⑷虚構、或いは箱庭
霖雨はバイクを走らせていた。夜の街は生活の光に照らされている。そして、明るさに堪え切れなかった星々は天空へと放逐されてしまった。
サイドミラーを確認する。後方に車はいない。道を急ぐ為に車線変更しようとして、後部座席の香坂と目が合った。
香坂はヘルメットのシールド越しに、社交辞令みたいに会釈した。
あの公園で黒薙と別れ、取り残された霖雨は如何するべきか悩んだ。結局、立ち話も何だから、とよく解らない誘い文句で自宅へ誘った。香坂は苦笑いして、それを受け入れた。
バイクは静かな街を駆け抜けて、見慣れた自宅へ到着した。FBI捜査官を後部座席に乗せていたので、法定速度を守って安全運転をしていた。和輝や葵がいたら、臆病者と馬鹿にされたかも知れない。
自宅は出て来た時のまま、沈黙を守っている。扉を開けても出迎える者は無く、微かに漂うカレーの匂いが酷く虚しい。
三人で食卓を囲む予定だった。
自分の他愛の無い話を、和輝が嬉しそうに聞いて、葵はテレビを見ながら憎まれ口を叩く。そんな日常が、今は遠い昔のように感じられた。
カレーは、食べ切れなかった。
腐らせる前に、捨ててしまった。冷凍しても良かったけれど、解凍する時、彼等がいないのではないかと思うと、恐ろしかった。
玄関を抜けて、リビングに明かりを点ける。
無人の室内は、出た時と変わらない。
此処には誰も帰って来ていない。
「良い家だね」
香坂が、言った。
霖雨は肩を竦めた。
「家具や壁紙は葵が選んだ」
「うん、良いセンスだ。利便性を考えながら、ちょっとした色使いでオリジナリティを表現している」
香坂はキッチンカウンターに置かれた卓上カレンダーを見た。丁度、和輝の帰国の予定が記されていた。あの頃には、まさかこんな事件に巻き込まれるだなんて思っていなかった。
香坂をソファへ促して、霖雨はキッチンへ入った。豆を挽く気力も無かったので、インスタントコーヒーを淹れた。
インスタントは手抜きだと葵が文句を言うので、余り使わない。二人分のコーヒーを淹れたら、瓶は空になってしまった。
二人分のコーヒーを持ってリビングへ戻る。
香坂は物珍しそうに辺りを見ていたが、霖雨が戻ると小さく礼を言った。
コーヒーを渡した霖雨は、香坂から少し距離を置いて座った。
室内が肌寒かったので、暖房を点ける。和輝ならブランケットでも放り投げて、黙ってエアコンを消すだろう。
香坂がコーヒーを口を付けたのを見計らって、霖雨は苦笑して言った。
「薄いでしょ」
「いや、これに比べたら、署のアメリカンは水みたいなものだよ」
葵なら、和輝の淹れたコーヒーと比べて水みたいだと文句を言っただろう。
霖雨は同居人のコーヒーを思い出しながら、薄いインスタントコーヒーを啜った。
「君は、葵の過去を知っている?」
「直接聞いたことはありませんが、大体は知っています」
香坂は手の中のマグカップを揺らしながら、立ち昇る柔らかな湯気を見ていた。
「神木家は代々警官の家系だった。両親も当然、警官だ。だが、彼等は、葵が小学生の頃に殉職した」
「確か年の離れた兄がいましたよね」
「ああ。俺の、同僚だった」
遠い昔を思い出すように、香坂が言った。
「ぶっきら棒で仏頂面で無愛想。口や態度は悪いが、仕事の出来る奴だった。あいつを慕う奴も多かったし、俺も信頼していた」
「そうですか……」
「兄弟仲は良好に見えた。時々、喧嘩で加減を忘れて葵をぶっ飛ばして、病院送りにしていたけどな。それでも、お互いに信頼してしるようだった。葵が入院することになれば、どんなに遅くなってもチーズケーキを持って見舞いに行く。それが、あいつなりの謝罪だった」
不器用な兄だ。だが、弟の葵を気遣っていたことは解る。
和輝は時々、葵にチーズケーキを焼いてやっていた。それが好物だと知っていたからだ。
「葵も強情だから、謝りはしない。代わりに、兄の好きなカレーを作って待っているんだそうだ。兄ーー蓮は、チーズケーキを持って帰る。それが、二人の仲直り」
