視界の向こう、翡翠が真っ直ぐに指を突き付けている。




「ヒーローの勇気に免じて、ボーナスタイムをあげる」




 翡翠の声は、風鈴の音のように耳元でそっと響いた。


 その瞬間、和輝の意識は大波に攫われるようにして、深い暗闇の底へ吸い込まれてしまった。

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