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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
羅針盤
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⑵希望を紡ぐ

 世界は紅く染まっていた。

 まるで、血のような夕焼けだった。


 緩やかに流れる川のせせらぎと蝉時雨。何処か懐かしい匂いが、身体を膜のように包み込む。


 和輝は踏み締めた芝生を見下ろして、しゃがみ込んだ。何時かも、こうして座り、夕日を反射する美しい水面を見ていたような気がする。

 頬を撫でる風は涼やかで、夜の匂いがした。

 もうじき、日が暮れる。この世界は終わるのだ。誰に言われなくとも、和輝は理解していた。


 背後で芝生を踏む足音が聞こえた。

 振り向いた先にいたのは、兄だった。


 メジャーリーグで活躍している筈の兄の姿は、幼かった。五歳くらいだろうか。それでも、見間違う筈も無い兄の面影に、和輝は疑問すら抱かなかった。


 高い鼻梁や長い睫毛が、頬に影を落とす。前髪に薄く隠された双眸には、星を鏤めたような鋭光が宿り、遠くをじっと見詰めている。

 声を掛けることは、出来なかった。




「もうすぐ、夜が来るよ」




 前を見据えたまま、兄が言った。

 独り言なのかも知れない。和輝は何か言葉を返そうとして、口を噤んだ。

 口を開いてはいけない。兄の視界に入ってはいけない。何故か、そんな風に思った。


 一陣の風が吹き抜けて、芝生を静かに揺らして行った。街の地平線に沈む夕日の断末魔が聞こえるような気がした。


 糸が途切れるように、鋭い光を残して夕日が沈んで行く。やがて夜が来た。

 隣にいた兄は何かを思い立ったように踵を返し、颯爽と歩き去って行った。振り返らないことも、立ち止まらないことも解っていた。追い掛けようとは思わなかった。追い掛けてはならないと思った。


 入れ違うようにして、また誰かがやって来た。今度は高校生くらいの少女だった。

 それが誰なのか、和輝は知っていた。




「また、此処に来たの?」




 ことり、と小首を傾げて、少女は困ったように笑った。


 少女は隣に腰を下ろした。

 川を隔てた街は異国のように遠くに見えた。空には満天の星が輝いて、水面が鏡のように映し出す。まるで、重力から解放された宇宙空間にいるみたいだった。


 少女が、歌うように問い掛けた。

 それは言葉遊びを楽しむ無邪気さを滲ませながら、刃の鋭さで和輝へと突き刺さる。




「後悔してるの?」




 和輝は、首を振った。

 少女は短く相槌を打った。ーーその途端、少女の首がぐにゃりと曲がり、額から真っ赤な血液が零れ落ちた。


 如何して?

 少女が、言った。




「私は死んでしまったのに?」




 少女ーー水崎亜矢は、和輝の高校時代のチームメイトだった。野球部員を探していた当時高校一年生の和輝が、偶々、マネージャーへと勧誘した。

 彼女は、父親からの酷い虐待を受けていた。幼い頃から続く地獄の日々で、亜矢は和輝へ助けを求めた。


 和輝は、彼女の伸ばした手を取った、つもりだった。

 しかし、あの夏の夜。彼女はビルから投身自殺した。和輝は或る事件に巻き込まれて、彼女が最期に電話を掛けた時、昏睡状態だった。

 目を覚ました時、彼女はもうこの世にはいなかった。残されたのは、日常生活もままならない不自由な身体と、夥しい数の不在着信。真実を知る者は何処にもいなかった。


 お前は悪くないよ、と皆が言った。

 じゃあ、誰が悪かったの?

 如何してあの子は死んでしまったの?

 その手を掴んでいたのに?


 誰があの子を殺したの?