慎ましくも温かい二人の生活が目に浮かぶようだった。霖雨の口元は自然と解けていた。
香坂はコーヒーを一口飲み下すと、切り替えるような低い声で続けた。
「葵は昔から存在感が希薄で、すぐ側にいても知覚されない透明人間だった。だが、その反動なのか、サイコパスと呼ばれる異常者に執着されることが多かった」
「ええ」
「葵一人で躱すこともあったし、蓮がぶん殴って刑務所送りにしたこともあった。大抵はそれで済んでいた。ーーだが、葵が中学生の頃、如何しても回避出来ない一人の異常者と出会った」
この話を、霖雨は知っている。
葵に執着したストーカーは、日々過激化して、生活を脅かすようになった。其処で、葵はそのストーカーを、一人で殺すことにした。
「葵は、自分の身や兄を守る為に、一人でストーカーを殺そうとした。だが、それを蓮に見付かって、二人は殴り合いの大喧嘩。近所から通報があったくらいだ」
霖雨は、殴り合いの喧嘩なんてしたことが無い。葵は冷静そうに見えて、気性が荒い。兄譲りなのかも知れない。
「その翌日、蓮は弟を守る為に、巡回経路を勝手に変更した。弟を狙うストーカーの元へ、一人で向かったんだ」
この先を、知っている。
霖雨はぎゅっと目を閉じた。香坂は構わずに、続けた。
「ストーカーと交戦し、蓮は殺された。最期の抵抗に犯人の脛に噛み付いたらしいが、正直、無駄な抵抗だった。それでも、弟のところへ行かせまいと必死だったんだろう」
兄は、弟を守ろうとした。
弟も、兄を守ろうとした。
手段は違えど、二人は互いの為に最善を尽くそうとした。
けれど、結末は最悪だった。
「ストーカーは逮捕されたよ。家からは葵の隠し撮り写真が大量に発見された。警官を残虐な手口で殺して、反省の様子も無い。死刑は免れない」
「でも、脱獄したんでしょう?」
「そう。獄中でも葵への執着は薄れることなく、凶暴な感情は日増しに大きくなった。そして、仲間の力を借りて脱獄。今度は葵の通う大学を襲撃し、立て篭もり事件を起こし、何人もの人間が無残に殺された」
自分なら、堪えられない。
霖雨は無意識の内に両手に力を込めていた。マグカップの中で、コーヒーが波を打っていた。
「葵は犯人の元へ出向いて、殺そうとした。或る意味、当然だな。だが、それを止めてくれた友達がいたらしい。結局、葵は殺人を犯すことも無く、ストーカーは逮捕され、滞り無く死刑は執行された」
そう。全てはもう、過去なのだ。
決着は着いている。
「母国であんな事件に巻き込まれても、葵は平然としていた。犯人を殺そうとさえしたのに、その気配は微塵も見られない。それが精神科医の診察に引っ掛かって、葵はサイコパスという診断を受けた」
「そんな!」
「葵は罪を犯してはいない。正当防衛だ。だが、国は、葵を危険人物と見做して、精神病棟に入れて管理下へ置こうとした。そして、葵は逃げるようにこの地へ来た」
だから、葵には身分証の類が無い。
正体を知られたら、牢獄に入れられるからだ。葵は何の罪も犯していないのに。
「葵を止めてくれた友人がいた。彼は飛行機で、葵を追い掛けてこの地まで来た」
「でも、到着と同時に機体は爆発して、乗員乗客誰一人助からなかったって」
葵は、何も出来なかった。燃え盛る炎の前で、悶え苦しむ友人を見ていることしか出来なかったのだ。
それが、葵の傷なのだろうか。
だが、春先に葵は和輝を連れて、犠牲者を悼む石碑の元へ向かい、墓参りをした。その時に、過去には決別したのではないのだろうか。
「葵は何も語りはしない。当然、誰かを巻き込むつもりなんて無かっただろう。ーー蜂谷君さえ、いなければ」
そうだ。
和輝は、その扉を叩き続けたのだ。
其処は寒いだろう。出て来いよ。大丈夫。お前がどんな人間でも構わないから。
それでいいよと、受け入れたのだ。
そして、扉は開かれた。
葵の小さな世界が少しだけ広がった。
「如何して、葵が人を殺すのか解るかい?」
