⑴犬も歩けば
Die Liebe ist immer eine Art Wahnsinn, mehr oder minder schön.
(恋とは常に一種の狂気なのだ)
Christian Johan Heinrich Heine
「ベッドの下かな」
ぼんやりとテレビを眺めていた霖雨が、唐突に言った。
彼が頬杖を突いたローテーブルには、ルーズリーフがばら撒かれたように散らばっている。どれも、蚯蚓ののたくったような汚い文字で埋め尽くされたり、ぐしゃぐしゃに丸められたりしていた。環境保護団体が見たら、眉を顰めるのではないだろうか。
欧州の医学部へ通信を利用して就学している和輝は、進級試験を前に狼狽していた。
脳の出来は悪くない。情報処理能力や判断力は常人のそれを凌駕する。そして、特筆すべきは集中力だ。周囲の情報を一切遮断し、呼吸すら忘れる程、目の前のことに没頭する。
ただ、残念なことにそれは持続しない。更に言うと、語学に疎いので、問題文を理解出来ない可能性があった。
無人島でのサバイバルならば、まず間違いなく生き残るだろう。だが、座学を基本とする人間社会ではベリーハードモードだ。
恒例のように葵は試験対策に駆り出され、辞書代わりに扱き使われている。
どうして学習しないのか、和輝は同じようなところで何度も躓くので非常に面倒臭い。
目の下に薄っすらと隈を作った和輝が、指先でシャープペンを弄びながら退屈そうに答えた。
「エロ本の隠し場所みたいだね」
側で聞いていた葵は、その低俗な返答にうんざりする。
しかし、自分の感想は世間一般のそれと異なることを自覚していたので、葵は黙っていた。
溜息を零した霖雨が、葵と同じようなうんざりとした顔で言った。
「じゃあ、お前ならどうするんだ」
問い掛けられ、和輝はテレビへ目を向けた。
濃褐色の虹彩は、テレビから発される光の三原色を反射して七色に輝いて見えた。透き通るような眼差しをしていながら、揺るぎない強さを滲ませていた。相変わらず、不思議な色合いをしている。
刳り貫いてみたいな。
彼等の議題とは遠いところで、葵は考えた。
視神経から切り離された眼球は、心理作用の中枢である脳の影響を受けない中で、どのような変化が起こるのだろうか。
想像の中、長い睫毛に彩られた瞼へカッターナイフを刺し込んでみる。手には程良い弾力が返って来て、動脈の真っ赤な血液が迸る。
眼球を傷付けないように留意しなければならない。硝子体や眼房水を零さぬように、眼窩に沿って肉を削ぎ落とすのだ。
水晶体を取り出して、太陽に透かしてみたい。それは聖母マリアの映るステンドグラスのように、さぞ美しいことだろう。
劣化するのは勿体無いからホルマリンにでも漬けておこう。片方は解剖して、もう一方はそのまま取っておかなくては。
だが、すぐに頭を切り替える。
いや、この感情は間違いだ。一般的ではない。
ともかく、彼等の話に耳を傾けよう。
世間一般の他愛のない世間話というものを、自分は知らない。研究対象を観察するような心地で、葵は耳を澄ませた。
変声期を抜け切らないボーイソプラノが、快活に答えた。
「俺ならベランダから飛び降りる」
なるほど。そういう選択肢もあるな。
納得して顔を上げると、霖雨は憐憫に満ちた目で和輝を見ていた。
おや、これも不正解なのか。
葵は口を挟まずに二人を観察する。
テレビには、巷で噂のサスペンスホラー映画が上映されている。
一人暮らしの女性の家に、何者かの侵入した形跡があった。薄暗い家の中を注意深く探索する女性は、猟奇的な殺人鬼と遭遇し、逃げ出した。出口は封鎖され、息を切らした女性は自室に籠った。場面は正に、追走する殺人鬼から逃れる為に、女性はクローゼットの中へ隠れたところだった。