 和輝は、拳を握った。口を開けば、みっともない弱音が溢れてしまいそうだった。




「如何して、助けてくれなかったの?」




 助けたかったよ。

 助けた、つもりだったんだ。

 そんなことを言いそうになり、口を噤む。


 これは弱音で、言い訳だ。事実は残った。自分は助けを求める彼女を救えなかった。


 ぽたぽたと、血液が芝生へ吸い込まれて行く。彼女の華奢な脚は明後日の方向へ曲がり、目を覆いたくなる程の激しい裂傷と殴打の痕が、悪夢みたいに全身を覆っている。




「此処が何処か解る?」




 和輝は、こっくりと頷いた。


 目の前を流れる川も、遠くに見える街並みも、青い芝生も知っている。此処は故郷の風景だ。幼い頃からこの場所で野球をして、友達と出逢って、夢を追い掛けた。仲間と決裂して、再起不能の怪我を負った事件に巻き込まれて、膝を抱えた。


 そして、これは。




「これは、弱い俺の妄想だ」




 幼い頃のように、和輝は膝を抱えた。


 振り返らない兄も、死んでしまった彼女も、昇華出来なかった自分の傷痕だ。頭では終わったことだと理解しているのに、精神は何時までも過去に囚われている。


 こんな弱い自分が嫌いだ。この場所にいると、弱かった頃の自分を何時までも戒めたくなる。だから、血を吐くように願うのだ。強くなりたい、と。




「私は貴方の心に残る傷なの。抜けることの無い楔。貴方がどれだけ理想を実現しても、付いて回る過去の影」




 ああ、その通りだ。

 海を渡っても、前を向いて生きようとしても、如何しても胸の中に引っ掛かる。過去は必ず未来に復讐する。そして、過去は変えられないのだ。




「もう、諦めたら? 膝を着いて、投げ出してしまえば? そうしたら、楽になれるよ?」

「うん」




 瞼が重かった。このまま眠ってしまえば、楽になれると解っていた。


 それでも。




「それでも、諦めたくないんだ。君の分まで、生きたいから」




 この子の為に何が出来るだろう。

 生きたかった筈のこの子の為に、自分が出来ることは何だろう。

 振り返らない兄も、死んでしまった彼女も、此処で膝を抱えている自分も、全部全部、救ってやりたいのだ。その為に何が出来る?