「あいつは、如何して人を殺してはいけないのか解らないと言っていましたよ」
「あいつの周りに価値のある人間はいなかったからね」
霖雨は、口を噤んだ。
葵の思考回路を理解することは難しいと思う。だが、目の前の香坂という男も、理解不能だ。
価値があるか、否か。それが人を殺す基準になると思っているのだろうか。
此処に和輝がいたら、感情論をぶつけていただろう。生憎、霖雨は和輝ではないので、黙っていた。
「人々は、平和は与えられるものだと信じている。だが、実際は違う。平和とは勝ち取るものだ。脅威は通り雨のように突然降り注ぐ。葵は身を守る為に、脅威と闘ったんだ」
「正当防衛だから、許されると? 殺されても仕方が無かったと?」
「或る意味では、葵のした事は正義だ。だが、社会では悪とされるだけの話だ。社会も法も、葵を守ってはくれなかった。それなのに、如何して法を守らなければならないんだ?」
「警察官とは思えない言葉ですね」
「俺は、決めたんだよ。あいつがサイコパスの診断を下されて消えた時、何があっても葵の味方でいると」
霖雨は、黙った。此処で反論しても、彼の意思は変えられないと解っていた。
こんなものは、自己満足だ。其処に葵の人格は無い。
葵は弱音や泣き言を言わないし、言い訳もしない。弱り目も見せない。自分の行いの結果は全て背負う覚悟で生きている。
香坂の肯定は間違っていない。でも、正解でもない。綺麗な正論や許容なんて、葵は求めていなかった。過去の牢獄から、連れ出して欲しかった筈だ。
和輝が血塗れになってその扉を叩き続けたように、香坂にも向き合って欲しい。そう思うのは、自分のエゴなのだろうか。
その時、香坂の携帯電話が鳴った。
小さく詫びて、香坂はそれを取った。
短い応答の後、香坂は酷く真面目な顔をして言った。
「新たな被害者が出たぞ」
エアコンが低く唸る。それは何処か、夕立と落雷を秘めた黒雲の唸りに似ていた。
開かない扉
⑷虚構、或いは箱庭
殺されたのは、体格の良い麻薬の密売人だった。街から離れた港の倉庫群の片隅、コンテナの影で首の骨を折られて即死していたという。
発見者は、寂れた造船所の所員で、夜間の見回り中に倒れている被害者を見付けた。犯人と思われる人影は無く、物的証拠は何一つ残っていない。被害者の手には折り畳み式のナイフが握られていた。
麻薬の取り分で仲間割れでもしたのだろうというのが、地元警察の見立てだった。ただ、背後から一撃で殺す手慣れた犯行に疑問を呈し、事態を重く見て、一連の事件はFBIの管轄となった。
黒薙は犯罪行動分析課として出動となったらしい。それまでのように自由には動けないが、行方不明の葵や和輝のことを探してくれると言っていた。
一方で、香坂は署へ連れ戻された。身内が事件に関わっている場合、捜査には加われないのだ。
霖雨は一人取り残されて、やるべき事も見付けられず、無人の我が家に閉じ籠っていた。
相変わらず、和輝に取り付けた発信機は機能しないし、葵からの連絡も無い。共通の知人を当たってみたが、成果無し。
二人が消えて、自炊の大変さや、愚痴を聞いてくれる人の有り難さを痛感する。帰宅すれば明かりが点いていて、夕食が用意されている。少年みたいな笑顔と、不機嫌そうな仏頂面が揃って「おかえり」と言う。
つい最近まで当たり前だった光景が、今では遠い昔みたいに感じられた。
和輝と葵が消えて一週間。
誘拐だとしても、何の要求も無いこの状態から考えると人質の命は絶望的だった。それでも、彼等なら大丈夫だろうという根拠の無い願いだけが降り積もって行く。
二人がいなくなったと知って、グレンは地元の友達を総動員してローラー作戦を決行したらしい。
行き着けの喫茶店では似顔絵が飾られ、情報を集めてくれている。
ハリウッド女優のアイリーンも、マスメディアを騒がせない程度に周囲へ呼び掛けてくれている。
白崎匠や春馬は母国から、二人の足取りを追っている。
