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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
開かない扉
39/68

⑵警報

 和輝は、ぱちりと瞬いた。


 駅の雑踏の中に、言い知れぬ既視感を覚えた。それは気のせいとは思えない程に現実感を帯びて、何かに後ろ髪を引かれるような感覚に和輝は振り向いた。

 柔らかな色合いに染まった利用客が一斉に振り返り、やがて、何事も無かったかのように進んで行く。




「退いてくれ!」




 母国語で叫びながら、和輝は走り出した。

 人混みを掻き分け、強引に既視感の元へと駆け出した。擦れ違う人々は訝しむような視線を向けながら、やがて関心を失くして行った。


 他愛の無い他人の会話がBGMのように通り過ぎて行く。今日の夕飯、交際相手、芸能人のゴシップ記事。笑い合う他人の顔が、和輝には認識出来なくなっていた。


 全身に鳥肌が立ち、寒くて堪らない。頭の何処かで近付いてはならないと警報が鳴り響いている。それでも、和輝は吸い寄せられるように、真っ白な出で立ちの後ろ姿へと迫った。




「待て!」




 人の波に呑み込まれ、思うように前へ進めない。運動量とは反比例して、酷く息苦しい。すっかり息が上がってしまっていた。溺れる者が藁に縋るように、和輝は手を伸ばした。


 白亜の背中が振り返る。

 和輝には、それがコマ送りに見えた。


 真っ白なシャツと綿パンツ、スニーカー。まだ春先だというのに、夏を思わせる浅黒い肌。

 通った鼻梁、柳眉、切れ長な双眸には緑柱玉の瞳が行儀良く収まっている。

 和輝は喘ぐように、その名を呼んだ。




「ーー翡翠!!」




 白亜の青年ーー、翡翠は、口角を吊り上げて薄らと笑みを浮かべていた。

 白い回廊、赤い血飛沫、惨殺された人間、肉片、脳漿、怒号、悲鳴、嗚咽。全てがフラッシュバックの如く鮮明に脳裏に蘇る。地獄のような惨状を作り出した異常者は、あの日と同じように笑っている。

 彼が此処にいる筈が無いと解っているのに、意識は明瞭に彼を認識していた。


 再会を喜びはしない。

 彼は大量殺人犯だ。自分の知的好奇心を満たす為に無関係な病院関係者を惨殺し、葵や和輝を窮地に追い遣り、ついには殺そうとした。

 彼に、敵意や害意は微塵も無い。だから、和輝は彼の嘘を見抜けない。彼が刃を振り上げるその瞬間まで、和輝は殺意にすら気付けなかった。この世には、悪意の無い殺意がある。躊躇いも無く、息をするように人を殺すことの出来る人種がいる。


 自分と翡翠は違う人間だ。考え方や価値観の違いではない。人間性や倫理観とも違う。

 異なる生物であると、理解しなければならない。


 翡翠の口が開かれる。

 和輝が何かを言おうとするのを遮って、翡翠は幼子に語り聞かせるような柔らかな声で言った。




「コンティニューするかい?」




 りん、と何処かで風鈴の音が聞こえた気がした。


 アスファルトに浮かぶ陽炎のように、翡翠の姿が滲んで見えた。ぐにゃりと歪む視界の奥で、緑柱玉の瞳だけが確かな質量を持ってサーチライトの如く光っている。

 何かを言い返さなければならないと解っていたのに、水中にいるみたいに声が出なかった。せめてもの抵抗に伸ばした掌は、何も掴むことは無い。


 其処で、暗転。

 和輝の意識は途絶えてしまった。







 開かない扉

 ⑵警報







 アルタイル、ベガ、デネブ。夏の大三角形。

 十字架のような白鳥座を辿って、嘴には青と金に瞬く二重星のアルビレオがある。北天の宝石だ。くるくると回る二つの星は鮮やかなコントラストを放ちながら、太陽系からは六千億km以上も離れているという。


 部屋の中は宇宙空間のような静寂に包まれている。葵はそっと息を逃し、部屋の明かりを点けた。ーー途端、星の光は放逐されて、殺風景な室内が浮かび上がった。


 部屋の中央には、霖雨の作ったプラネタリウムの装置がある。見掛けはちゃちだが、狭い室内で起動すると中々に臨場感がある。大学院の課題で作ったというが、この装置が果たしてどれ程、彼の評価に貢献したのかは解らない。

 葵はそっと、装置の電源を落とした。


 暗幕の閉められた窓を開ける。

 外は夜の闇に包まれている。しかし、明る過ぎる町の光に追い出され、殆どの星は肉眼では観測出来なかった。


 今、目に見えている星は遠く離れていて、実際には既に消滅している可能性もある。此処から見えるのは、断末魔に似た残光なのかも知れない。どのくらいの生物が、星の悲鳴に気付くことが出来るのだろう。一等星でもない数多の星の一つが消えたところで、誰がそれを嘆き、悲しむというのか。

