⑶舞台演者
それは、駄目なんだよ。
いけないことなんだ。
遠い昔、誰かが言った。
それが誰だったのかなんて、もう思い出せない。けれど、血を吐くような必死な声だけは忘れることも出来ず、胸の中に楔の如く突き刺さっていた。
如何して?
朝靄の掛かったような世界で、自分は問い掛けた。理由を知りたかった。本当に、解らなかったから。
ぼやけた視界には、顔の無い影が映っていた。それが誰なのか知っている筈なのに、如何しても思い出せなかった。
海藻が揺れるように影が動いた。自分は反射的に防御の姿勢を取った。身を守る為には刃を握り、戦うしかないと知っていたから。
だが、影は決して拳を振り上げはしなかった。視線を合わせるようにして屈み込んだ。
その双眸は奇妙な虹彩の色をしていた。
澄んだ湖畔のような静謐さと、燃え盛る紅蓮の焔を閉じ込めた不可思議な輝きだった。そのまま吸い込まれてしまうような、自分の内面を見透かしているような透明感の中で、影が言った。
ーーだからだよ。
声はハウリングのような耳鳴りの中に溶けてしまった。聞き取れなかったけれど、何か答えを導き出して提示した。
納得した訳ではなかった。それは理路整然とした正答ではなかったから、到底理解出来なかった。
けれど、それでもいいかと思った。
あの時、何と言っていたのだろう。モノクロでもなく、フルカラーでもなく、セピアでもない、銀色の声が砂嵐みたいに包み込む。
その言葉を、信じてみたいと思った。確証なんて無くても、その言葉だけで生きて行けると思った。
光の届かない深海のような記憶の奥底に沈み込むあの言葉を、もう一度だけ聞きたかった。
あの答えを、今もずっと、探している。
羅針盤
⑶舞台演者
ランプの消えた手術室の前で、霖雨は処刑を待つ罪人のように項垂れていた。
扉は開かれない。人には届かない鋼鉄の扉には、無数の赤い筋が走っていた。
無力感で、死にたくなる。
目に見えない何かが足元からじわじわと侵食するように、追い詰められて、息も出来ない。このまま蹲っていても、嘆いていても、何も変わらないことは解っていた。それでも、何も出来ない。
その時だった。
背後から鼓膜を破裂させるような爆音が轟いた。
霖雨は予期出来なかった爆風に吹き飛ばされ、張り付けにされたみたいに両開き扉へ叩き付けられた。
凄まじい熱の爆風と衝撃に霖雨は一瞬、意識を失った。身体が粉々に千切られてしまったのではないかと思った。
何が起きたのか理解出来なかった。
自分は何時も建物の崩落に巻き込まれている。現実から乖離した思考の端で、バイクを建物外に駐輪したことに安心していた。
もうもうと立ち込める粉塵の中、霖雨は俯せのままに身を起こす。振り返った先、薄っすらと影が浮かび上がった。
まるで、アスファルトに滲む陽炎のように。追い掛けても追い掛けても届かない逃げ水のように。
顔の見えない何かが粉塵の向こうにいる。この錯覚を、知っている。
見えない糸に導かれるように、霖雨はその名を呼んでいた。
「葵」
透明人間が、其処に立っていた。
感情の無い人形みたいな冷たい目だった。其処に霖雨は映っていない。黒曜石みたいな瞳には、ランプの消えた手術室だけが映っている。
得体の知れない冷たい恐怖が背筋を走った。まるで、猛獣の檻に投じられた憐れな生贄のような心地だった。
脊髄反射のように、霖雨は素早く起き上がって、透明人間の前を立ち塞いでいた。
彼をこの場所へ連れて来てはならない。そう直感した。
葵は、伽藍堂みたいな胡乱な眼差しを霖雨へ向けた。
彼は自分を認識していない。葵は、過去の亡霊に取り憑かれている。
感情の無い冷たい声が、錐のように突き刺さる。
「お前は、誰だ」
葵の手がポケットへ伸びる。其処から取り出されるものが何か、霖雨は解っていた。
人は殺害という行為を、科学技術で遠ざけて来た。素手より刃を、刃より銃を、銃より爆弾を。
