⑴絶叫
Only the gentle are ever really strong.
(優しさこそ、本当の強さだ)
James Dean
霖雨には、ヒーローの消失への対抗手段が一つだけあった。それは、FBI捜査官の黒薙や、自己犠牲主義の和輝には知られる訳にはいかない裏社会に通じる情報のパイプだった。
携帯電話に残された一つの番号を呼び出す。
もう二度と連絡することも無いと思っていたが、人生は何があるのか解らないものだ。
発信。
呼び出し音が鳴り響く中、霖雨は自宅に誰もいないことを確かめた。和輝や葵の消えた家の中は、死んだようにひっそりと静まり返っている。
窓の向こうはもう夕暮れだった。
春先の夜風は冬のように冷たい。新芽を蓄えた常緑高木の枝先が、何かに怯えるようにして震えている。空には鉛色の雲が立ち込めて、今にも雨が降り出しそうだった。
ぶつりと、電話の繋がる音がした。其処で霖雨の意識は窓の外からスピーカーへと向けられた。
通話相手は、寝起きのような低い声で応答した。
『久しぶりだねえ』
社交辞令の挨拶に意味なんて無いのだろうが、霖雨は胸の内でつい反論したくなった。
久しぶりも何も、二度と連絡を取るつもりは無かったよ。
答えずにいると、電話の向こうで、欠伸を噛み殺す声がした。
霖雨の掌には意図せず力が篭った。スピーカーから零れ落ちる声を一つでも聞き逃すまいと意識を集中し、ーー彼の名を呼んだ。
「近江さん」
名を呼ばれた近江は、唸るように肯定した。
彼は、母国を中心に活躍する殺し屋だった。最速のヒットマン、ハヤブサと呼ばれる母国の英雄らしい。その肩書きに見合わず、彼自身は非常にフランクで、未だに霖雨は信じられない。
近江と知り合ったのは、夏の夜だったように思う。帰宅を急ぐ霖雨が、路地裏で血塗れになって倒れていた近江を拾ったのだ。
そして、瀕死の重傷だった近江を警察には届けずに介抱したのが、和輝だった。
その為か、近江は恩義を感じたらしく、和輝の危機には助けてくれた。
並行世界で和輝が危険に晒された時、協力してくれたのは、この殺し屋だった。
和輝は、想像も出来ない程、身の丈に合わないトラブルに巻き込まれていた。そして、並行世界で彼が命を落とした時、霖雨には何が起きていたのか全く解らなかった。その時に、裏社会に通じる彼に相談したのだ。
近江は、霖雨は疎か葵すら知らなかった事実を簡単に調べ上げ、教えてくれた。そして、銃口を向けられた和輝を寸でのところで救ってくれたのだ。ーー狙撃という手段で。
こんなこと、和輝は知らないだろう。
自分を救う為に誰かがその手を血で汚しただなんて、許せない筈だ。ましてや、彼を救う為に二百名近い人間を死なせたなんて、理解も出来ないだろう。
霖雨は、それを後悔はしていない。
全てを救う事が出来ない以上、取捨選択は必要だった。
そして、現在。
和輝や葵が犯罪に巻き込まれて姿を消して、何の痕跡も見付からないとなれば、彼を頼る以外の方法は無かった。
問題なのは、霖雨には殺し屋の要求する報酬を支払う方法が無いということだ。命を救ったという恩ならば、既に返されている。
対価として何を要求されるのか怖いが、出来ることは全てやるべきだ。
現在の状況をどのように伝えるべきなのか霖雨が言葉を探していると、近江が明るい声で言った。
『おたくのヒーロー、誘拐されたみたいだねえ』
如何して知っているのだろう。否、既に捜索届けが提出されている。その情報を得る事は、裏社会で生きる近江にとっては、息をするように容易いことだったのかも知れない。
「一週間くらい前に、突然、いなくなったんだ」
『突然なんて有り得ない。予兆はあったのに、君が気付かなかったんだよ』
「……そうかも知れない」
『いいかい、幸運の女神は前髪しかないんだ。次なんて考えている人間に、チャンスはやって来ないんだよ』
