⑴PTSD
Which is worse? the wolf who cries before eating the lamb or the wolf who does not.
(仔羊を食らう前に泣く狼と、泣かない狼では、どちらがより残酷なのだろうか)
Leo Tolstoy
それは、駄目なんだよ。
いけないことなんだ。
諭すように、誰かが言った。何処かで聞いたことのある筈の声は、遠い蟬時雨の中に溶けて行く。視界は夏の日差しに白く霞み、追い縋るように伸ばした掌は空を掴んだ。
じっとりとした纏わり付くような夏の空気に包まれて、葵はついに、意識を手放した。
階段を踏み外したような転落感と共に、葵は覚醒した。瞼を押し開けた時、濃褐色の双眸が鏡のように自分の顔を映していた。
「悪い夢でも、見たかい?」
鮮やかな黄色のシャツを着た和輝が、自分を覗き込んでいる。背景に見慣れた天井が映って、此処が夢ではなく現実であることを理解した。
油の切れた機械みたいに、全身の関節がぎしぎしと軋んでいる。具合を確かめながら身を起こすが、外傷の類は一つも無かった。
朝陽に滲む視界の中で、黙って此方を見ている和輝の姿が鮮明に浮かび上がっている。
壁掛けの時計を仰ぎ見る。
時刻は正午を回り、太陽は中天に差し掛かっている。春の訪れと共に欧州より帰還した和輝が、何故だか眩しく見えて、葵は目を細めた。
「人を殺した」
「うん」
知ってる。
包み込むように、何かを諦めるように、和輝は柔らかに肯定した。
「間に合わなくて、ごめん」
和輝が、その首を差し出すように項垂れた。
葵には、解らなかった。
何故、何の関係も無い筈の彼が痛ましげに顔を顰めるのだろう。彼の手は真っ新で、咎められるべき罪等一つも無かった。彼は最善を尽くし、最悪の結末を回避した。そして、葵もまた、同じ筈だった。
何度同じ場面に出喰わそうと、葵は同じ選択をするだろう。身を守る為には、刃を振り上げる以外の選択肢が無い。殺さなければ、殺される。
「何が正しかったと思う?」
葵は、何度でも問い掛ける。
否定でも肯定でも構わなかった。誰かに答えを提示して欲しかった。自分の選んだ行動が不正解ならば、誰かに委ねてしまいたかった。
けれど、リタイアを許さない残酷な神様みたいに、和輝は慈悲深く首を垂れて、答えなかった。否定もしないが、肯定もしない。
葵は、もしも此処で和輝が逃げ道を提示していたら、その首をへし折ってやるつもりだった。彼が諦める時は、自分が殺す。その細い首の骨をへし折って、双眸をナイフで刳り貫いてやる。そう思っていた。
「俺は」
何かを堪えるようにして、和輝が口を開く。其処から放たれる答えを待ちながら、葵の目は周囲にある刃物を探していた。
その喉が自分の満足出来る答えを紡がないのならば、用は無い。
さあ、如何する?
まずは、逃げられないように、四肢の関節を砕いて置こう。
逃亡の手段を失くした彼は、どの段階で命を諦めるだろう。
それでも抵抗を辞めないと言うのなら、少しずつ身体を小さくしてやろう。まずは皮と爪を剥がす。
四肢を切断するのは最後だ。
失血死なんて、つまらない。殴打なんて野蛮なこともしない。意識を手放すことも出来ないような痛みを絶えず与えながら、その双眸から光が消え失せるまで何時までも待つつもりだ。
神経の末端を焦がすように焼いて、指を切断する。やがて、達磨のように動けなくなったところで、葵は再び問い掛けるのだ。
何が正しかったと思う、と。
彼が殺してくれと願っても、葵は聞き入れない。
少しずつ、真綿で首を絞めるように、命を削り取って行く。ーーそれは堪え難く甘美な誘いであり、同時に奈落の底に突き落とされるかのような酷い恐怖であった。
彼が絶望する時は、自分が殺す。そして、彼が死ぬ時は、自分も死ぬ時だ。
和輝は、無防備に項垂れたまま、懺悔するような掠れた声で答えた。
「俺は、葵が辛いのが、嫌だ」
否定でも肯定でもない答えを導き出して、和輝がぎゅっと目を閉じた。葵は、肩透かしを食らったような心地になった。
だが、視線は目の前の青年に引き戻され、想定していた殺害方法は全て霧散してしまった。
寝癖の残る後頭部が如何にも間抜けで、葵は噴き出すように笑った。
「なんだ、それ」
なんだ、それ。
そんな答えは、予想していなかった。
どんな答えであっても、殺すつもりだったのに。
目の前でお預けされたみたいに息苦しいのに、何処かで安心している自分がいた。
俺が共感能力の欠如した殺人者でも、異常者でも、それでも良いって言うの?