 星は生物ではない。人間のような共感能力等無い。化学反応によって発光し、因果律に従って消滅するだけなのだ。


 葵は自室の扉を開け放ち、リビングへ向かった。

 室内は夕刻にも関わらず明かりは灯されず、誰もいなかった。普段ならば、和輝が夕飯を用意している筈だった。霖雨はソファで寛いで、取り留めの無い会話を交わしている。何の生産性も無い言葉の応酬を、彼等は宝物みたいに大切にしていた。葵には、理解出来なかった。けれど、和輝の淹れるコーヒーを飲みながら、霖雨の下らない愚痴に耳を傾ける時間が、嫌いではなかった。


 誰かと食卓を囲むなんて、何時以来だろう。

 両親が死んで、兄が死んで、友人が死んで、次は誰だ。和輝や霖雨も何時か死ぬのだろうか。

 意外と悪運の強い奴等だから、死なないのだろうか。じゃあ、如何して皆は死んだのだろう。運だなんて不確定要素に縋るつもりは無い。


 キッチンも当然、無人だった。

 けれど、調理台の前に立つ和輝の姿が網膜に焼き付いていた。どうせ、その内に帰って来る。だが、今晩の夕食の下準備すらされていないというのが、奇妙だと思った。

 冷蔵庫を開けると、使い掛けの野菜がタッパーで小分けにされていた。よく見ると小さめのタッパーの中に小麦粉やカレー粉、スパイスの類が調整されて既に用意されていた。今夜はカレーらしい。


 葵は、調理台の下から俎板と鍋を取り出した。

 冷凍庫のブロック肉を解凍しながら、野菜を切り分ける。料理を作るのは随分と久しぶりで、包丁の柄の細さに戸惑う程だった。

 人参とじゃが芋、玉葱。食事は和輝に依存していたので、冷蔵庫に何が入っているのかもよく解らない。

 切り分けた玉葱をフライパンで炒め、鍋で湯を沸かす。下準備が整うまでに調理人が交代する予定だった。


 湯が沸騰した頃、玄関から物音が聞こえた。

 出迎えるつもりで覗くと、窶れた顔の霖雨がいた。

 惰性で「おかえり」と声を掛けると、疲れた声で「ただいま」と返って来る。霖雨は鞄と共にソファへ倒れ込んだ。

 これ見よがしな溜息を吐いて、霖雨が此方を見た。


 どうせ、下らない愚痴だ。

 葵は無視して、鍋へ視線を落とす。ぼこぼこと気泡を弾けさせる水面は、まるでモザイク硝子みたいだ。コンロの火を止めるが、調理人は帰って来なかった。


 キッチンまでやって来た霖雨が、幽霊でも見たみたいに言う。




「何の実験をしているんだ?」

「夕飯の準備だ」

「珍しいことがあるものだな」




 そう言って、霖雨は壁に凭れ掛かった。

 見物を決め込む彼には悪いが、流石にカレールーを手作りしたことは無かったので、それ以上の工程は進められなかった。




「カレー?」

「多分」

「何だよ、多分って」




 肩を竦めて、霖雨が笑った。




「今日、リビングで昼寝していただろう」

「お前だって、よく共用スペースを私物化しているだろう。文句を言われる筋合いは無い」

「別に文句を言っている訳じゃないよ。ただ、珍しいこともあるもんだなって思ったから」




 確かに、普段の自分ならば絶対に犯さない失態だった。何故だろう。

 深夜まで眠れなくて、疲れていて、天気が良くて、和輝の用意した朝食が何時もよりちょっと美味かった。

 自分の不毛な問い掛けに対して、ヒーローが馬鹿みたいに真摯な言葉を返してくれた。指の隙間から零れ落ちる砂を掬い取るみたいに、彼が受け入れてくれた。


 そうしたら、何故だか胸の奥が温かくなって、眠くなってしまった。眠っても構わないかと思った。


 起きた時には、既に和輝も霖雨もいなかった。何の予定も無い休日を、リビングで読書して終えてしまった。




「お前が気を許せる場所が一つでも増えたのなら、俺は嬉しいよ」




 霖雨がそんなことを言った。


 気を許せる場所。

 そんな場所、この世にあるのかな。虹の袂と同じだ。目に見えるけれど、辿り着けない場所。




「和輝は何処に行ったんだ?」

「知らない」




 葵がぶっきら棒に答えても、霖雨は気を悪くした風も無かった。

 ポケットから携帯電話を取り出して、電話を掛け始める。長い沈黙の間に、鍋の湯は沸点から随分と下がってしまった。


 電話を切って、霖雨が眉を寄せた。




「電源が入ってない」

「携帯電話嫌いだからな」

「持ち歩く意味が無いじゃないか」




 葵もまた、携帯電話を取り出した。

 携帯電話に依存しないヒーローは、度々行方不明になる。だから、彼に取り付けられた発信機の電波を傍受出来るようにした。

 和輝が持つ家の鍵には、趣味の悪いキーホルダーが付いている。母国にいるという彼の親友が、その身を案じて発信機を取り付けたのだ。本人は知らないようだったので、敢えて教える必要も無かった。