近江の言っていることは正論ではあるが、見当外れでもある。霖雨は立場も忘れて、苛々した。
説教をされる為に電話を掛けたのではない。
「あんたの仕事観に興味は無い。何か知っているなら、教えて欲しい」
『見返りは? 等価交換はこの世の原則だよ』
「俺に出来ることなら、何でも」
『君に出来ることで、俺に価値のあることなんてあるの?』
ぐうの音も出ない。
霖雨が押し黙ると、近江は軽快に笑った。
『おたくのヒーローに仕掛けられた発信機の最終履歴は、都心部の駅だね。妨害電波のせいで反応が消えたんだ』
「妨害電波?」
『そう。そして、妨害電波の先を探ると、或る公共施設に行き着く』
電話の向こうで、キーボードを叩く凄まじい音がする。淀みなく話し続ける近江の声とは別に、話し声が聞こえるので、協力者がいるのかも知れない。
『妨害電波を発信しているのは、この公共施設にいる何者かだ。妨害電波の特殊性から考えると、特的の個人を狙ったものと解る。ヒーローも此処にいるんじゃないかな』
今、地図を送ったよ。
停滞していた状況が、目まぐるしい速度で展開して行く。余りにも呆気無い。蛇の道は蛇というが、霖雨は付いて行けずに眩暈すら覚えた。
こんなことなら、初めから彼を頼れば良かった。
だが、問題は別にある。この世の原則が等価交換ならば、霖雨は情報に見合う対価を支払わなければならない。ただより高いものは無いのだ。近江の行為は理解不能だった。
「何で、此処までしてくれるんですか?」
近江には何の利益も無い筈だ。
殺し屋というシビアな裏社会で生きる彼が、ただ働きなんてするのだろうか。
近江は沈黙した。何かを考えているようだった。
『霖雨君は、正義って何だと思う?』
「ーー多数派の利益?」
『全体主義はナチズムの再来だよ。民衆は流され易いからね』
零しそうになった舌打ちを呑み込んで、霖雨は問い返した。
「じゃあ、貴方にとって正義って何ですか?」
『誰かの為に何かをしようとする意思だよ』
近江はあっさりと答えた。だが、なんて曖昧な答えだろう。
霖雨は溢れそうになる溜息を呑み込んだ。
しかし、近江は笑っていた。
『俺の持論だよ。自己利益の為に他者を犠牲にする俺みたいな殺し屋が悪ならば、相対的にヒーローの生き方は善となるだろう?』
何だかややこしい上に、面倒臭くなってしまった。殺し屋の信念なんて知りたくもない。
「和輝のことを言っているんですか? あいつは自己実現の為に他人を巻き込む自己中ですよ」
霖雨が言うと、近江は一層可笑しそうに笑った。電話の向こうで、第三者の訝しむような声がする。
何が面白いのか解らないが、近江は楽しそうだった。
『俺はヒーローのファンだからね。その正義のヒーローが、悪者を救おうとして窮地に陥っている時に、御鉢が回って来るなんて光栄じゃないか』
近江の言葉は、まるで他人事だ。
事実、他人事なのだけど、知り合いの命が危険に晒されているという状況では余りにも不謹慎ではないか。
しかも、近江の言う悪者とは、葵のことだ。
彼は、葵が母国でサイコパスの診断を下されたことを知っているのだろう。殺し屋の近江だって、他人の命を金に換えるサイコパスだ。
近江に比べれば、罪の意識のある葵の方が余程、常識的じゃないか。
葵は判断基準に和輝を据えることが多いけれど、比べる相手が間違っているのだ。会った時には、指摘してやろう。
『悪いけど、俺は今、其方にいないんだ。このくらいしか出来ないから、後は自分で何とかしてくれ』
「充分です。ーーと言いたいところなんですが、敵の正体が解らない。俺に如何にか出来るんでしょうか?」
『出来るか如何かじゃない。やるか、やらないかだ』
幸運を祈る。
殺し屋には見合わない挨拶を最後に、通話は切れた。霖雨は携帯電話をぼんやりと見詰めながら、近江の言葉から此処にいないヒーローを思い出していた。