「俺はね、決めたんだよ。もう、選んだんだよ」




 和輝は顔を上げた。

 辺りは闇に包まれていた。懐かしい母国の風景は消え去り、過去の亡霊だけが自分を覗き込んでいる。


 亜矢の姿が滲んで見えた。

 淀んだ水が澄んで行くみたいに、ぼんやりとした視界が鮮明になって行く。




「下らない茶番は止めろ。悪趣味だ」




 和輝が言い放った瞬間、過去の亡霊は三日月のように口角を吊り上げて嗤った。緑柱玉の瞳がきらりと光る。


 和輝は、その名を呼んだ。




「翡翠」




 それが魔法の言葉みたいに、幻影は溶けて行った。


 過去の亡霊ーー翡翠は、少しだけ驚いたみたいに目を丸めていた。

 闇に沈んでいた辺りが仄かに照らし出される。焦点の定まらない視界の奥に、無影灯が眩しく光っていた。




「おはよう」




 無影灯を遮るようにして、翡翠が此方を覗き込んでいた。

 耳元で金属の触れ合う音がする。四肢は拘束され、身動き一つ出来ない。身体中の痛みと倦怠感から、此処が妄想ではなく現実だと理解した。


 夢から覚めたのだ。

 途端、和輝は堪え難い身体の激しい痛みを思い出して呻き声を漏らした。


 この場所に来て、どのくらいの時間が経ったのだろう。


 何かを投薬されたような気もするけれど、記憶が曖昧だ。何時から夢を見ていたのだろう。




「夢を見ていた?」




 語り掛けるような穏やかさで、翡翠が言った。和輝は何かを答えようとして、言葉が何も形成されないことに気付いた。

 喉の奥から出るのは、絞り出すような嗚咽だけだった。




「コンティニューするかい?」




 頭を金槌でがつんと殴られたような衝撃に、和輝は意識が朦朧とした。

 夢と現実が点滅するように激しく入れ替わる音がする。


 何かを言わなければ、と思うのに、言葉は全て耳元で聞こえた金属の擦り合わされるような生理的に不快な音に消えてしまった。








 羅針盤

 ⑵希望を紡ぐ








 やめて、もう、やめて。

 絞り出すように訴えた制止の言葉は、全て悲鳴に呑み込まれてしまった。


 指先から始まった苦痛はやがて内部へ移動を始めた。

 剥がされた爪、折られた指、真っ赤な鉄の棒が皮膚を焦がして行く。

 身体の中心からじわじわと裏返されて行くような恐ろしい激痛に、和輝はこのまま消えてしまいたいとさえ願った。

 四肢を拘束するベルトは肉に深く食い込んで、最早何も感じることが出来なかった。時間の経過など何処か遠くに霞み、一瞬が永遠にも感じられた。


 ぽたりぽたりと水滴が額へ落下する。その度に、脳が少しずつ死んで行くような気がした。堪え難い苦痛と恐怖が全身を包み込む。

 小さな刺激さえも、脳幹に杭が突き刺されるかのような強烈な痛みへと変わった。和輝は狂ったように悲鳴を上げて続け、やがて声は嗄れて空気の抜ける奇妙な音だけが残った。


 この苦痛から逃れる術を探し、和輝は死ぬ以外のことを考えられなくなっていた。誰でも良いから、どんな手段でも構わないから、解放して欲しい。誰か、自分を殺してくれ。


 けれど、声は出ない。

 刺激を与えられる度に、身体は丘に上げられた魚のようにびくびくと痙攣した。


 地獄の底から響くような重低音が木霊する。

 何かのひしゃげる耳障りな音がした。それが自分の骨の折れる音だとは、すぐに解らなかった。




「死にたい?」




 質問の意図が解らなかった。

 和輝は応答の手段を持たず、ただただ痛みに打ち震えていた。


 死にたい?

 声は水音に反響して、何処かへ転がり落ちて行く。


 助けて。

 和輝は、声にならない声で必死に訴えた。しかし、質問者は口角を吊り上げて、皮肉っぽく嗤っていた。




「まだ、駄目だよ」




 まだ、と言った。

 じゃあ、何時かは解放されるのだろうか。誰かが助けてくれるのだろうか。

 この永遠のような苦痛の中から、助けてくれる何かが、やって来るのか。

 それは、何時?

 何時になったら、救ってくれるの?

 誰が如何やって?


 このまま意識を手放してしまいたい。

 瞼が鉛のように重く、熱かった。それでも、意識の喪失すら許さない永続的な痛みに縛り付けられて、狂ってしまうことも出来ない。


 助けてくれ。

 誰か、誰か助けて。


 その時だった。




「和輝! 此処にいるのか!」




 重低音に掻き消されそうな声が、まるで闇を切り裂く朝日のように感じられた。

 螺旋階段を降る思考が、急ブレーキを掛けられたみたいに停止した。


 扉を叩く音がする。

 誰かが此処に迎えに来た。


 絶望に膝を着きそうになる度に、何処かから希望の光が顔を出す。失っても、失っても、希望はある。だから、諦めたらいけない。


 これ以上の地獄なんてないと思う度に、何処かから救いの手が差し伸ばされる。

 パンドラの匣に残されたのは、希望の光だったという。人はどんな逆境にも必ず希望を見付けて、前へ進もうとする。それこそが人の罪の証で、背負うべき業なのだ。


 死にたい?

 死にたくは、ない。生きたいと思う。身体中を蝕む激痛が死への誘いならば、助けを求める自分はきっと、生きたいのだろう。


 種族や宗教、思想の違いを超越した何かが自分を操っている。変性意識状態だ。自分は何かに洗脳されている?