 携帯電話には『馬鹿の世話』というアプリが入っている。念の為に、霖雨の携帯電話にも登録して置いた。これが死に掛けた和輝を救ったこともあるのだから、安易に無碍にも出来ない。


 アプリを起動する。

 家の周辺の地図が表示された。青い点は自分だ。自宅にいる自分と霖雨だけが示されている。

 ターゲットである和輝の位置情報は、何処にも無かった。


 おかしいな、と思った。

 アプリの不具合の可能性もあるので、再起動してみるが、結果は変わらなかった。ヒーローは何処にもいない。

 表示範囲を広げてみるが、同じことだ。

 最後に通知された彼の情報は最寄駅で、其処から忽然と消え失せている。


 流石に不自然だと解る。

 葵は切り分けた野菜を再びタッパーへ戻した。




「何かに巻き込まれている可能性がある」

「故障じゃないの?」




 葵と同じくアプリを起動していたらしく、霖雨が安楽に言った。何時もなら、狼狽するのは霖雨の役目だった。




「発信機の電波は常に発信されている」

「電池切れとか」

「最悪の事態を考えた方が良い」

「逆境に燃える人間だから、大丈夫だろ」




 霖雨は何処までも呑気だ。

 その時、リビングのテーブルに幾つかの紙の束が見えた。ポストに投函されていただろう新聞とダイレクトメールを、帰宅した霖雨が持って来たのだ。

 安っぽい紙の中、真っ白な封筒が目を引いた。葵は吸い寄せられるようにして、その封筒を手に取った。


 宛名も差出人も消印も無い。

 悪戯にしては上等な紙を使っている。何が入っているのか、奇妙な厚みがあった。

 蝋で封をしたそれを引き裂いて、葵は中を取り出した。


 かつん、と微かな音を立てて何かが落ちた。

 霖雨がのろのろと拾う。葵は構わずに手紙へ目を落とした。


 何の変哲も無い真っ白なコピー用紙に、女性的な美しい文字が記されている。




 I'm waiting for you.




 その一文だけを記した手紙の下に、数枚の写真が入っていた。

 薄暗い闇の中、横たわる青年の後ろ姿。

 特徴も確信も無い。けれど、何故だか鼓動が高鳴って落ち着かない。

 最後の一枚は、左手首のアップだった。

 血の気の無い小さな掌。手首には無数の古傷がある。ーー葵は、この傷を見たことがあった。


 それだけじゃない。

 この手紙の文字も、遣り方も、知っている。

 霖雨が拾って見せた小指の爪程も無い薄緑の石を見て、葵は全てを理解した。


 I'm waiting for you.

 貴方を待っています。ーー誰を?


 この手紙の差出人を、葵は知っている。

 会ったことも、話したことも、殺そうとしたこともある。




「翡翠」




 霖雨の呟きと共に、葵は写真の束を取り落とした。テーブルに広がったヒーローの姿に、霖雨が息を呑む。

 拘束されている様子は無い。暴力を受けた形跡も無い。ただ、眠っているように見える。

 けれど、写真ではそれが生きているのか死んでいるのかさえ解らない。


 顳顬がじくりと、痛んだ。

 地表が揺れ動いたような気がして、葵は立っていられなかった。堪え切れずその場にしゃがみ込む。心臓が耳元にあるみたいに激しく拍動して、喉がからからに乾いていた。

 視界が点滅して、目が回る。

 霖雨が何かを言っているが、葵の脳には言葉として認識されなかった。


 フラッシュバックだ。


 瀕死の太陽と回転灯、野次馬の火照った頬と夥しい鮮血。

 黄色い規制線と押し寄せるマスメディア。整列したパトカーに制服警官。


 ーー俺は、カレーを作って待っていたんだ。

 帰って来るのを、待っていた。




「葵!」




 霖雨の声がして、それが合図みたいに葵は走り出していた。

 玄関を開け放つ。外は闇に包まれているのに、葵には夏の夕焼けみたいに見えた。

 今も此処に、ーーあいつが来るのではないかと。


 春の訪れと共に帰還したヒーローみたいに、彼が帰って来るのではないかと。


 ーー俺は、葵が辛いのが、嫌だ


 数時間前に聞いた筈の声が色褪せて、夜の闇に溶けてしまいそうだった。


 もう、二度と。

 もう二度と、独りにはなりたくない。

 置いて行かれるのも、目の前で失うのも嫌だ。


 葵は夜の街に飛び出した。背中に突き刺さる霖雨の制止は、届かなかった。

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