和輝は、勝てる見込みの無い勝負も何度だって挑み続けた。霖雨にはその意味が解らなかった。けれど、今になって、痛感する。
勝てるか如何かは、勝負しない理由にならないのだ。
百回負けても、百一回目は勝てるかも知れない。そう信じて挑み続けることのなんと難しいことだろう。
俺はヒーローのファンだからね。
剽軽な殺し屋の声が蘇って、霖雨は肩を落とした。
そうだね、俺もファンになりそうだ。
厄介な事、この上無いけれど。
羅針盤
⑴絶叫
近江から地図の添付されたメールが届いていた。都心部の公共施設と聞いて、どんな所だろうと構えていたが、地図を見て驚いた。霖雨も行ったことのある場所だった。
これは何の偶然なのだろうか。
信じられず、何度も確認を繰り返した。だが、その度に香坂の声が聞こえる気がした。
全ての不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる。
全ては繋がっていたのかも知れない。
自分が、その予兆に気付かなかっただけだ。
情報を伝える為に黒薙へ電話を掛けたが、繋がらなかった。留守電にメッセージを残して、霖雨は家を出た。
何が起きているのか杳として知れないが、物騒な事が起きているのは解る。和輝のように丸腰で敵地に臨む度胸は無いが、武器を所持して脅威に備えるのも恐ろしい。
鞄には財布と家の鍵、そして、護身用に拳銃を入れた。この拳銃を握らないで済む事を祈るしか無い。
ポケットにはバイクの鍵と携帯電話。敵地に臨むには軽装過ぎるだろうか。こういう時に何を用意したら良いのか、霖雨には解らなかった。
防弾ジョッキなんて持っている筈も無いので、気休めにグレーのダウンコートを着た。衣替えして棚の奥にしまって置いたので、少し草臥れている。
玄関先に停めていたバイクに跨る。
周囲は既に暗く、夜になっていた。
ホラー映画を見る時、演者は殆ど夜に行動する。如何して朝になるまで待たないのか、常々不思議だった。しかし、現在の自分の立場を鑑みると、少しは共感出来る。
此処まで後手に回って来たのだ。これ以上、出遅れる訳にはいかない。
目的地は決まっていた。
都心部の公共施設ーー。霖雨は、葵を連れて二度程訪れたことがあった。もう二度と行くまいと思っていたのに、熟、人生とは何があるのか解らない。
場所はそう遠くなかった。交通量の多い週末の道路を走り抜け、目的の公共施設まで一時間も掛からない。灯台下暗しだ。
地上六階建てのビルは、カフェやコンビニ等のテナントの他に、会議室としてフロアを一般開放している。この建物のホールや会議室で、霖雨は葵と共に或る男の講演会に参加した。
聞いている時には、違和感を覚えなかった。
ただ、葵だけは理解出来ないというように眉を寄せていた。
後日、男の思想に異議を唱えた和輝が刺され掛けるという事態にならなければ、霖雨は未だに此処へ来ていたかも知れない。
心理評論家、Sven=Svenssonという男は、カリスマ性を持った善人に見えた。少なくとも、彼を否定する根拠を霖雨は持たなかった。
彼の教えは、光を唯一の神として崇める宗教の色を帯びていた。しかし、彼自身はそれを強制はせず、盲信した信者が暴走し掛けていた。
和輝を誘拐したのは、ほぼ間違いなく、翡翠だ。その翡翠を追って辿り着いたのがSven=Svenssonとなると、自分達は何処から彼の掌で踊らされていたのだろうか。
建物の駐輪場には、バイクを停めなかった。これまでの経験上、突入した先の建物は崩壊する。巻き込まれて廃車になるのは、御免だ。
建物の開放時間は過ぎている。けれど、入り口の自動ドアは、霖雨が立つと導くように開いた。センサーが反応したのか、廊下の明かりがぽつぽつと点灯する。
こっちだよ、と呼んでいるみたいに。
薄暗いエントランスから、案内図を見る。エレベーターは動かなかった。階段を利用するしか無い。