 こういう感覚に陥ることが、稀にある。

 和輝は、自分が自分で無くなるような感覚を持ったことがあった。それまでの情報が全て遮断されて、目の前の一つしか見えなくなる。これを、ランナーズハイと呼んでいた。


 ぼやっとした意識の中で、何故か言葉がつらつらと零れ落ちる。


 誰かの言葉だったのかも知れない。ただの引用だったのかも知れない。それでも、何かが錨のように、流れ出す意識を繋ぎ留める。


 焦点の定まらない視界で、和輝は喘ぐように答えた。




「生きたい」




 音の方向を睨んでいた翡翠が、はっとしたように和輝を見た。

 ぼやっとした視界の中で、緑柱玉の瞳は訝しむように細められる。


 知覚したと同時に、無影灯の眩むような光が網膜を焼いた。緑柱玉の瞳は覗き込むようにして、光を遮る。




「如何して?」




 如何して?

 そんなの、解らないよ。生きたいと思うことに、理由なんているものか。


 影ーー翡翠は、不思議そうに目を丸めていた。




「人は適応する生き物だ。だが、それは自然界だけに限った話で、自然界外の刺激には抵抗を示す」




 頭上の装置を指差して、翡翠が言った。




「お前の額に設置されているのは、正気を失わせる為の機械なんだよ」




 額に落ちる水滴の意味など、和輝には解らない。それが学術的な人体実験だとしても、人道を外れた悪魔の所業だとしても、其処に意味など見出せない。




「お前は欲求を押し留めるものは理性だと言ったね。じゃあ、その理性が無くなった時、人は何を判断の基準にすると思う?」




 何を?

 人は抗い難い欲求の中で生きている。それでも、人は孤独では生きられない。だからこそ、その衝動を理性で雁字搦めにして、法律というルールの檻の中で生きて行くのだ。


 理性が無くなった時、人は衝動に支配されて誰かを傷付ける。それを否定するつもりは無い。だけど、それだけでは、虚しいじゃないか。

 何かを疑って、自分すら信じられなくなって、何もかもを諦めて生きるなんて、虚しいだろう。


 人として生まれたのだ。思考を放棄して家畜のように生きるには、犠牲にするものが多過ぎる。この心理作用の元になるものがあるのならば、それは一つしか無かった。


 何を、だなんて。




「心だよ」




 この数年間、ずっと何かに取り憑かれていたように思う。ずっと何かになりたくて、触れたくて、我武者羅に手を伸ばして生きて来た。

 それが具体的にどんなものなのかなんて知らなかった。だって、見たことも、出会ったこともなかった。


 それでも、背中を焼くような焦燥感に駆られて、必死に働いて、消費されて行く毎日の中で押し潰される心が辛くて、逃げ出したいと願いながらも、足を止める勇気もなかった。


 ただ、俺は、ヒーローになりたかった。

 助けを求める誰かを救う、正義の味方に。


 頭の上から真っ直ぐに突き刺さり、揺らぐことを許さない意思を他に何と呼べばいい?


 意地も矜持も殴り捨てて、結局最後に残るのは、そんな幼稚な願いだけだ。でも、俺にとっては、それが全てなんだよ。


 翡翠は溜息を一つ吐き出した。

 耳元で金属の触れ合う音が聞こえる。そして、微睡む視界には鋭く光る医療用のメスが翳された。




「コンテニューは、もう無いよ」




 成る程、残機はもう、無いらしい。

 これが最後だ。ーーけれど、それが救いとは思えなかった。


 終わることは簡単だ。続ける難しさを知っている。だけど、続きを進む恐怖の中で、得られる喜びも、痛い程に知っている。




「俺は諦めないよ」




 例え、抵抗の手段が一つも無くて、誰一人味方をしてくれなくても。

 世界中から非難されても、それでも、誰かを救えるヒーローになりたい。


 誰かの、ヒーローに。

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