部屋の扉を開ける音がして、殺人鬼の不気味な息遣いが近付く。冷や汗を滲ませながら、女性は殺人鬼が去り、誰かが救出してくれることを祈りながら身を震わせていた。
中々、臨場感がある。
殺人鬼は大振りのナイフを携えた大柄の男だった。戦闘になれば、丸腰の女性は敵わないだろう。
霖雨なら、ベッドの下に隠れるらしい。
和輝なら、ベランダから飛び降りるらしい。
果たして、正解はどちらなのだろうか。
答え合わせを待っていると、霖雨が言った。
「ベランダから飛び降りてぴんぴんしていられる程、人間は丈夫に出来ていない」
「でも、隠れたって逃げ場が無いじゃないか」
葵は手元の雑誌を捲りながら、それを聞いていた。
自分がか弱い丸腰の女性だったなら、霖雨と同じような行動をしただろう。だが、現実的に考えるなら、和輝のように逃走するべきだと思う。
「葵ならどうする?」
突然、問い掛けられたので、葵は答えを用意していなかった。自分が正解を選べる自信も無い。
だが、不正解だからと言って非難される謂れもない。
葵は、テレビの中の女性を自分に置き換えて、想像してみる。
隠れることも、逃げることも、その場凌ぎだ。根本的な解決には至らない。なら、方法は一つだ。
「ドアの後ろに隠れるかな」
「何で、ドア?」
「奇襲を仕掛け易い」
答えると、和輝が表情を明るくした。まるで、初めて文明に触れた原始人みたいだ。
まあ、原始人に会ったことはないのだけど。
自分の回答に幾らか安堵していると、これ見よがしに嫌そうな顔をした霖雨が言った。
「普通の人は、殺人鬼と交戦する戦闘力なんてないんだよ」
なるほど。
人間とは、自分が思うよりも弱く出来ているらしい。
迷宮の怪物
⑴犬も歩けば
試験の為に渡欧する和輝を見送って一週間。冬は益々厳しくなり、朝方には窓が真っ白に凍り付いていた。
冷凍庫のような部屋の中に暖房の風を入れ、そっと息を逃す。
冬は嫌いだ。だが、夏はもっと嫌いだった。
まだマシだと誰にともなく内心で言い訳をして、葵はリビングに繋がる扉を開けた。
L字型のソファには、霖雨が一人で座っていた。この一週間、見慣れた光景だった。
深い飴色のローテーブルには、朝食のベーグルと海藻のサラダが用意されていた。
葵の起床を知った霖雨が、年寄りのように小さな掛け声と共に立ち上がる。
「コーヒーは?」
「ブラックで」
キッチンへ入った霖雨が、まだ新しい電気ケトルに水を張り、スイッチを入れる。
葵はそのままソファへ座り、欠伸を噛み殺した。
あの小さな同居人がいないと、家の中は何となく閑散としている。強烈な存在感を持つヒーローがいなければ、この家はまるで死んでいるかのようだ。
以前、和輝が試験の為に渡欧した時には、国家を揺るがすような大事件に巻き込まれていた。彼を乗せた旅客機が空港より飛び立ち、目的地へ着陸するまで葵は気が抜けなかった。
無事にホテルへチェックインしたという報告を受け、其処で漸く葵と霖雨は胸を撫で下ろした。成人男性の同居人を気遣うというのは不気味だが、彼は前科があるので信用出来ない。
今頃、試験問題と睨めっこしているのだろう。問題文を読めずに焦る彼の顔が容易に想像出来て、自分が試験官だったなら嘲っていたことだろう。
ドリップしたコーヒーを霖雨が運んで来た。柔らかな湯気の立ち昇る二つのマグカップは、その外見が余りに対照的だ。
「お前のマグカップ、気持ち悪いな」
言うと、霖雨があからさまに嫌な顔をした。
言葉が悪かった。せめて、不気味ーーいや、変わっているね、と留めておくべきだった。
いずれにせよ、霖雨にどう思われても構わなかったので、葵は無視した。
何しろ、霖雨のマグカップは、殆ど湯飲みの形状をしている。抹茶色の湯飲みに、無理矢理取っ手を付けたようだった。凹凸のある表面には、毛筆で彼のファーストネームが記されている。