地上六階の建物を虱潰しに探していたのでは、朝になってしまう。何か手掛かりは無いのだろうかと案内図を睨んでいると、閉ざされた非常階段の扉の奥から、足音が聞こえた。
咄嗟に影に隠れた。
足音は、下へと降りて行った。
如何やら、地下があるらしい。
足音が去ったことを確認し、霖雨は警戒しながら非常階段へ向かった。
コンクリートの打ちっ放しの壁は、酷い圧迫感だった。地下へ続く扉には、関係者以外の立ち入りを禁止する札が貼られている。
霖雨は鞄を背負い直し、扉を開けた。
足音を殺し、用心しながら階段を下りる。
黒薙からの折り返しの電話は無い。やがて携帯電話の電波が途切れた。都心部で電波が無くなるなんてことが、あるのだろうか。それだけで、勘繰ってしまう。
地下三階。最低限の明かりだけが灯る薄暗い空間で、霖雨の息は自然と上がっていた。
鞄の中には拳銃がある。身を守る術がある。けれど、それをお守りにしようとは思えなかった。
扉を開け押し開けると、長い回廊が続いていた。まるで、迷路みたいだ。
文句を言う相手も見付からない。霖雨は生唾を飲み込んで、先を急いだ。
回廊は想像していたよりも遥かに長く、地下通路として何処か異なる場所へ続いているような気がした。微かに聞こえる擦過音から、地下鉄の線路が近いのかも知れないと思った。
長い回廊を抜けて、灰色の扉に行き当たる。
鍵は掛かっていない。来客を予測していたのだろうか。
この先にいるのが翡翠ならば、彼が待っているのは自分ではなく、透明人間だ。一週間近く拉致されている和輝の安否が気に掛かる。死んでいるとは思わないが、無事とも思えない。
冷たい鉄の扉を開ける。空気圧の為なのか、物理的なものなのか、扉は重かった。
扉の先、リノリウムの床が現れた。薄暗い回廊で、非常灯が不気味に光る。この場所を、霖雨は知っている。
病院だ。
リノリウムの廊下の先に、閉ざされた両開きの扉があった。上部には赤いランプが灯されている。ーー手術中。
手術?
その瞬間、全身から血の気が引くのが解った。指先は氷のように冷たくなり、現実感の喪失から視界が白く滲んだ。
手術って、何の手術だ。
この部屋の中にいるのは、誰だ。
ランプは消えない。
ちかちかと点滅する視界に、足元が覚束ない。酷く寒い。揺れる意識の中、霖雨は懸命に足を動かした。目の前にある筈の扉が、やけに遠く感じられた。
扉は閉ざされている。
ランプは消えない。
扉の向こうから、微かな金属の触れ合う音と、聞き覚えのある声が聞こえた。
呻き声だ。
磨り潰されたような悲鳴が、聞こえる。声にならない声が、まるで見えない誰かへ助けを求めるように。
霖雨の両手はきつく握り締められた。そして、扉の奥にいるだろう人物の名前を叫んで叩き付けられた。
「ーー和輝!!」
拳が扉を叩く音が反響した。
「和輝! 此処にいるのか!」
喧しく扉を叩き続けるけれど、開かれる気配は、無い。
それどころか。
ががががががががが ががががががががが。
ががががががががが ががががががががが。
ががががががががが ががががががががが。
耳を塞ぎたくなる嫌な轟音が鳴り響いて。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いやめてやめてやめてやめてやめてやめてもうやめてーーあああああああああああああああああああああああああああッ!」
鈍器で殴られたような衝撃に、霖雨の意識は一瞬、遠退いた。けれど、常軌を逸した悲鳴を前に、意識はすぐに回帰した。
「和輝! 和輝! 和輝ーッ!」
狂ったような悲鳴と制止を訴える絶叫。縋るように扉を叩く拳の出血にも気付かず、霖雨は叫び続けた。
扉は、開かない。
この手も、この声も、届かない。
最悪の事態は、想定した方がいい。
黒薙の忠告が、遠くで聞こえた気がした。
ランプが消えたのは、その時だった。