消えた彼等の為に、多くの人々が駆け回っている。その中で、霖雨だけが何も出来ずに引き篭もっていた。
家の掃除は欠かさない。彼等が帰って来た時に、荒れ果てた室内で出迎える訳にはいかなかったから。
洗濯物だって溜めない。一人分の洗濯物は、すぐに整頓された。
彼等が何時でも帰って来られるように。
先日届いた差出人不明の手紙は、証拠物件としてFBIに押収されてしまった。果たして、質量のある幽霊みたいな翡翠を、警察が捕縛出来るのだろうか。
和輝を拉致したのは、恐らく、翡翠だ。
誘拐を知った葵は、救出する為に家を飛び出した。だが、全ては翡翠の策略通りなのだろう。
和輝を探す葵は、翡翠の刺客に襲われた。
刃物を所持した大男を、背後から一瞬で首の骨を折って殺害した。同様の犯行が続いているということは、少なくとも、葵は生きているのだろう。
翡翠の目的は、葵に和輝を殺させることだ。
理由は、解らない。異常者の心理なんて理解したくもない。大体、和輝が易々と殺される筈が無い。葵だって、最後の希望と称する和輝を死なせはしないだろう。
ただ、何も出来ない自分の無力さが遣る瀬無いだけだ。
葵が如何して人を殺すのか解るかと、香坂に尋ねられたことを思い出す。そんなもの、解り切っている。身を守る為だ。殺さなければ、殺される。葵の生きて来た世界はそういう物騒な世界だった。
其処で、ふと違和感を覚えた。
何か、条件があるように思えたのだ。
霖雨がエイミーという女に拉致された時、葵が助けに来てくれた。だが、葵は彼女を殺そうとして、止めた。
一方で、見知らずの女が男に殺されそうになっていた時には、何の躊躇いも無くその首の骨を折って殺した。
何が違う。気紛れで手を緩める程にお人好しではない。何か条件がある筈だ。
エイミーの時は、確か、和輝が渡欧して不在だった。だが、間も無く帰国すると連絡が入っていたらしい。
一方で、男を殺した時、和輝はいなかった。現場実習で、一か月不在になっていた。
何故だ。何故、和輝の存在が其処まで影響する?
和輝がいれば、人を殺さない。和輝がいなければ、人を殺す。考えてみて、馬鹿らしくなる。だが、安易に無碍にも出来なかった。
葵は、和輝のことを最後の希望だと言っていた。希望は失われるものだと知っていたのだ。
如何して、最後の希望と呼ぶ?
最後ということは、前にもあったのだ。葵にとっての希望とは、何だったのだろう。
その時だった。
玄関から、鍵の落ちる音がした。霖雨は深い海の底から浮上するようにして、覚醒した。
覚束無い足取りで、玄関を目指す。
センサーが反応して、暖色の光が灯っていた。誰かが、帰って来た。
明かりに照らされる人間を見付けた時、霖雨は心臓が飛び出すかと思うくらい驚いた。
「葵!」
随分と、その名を呼んでいないような気がした。
人影ーー葵は、ゆるゆると面を上げた。
その頬は死人のように真っ白で、双眸は伽藍堂の如く虚無に染まっている。そして、冷たい眼差しは、まるで、他人を見るようだった。
「お前、誰?」
がつんと、鈍器で殴られたかのような衝撃に襲われた。
葵は、こんな冗談を言わない。
返す言葉が見付からず、霖雨は息切れを起こしていた。
葵は能面みたいな無表情だった。
「何で、此処にいる」
「何でって、何を言ってるんだよ……」
たったの一週間だ。
少し顔を見ない間に、忘れてしまったというのか?
「お前が、犯人か?」
葵が何を言っているのか、解らない。
警戒態勢を解かない葵は、全身から針を出すようにして威嚇している。
犯人?
何の犯人だ?
和輝の誘拐のことか?
その犯人なら、葵が誰より知っている筈だ。
「和輝は、如何したんだ」
ぐらぐらと目が眩む中、喘ぐように霖雨は問い掛けた。
けれど、葵は一層顔を顰めた。
「誰だ?」
その瞬間、霖雨は立っていられなかった。
足元が音を立てて崩れ落ちるような錯覚に襲われ、壁に凭れ掛かった。
そして、霖雨が再び顔を上げた時、透明人間は何処にも見当たらなかった。