「兄が焼き物に凝っているみたいで、贈ってくれたんだ」
霖雨には双子の兄がいる。一度だけ会ったことがあるが、顔の造作や体格は瓜二つなのに、まるで光と影みたいに対照的だった。
産まれは同じでも、生きて来た道が違うのだろう。
葵は何の模様も無いシンプルなマグカップを受けった。まるで、タブラ・ラーサ(tabula rasa)だ。
安いインスタントのドリップコーヒーは、作り物みたいな陳腐な苦味を持っていた。香りも薄く、コーヒー風味の白湯みたいなものだ。
和輝の淹れるコーヒーの方が、万倍美味い。
そんなことを考えていると、顔に出ていたのか、霖雨が言った。
「美味いコーヒーが飲みたいなら、喫茶店にでも行けよ」
霖雨の指す喫茶店とは、和輝の前のアルバイト先だ。店主の淹れるコーヒーは確かに美味い。人生の酸いも甘いも知った深い味わいをしている。
「偶には家から出れば? 和輝はまだ帰って来ないし、何かあったら連絡するだろ」
何かあっても、海を隔てた異国の地にいる彼に何か出来る訳じゃない。
実際のところ、真昼間から家に閉じ籠っているのは勿体無い。
葵はブルーベリーのベーグルに噛り付き、今日の予定を考えた。
以前はアルバイトもしていたが、物騒な事件に巻き込まれたので辞めてしまった。収入源は主にFXで、金銭的に困窮はしていない。
学費も生活費も賄えているし、店子二人を抱え、家賃の支払いは滞っていないので、外に出て何かをする必要は無かった。
読書なら、家で出来る。物欲も無いし、友人もいない。結果、出掛ける理由が無いのだ。
そんな結論を出し掛けた時、霖雨が言った。
「今日はバルサンを焚くから、家にいられないぞ」
つい、舌打ちが漏れた。
まるで、自分を追い出す為の口実ではないか。俺は蜚蠊か?
満足そうにサラダを頬張っている霖雨を睨み、葵は溜息を零した。
朝食の後、霖雨はさっさと外出の為の支度を始めた。葵は部屋に閉じ籠っても良かったが、扉一枚隔てた先で殺虫剤が噴霧されていると思うと外出せざるを得なかった。
寒風の吹き荒ぶ外界に備え、葵は、オリーブ色のモッズコートを羽織った。
結局、揃って家を出る。
残っていたのが和輝だったなら、連れ回したり、付いて行ったりしても良かった。残っているのが霖雨だったので、葵は単独行動を決めた。
殺虫剤の噴霧が終わるのは夕方だ。その後は室内に掃除機を掛けなければならない。非常に面倒臭いので、全ての処置が完了してから帰宅することにした。
玄関先で霖雨と別れ、葵は駅前の喫茶店へ向かった。
霖雨の言う通りになるのは癪だったが、あのコーヒーの味が恋しいのも事実だった。和輝は店主の淹れるコーヒーに憧れ、今も鍛錬を積んでいる。同じ遣り方をしても味わいが異なるのは、経験の差なのだろうか。
それでも、葵は和輝の淹れるコーヒーが嫌いではない。気分によってころころと変わる味わいが、まるで人間の多様性を表しているように感じられるのだ。
目的地に到着し、硝子の扉を押し開ける。扉に設置されたベルの音に、店主や客が一斉に此方を向いた。だが、音を鳴らした侵入者の姿を見付けられず、一様に狐につままれたような奇妙な顔をした。
葵は黙って店内の端のカウンターチェアに座った。其処で漸く気が付いたらしい店主が、そっと会釈した。
注文した品が運ばれて来る。
真っ白なカップとソーサー、銀色のティースプーン。ポーションの類は必要無い。
カップは人肌に温められ、内部は闇の色をした液体に満たされている。
カフェインには中毒性がある。医療に携わるヒーローは警鐘を鳴らし、一日に四杯程度と決めている。
太陽が中天に差し掛かる前に、既に一日の半分の量を摂取することになる。ヒーローがいなければ、自分の生活習慣は最低だ。元々長生きしたいとは思わなかったから無頓着だった。