今や、人命はスイッチ一つで失われる。これまで素手での殺害を行って来た葵が、目的の為により効率的な手段を選ぶとするなら、可能性は一つしかなかった。
透明人間の手には、闇の色をした鉄の塊が握られていた。スイッチ一つで人を殺す凶器ーー拳銃だ。
霖雨は背中の鞄に押し込んだ拳銃を思い出す。自衛の為ならば、引き金を引く覚悟もあった。譲れない目的があるのならば、それは容易なことだった。
葵の過去に、霖雨はいない。彼の世界に霖雨は存在しないのだ。そして、ヒーローの人格は上書きされてしまった。
この扉の奥にいるのは、葵にとっては失った兄なのだ。彼を救う為ならば、葵は何だってやるだろう。
それを阻む者がいるのならば、葵は殺しても構わないと思っている。
葵の思考が、霖雨には、解る。
自分も嘗て、過去に取り憑かれていた。
「お前が見ているのは、過去なんだよ」
透明人間は、無表情だった。
霖雨は続ける言葉を探した。過去に囚われた彼を救う方法が、解らなかった。夜の海で一本の針を探すようなその行為が、果たして正解なのかも解らない。
お前の兄は、死んだんだよ。
その言葉が、如何しても霖雨には吐き出せなかった。
葵の世界は冷たく厳しい。彼にとって価値のあるものは少ない。この現実へ戻って来ることが、葵にとって幸せなのか解らない。
けれど、この扉の向こうにいるのは、葵の兄ではない。
もう二度と、葵に悲劇を繰り返して欲しくない。
賽の河原の如く地獄を反芻する葵が、これ以上転落することのないように。
其処から救い出すことは出来なくても、転落を止めることは出来るかも知れない。
何もかもを救うことは出来なくても、目の前の一つくらいならば、届くかも知れない。足掻け、諦めるな、信じろ。ーー何度でも!
「帰って来い!」
霖雨が叫ぶと同時に、背後で扉の開く音がした。
軋みながら開かれる様がスローモーションに見えた。霖雨の意識は其方へ引っ張られた。
その瞬間、破裂音が響き渡った。
葵の指先は反射的に力が込められ、血飛沫が幻のように舞った。
糸の切れた人形のように、何かが粉塵に塗れた床へ落下する。霖雨は悲鳴を上げていた。
「和輝!」
頭から血を被ったみたいに真っ赤になったヒーローが、床へ崩れ落ちる。霖雨は反射的に手を伸ばした。
その後ろで、緑柱玉の瞳が光ったことも解らなかった。
葵の向けていた銃口からは硝煙が立ち昇っていた。その面は死人のように血の気を失っている。
かちりと音を立てて、霖雨の現実感は失われた。
葵の手から拳銃が転がり落ちた。
硬質な音が遠く、まるで蝉時雨の如く木霊した。
「終演だよ」
時の止まった世界でただ一人、翡翠だけが召使のように恭しく頭を下げた。物語の終わりを告げる語り部は、床に倒れたヒーローを路傍の石の如く踏み付けた。
リノリウムの床に血の池が広がって行く。止め処無く流れ出すそれは人の干渉出来ない時間の経過のようだった。現実感の無い虚構のような世界だ。ーーこれは悲劇だ。
幕を引くのは、舞台演者の役目だった。
葵は呆然と立ち尽くし、霖雨も言葉を失った。地に伏すヒーローは身動き一つせず、翡翠は拍手を待ち侘びている。
霖雨は手を伸ばした。指先は、ぼろ切れみたいなヒーローの掌へ触れた。
氷のように冷たい掌は、奇妙な方向へ歪んでいる。指先の爪は全て剥がされ、杭のように針が突き刺さっていた。
凄惨な傷跡に、霖雨は言葉を失くし、呼吸すら忘れてしまった。
翡翠に悪意は無いのだろう。
彼は悪意を持たず、人を玩具みたいに弄ぶ。敵意の無い相手を此処まで暴行出来る。
葵は過去の亡霊に取り憑かれて、虚構の世界を生きている。けれど、翡翠は自分の築き上げた虚構の世界を演じているのだ。他者の命や矜持なんて考慮しない。
この男は、人ではない。
如何して、こんなに酷いことが出来るのだ!