コーヒーを舐めるように啜っていると、何故だか、ころころと味わいの変わるコーヒーが恋しくなった。儘ならないものだ。
その時だった。
「How are you?」
鈴を転がしたような、綺麗な声がした。
それがまさか自分に向けられているとは思えず、葵は無視した。だが、声の主は葵の正面へ回って顔を覗き込んだ。
まず目に映ったのは、滑らかに波を打つブルネットの髪だった。陶器のように真っ白な顔には、作り物めいた美しい部品が完璧な位置で並べられている。
淡いグリーンのセーターに、真っ黒い前掛けをしている。カウンターの向こうで微笑む女性は従業員なのだろう。
見たことのない顔だったので、新人なのかもしれない。
葵は特に答えず、小さく会釈した。
愛想の悪い対応でも、彼女は気を悪くした風も無く柔らかに微笑んでいた。
彼女はすぐに、その場を立ち去った。ボックス席の客が手を上げて店員を呼んでいた。
三人組の若い男だった。締まりのない顔で鬱陶しく絡み、結局、ホットコーヒーを注文した。
背中を向けた彼女をぽーっと見詰め、残り香を堪能するように動かない。
正直、葵は人の美醜に興味が無い。生理的に受け付けない程に崩れているものは別として、葵の周囲の人間は平均値が多かった。
変質者を引き寄せる霖雨や、神様の依怙贔屓とばかりの和輝は例外だ。自分は男として不能なのではないかと思うくらい、女性に魅力を感じたことがない。
もしかしたら、ゲイなのかもしれない。
そんな考えが浮かんだので、興味本位でヒーローの姿を想像する。ーーそして、すぐにそれを打ち消した。
この想像は非生産的だ。パンドラの箱だ。考えないことにしよう。
女性はボックス席の三人組にコーヒーを運んでいた。その時、通路側に座った体格の良い男が何か声を掛けていた。
賞賛し、連絡先を聞こうとしている。だが、正直、いちゃもんを付けているようにしか聞こえない。
女性の困惑が手に取るように解る。
客は神様だと言うが、貧乏神や厄病神の類も多い。この程度の客をあしらえずに、接客業なんて出来ないだろう。
葵が知らん顔をしていると、店内に怒声が響き始めた。店主は溜息を一つ零して騒ぎの収束の為、カウンターから出て行った。
その時、男が拳をテーブルに叩き付けた。
ティースプーンを梃子に、作用点に位置していたカップが宙を舞った。漫画みたいだった。
重力の影響を受けたカップは弧を描き、やがてカウンターの上に落下した。
美しいカップは割れ、コーヒーが飛び散る。陶器の割れる音に悲鳴が上がり、店内は殺伐とした不穏な空気に包まれた。
こんな時、ヒーローならどうするのだろう。
自分の選択に自信が無いので、自分よりは一般的な回答に近いだろうヒーローの思考を想像する。
結果、葵は立ち上がった。
周囲の人間は騒ぎばかりを注視していたので、誰も気付かない。
男は顔を紅潮させ、興奮し早口に捲し立てている。葵は間に割って入り、ーー仲裁する間も無く、男の顔面に回し蹴りを叩き込んだ。
くぐもった呻き声を上げ、鼻血を吹き出した男の身体が後方へぐらりと傾く。そのまま崩れるように倒れ込んだ先が、元いた席だったので、丁度大人しく席に戻ったように見えて可笑しかった。
周囲の人間は、その時になって漸く葵を知覚したらしい。下世話な詮索が及ぶ前に、葵は退出するつもりだった。
店主は苦い顔をしながら、小さく礼を言った。女性は顔を蒼くして此方を見ていた。
ローズピンクの潤んだ唇を震わせ、女性が言った。
「Thank you」
「Don’t mention it」
そんなことより、折角の外出が台無しだ。
葵はコーヒー一杯分の代金をカウンターへ置き、店を出て行った。