知的好奇心を満たす為に、どんな非道なことも厭わない。この男には良心の呵責なんて微塵も無いのだ。
和輝は人を救おうとしていた。そんな彼が此処まで傷付けられ、ーー殺されなければならなかった理由とは何だ。
臓腑を焼くような激しい怒りが全身に広がって行った。それが火柱の如く迸る刹那、透明人間の怒号が爆発した。
「殺してやる!!」
獲物に飛び掛かるように、葵が床を蹴った。
生暖かい風が頬を撫で、葵の掌が獲物へ狙いを定めて伸びる。
霖雨は手を伸ばした。指先は空気を掻いた。
翡翠は殺意を迎え入れるようにして動かない。抵抗の様子も無かった。けれど、その時。
「駄目だよ」
声が。
闇を切り裂く朝日のように。
「それは、駄目なんだよ」
諭すように、語り聞かせるように、夜明けを告げる鐘の音のように、掠れる声が聞こえた。
現実感の消えた世界は、焦点が合うようにして回帰する。翡翠は、理解の及ばないことに不快感を露わにし、眉を寄せていた。
ヒーローの手折られた指先が、楔を打ち込むようにして透明人間を捕まえていた。髪が逆立つような怒りが、急速に凪いで行く。
葵は殺意に染まった手を伸ばしたままの奇妙な姿勢で、ぽつりと言った。
兄ちゃん。
置いて行かれた迷子みたいな、か細い声だった。
透明人間の目にはヒーローが映っている。けれど、それは和輝ではない。この世にいない兄の幻影なのだ。それが如何しようもなく虚しかった。
翡翠の書いた筋書き通りに、透明人間はヒーローを殺した。脚本家は礼をして、退場する。
消えたスポットライトの下で、拍手の代わりに微かな息遣いが聞こえる。過去と現実の相違点。透明人間を繋ぎ留める最後の希望。
舌打ちを一つ零した翡翠の手には、血に塗れた刃があった。
緑柱玉の瞳は、ヒーローへと狙いを定めている。その首を切り落とそうと、刃が振り上げられる。
過去と現実が入れ替わる音がする。何が現実なのか、霖雨にも解らなくなってしまった。これは葵の悪夢の続きなのか、それとも、悲劇の結末なのか。
拳銃を拾い上げた葵の指先に、力が込められる。
翡翠の書いたエンドロールが、見えたような気がした。
和輝の言葉も行為も、全て死者に上書きされている。何度手を伸ばしても、何度その扉を叩いても、葵の目に映るのは、過去の亡霊なのだ。
「もう……、嫌なんだ……」
絞り出すように掠れた和輝の声に、胸が締め付けられるように痛くなる。
起き上がれない和輝の肩には、葵の銃弾による穴が空いていた。凝固しない血液がだらだらと流れ出し、その命は今にも消えてしまいそうだった。ーーだが、生きている。
葵の手にあった拳銃が、火を吹いた。
放たれた銃弾は、一直線に翡翠の掌を撃ち抜いた。弾かれた刃が鋭い音を立てて床を勢いよく滑って行った。
葵は、留めを刺そうと拳銃を構える。翡翠は撃ち抜かれた掌の痛みを堪えるように大粒の汗を落としながら、薄っすらと笑みを浮かべている。
過去の亡霊に取り憑かれた葵が銃を握ったこと、死にそうな和輝がそれでも手を伸ばしたこと、負傷しながらも翡翠が銃口の前で笑っていること。ーーもう、全部解ってしまった。
霖雨は、銃口の前に躍り出た。
「もう、止めろ!」
鼻の奥がつんと痛くなって、眼窩から熱の塊が零れ落ちそうだった。胸が締め付けられて、酷く息苦しい。
葵が銃を握った理由、此処に立つ意味、過去の亡霊に取り憑かれている原因。糸が繋がるようにして、霖雨は理解してしまった。
過去と現実の交差する不明確な世界で、霖雨は葵の見て来た悪夢を断片的に体感した。
常に最悪の事態を想定して、最善の選択をした。それでも、結果は付随しなかった。この賽の河原の如く繰り返される悪夢から救い出す方法があるとするのなら、それは一つしかなかった。
生きているんだよ。
葵のヒーローは、生きているよ。
どうか、その意味を理解して欲しい。流星へ祈りを込めるように、霖雨は血塗れで手を伸ばす和輝を支えた。
身体は弛緩し、意識も無いようだった。手足は冷たく、固く閉ざされた瞼は開閉される様子も無い。
それでも、譫言のように繰り返されるこの声が、葵を現実へ繋ぎ留める。
何が正しかったと思う?
声にはせず、けれど、確かに葵が訊いた。
答えは無かった。既に和輝の意識は無くなり、少しだけ開かれた口から零れ落ちるのは、微かな息遣いだけだった。