そんなの、反則じゃないか。お前が俺を諦めないのなら、俺だってお前を殺せないじゃないか。
殺させてくれないのならば、いっそ彼が自分を殺してくれたなら良いのに。そんなことを考えながら、葵の意識は微睡んで、やがて、白い天井の向こうに消えてしまった。
開かない扉
⑴PTSD
和輝は、リビングで眠る葵の横顔を見ていた。
彼が隙を見せるなんて、有り得ないことだ。彼の周囲は地雷原で、抜けた所で葵は全身から針を出すように身を守っている。手を伸ばすのならば、生半可な覚悟では届かないだろう。
それでも、彼を突き放すという選択肢は初めから存在すらしていない。葵の声にならない助けを求める声は、届いている。
「救ってやりたいよ」
彼を縛る過去の怨念も、出生に纏わる因果も全て蹴飛ばして、幽霊みたいに生きる葵を陽の下まで連れて行ってやりたいと思う。例えそれを葵が望まなくても、世界中が否定しても、誰に何を言われても引き下がりはしない。
彼が助けを求めて、自分が手を取ったその瞬間から、諦めるなんてもう無理だ。
あと、ほんの少しなのに。
この手を掴んでいるのに、葵を引っ張り上げられない。何が葵を縛っているのか、和輝には解らない。
影のように無数の腕が葵を絡め取って、闇の底まで引き摺り込もうとしているようで恐ろしい。自分が引っ張り上げるのと、葵が諦めて引き摺り込まれるのは、どちらが早いだろう。
思考に耽っていると、同居人の自室の扉が開かれた。昼過ぎになって起床して来た霖雨は、寝惚け眼を擦りながら「おはよう」と笑った。
寝起きの掠れた声だった。
その声が螺旋階段を下りそうな思考に歯止めを掛けて、和輝は弾かれるように挨拶を返した。
霖雨は欠伸を噛み殺し、洗面台へ向かった。その道中、ソファで寝ている葵を見て目を真ん丸にした。
恐ろしいものでも見たみたいな驚き方だ。和輝はコミカルな霖雨の動きに肩の力が抜けた。
「遅くまで起きてたみたい。朝ご飯を食べたら、そのまま寝ちゃった」
「葵の寝顔、初めて見たよ」
寄り道のようにソファまで歩み寄って、霖雨は葵の寝顔をまじまじと見ていた。
確かに、御利益でも有りそうな珍しい光景だ。だが、寝顔を見られて喜ぶ性格でもないだろう。
霖雨は一頻り寝顔を見た後、何事も無かったみたいに洗面所へ歩いて行った。
顔を洗った霖雨は目が覚めたのか、しゃっきりとした顔をしていた。
入れ違いに和輝はキッチンへ入り、味噌汁を温め直した。
鍋の中で踊るワカメを見ていた。ふと顔を上げると、キッチンカウンターに肘を突いて、霖雨が此方を見ていた。
「味噌汁の具はワカメだけ?」
「ワカメとナメコ」
「ああ、良いねえ」
味噌汁の香りを楽しみながら、霖雨はキッチンへ入って来た。
手伝いを申し出るつもりなら、冷蔵庫の中から漬物を出すように頼むつもりだった。鮭は焼いてあるし、白米も炊けている。
葵がリクエストしたので、出し巻き卵も用意してある。他に必要なものがあるのなら、セルフサービスだ。
和輝が言おうとした時、霖雨は冷蔵庫に背を預けて声を潜めた。
「如何して、人を殺してはいけないと思う?」
穏やかな朝に見合わない物騒な話題だ。内心驚きつつ、和輝は答えた。
「誰かが、苦しむから」
「漠然としていて、曖昧だね」
「法律とか倫理とか、小難しいことを列挙しても、俺の意見にはならないだろ」
人殺しを肯定するつもりは無い。だが、自身の生命が脅かされ、大切な人が殺され掛けている場面で、同じ言葉を吐けるとは思えない。
家族を殺されて、自身にも脅威が迫っていて、脅威の元を返り討ちにしたら、その者は殺人者として世間から弾き出されるのだろうか。ーー葵と、同じように。
「人殺しは法律に違反している。それを許容すると国家が成り立たなくなる」
「法律は死刑を求めるけどね」
「俺は別に、死刑反対派ではないよ」
コンロの火を止めて、和輝はお椀を用意した。
和輝は葵と朝食を済ませていたので、霖雨一人分だった。
「誰にも苦しんで欲しくない。被害者も加害者も、遺族も。ましてや、それが大切な友達なら尚更のことだろ」
「じゃあ、社会に必要とされない人間は、殺しても良いと思う?」
「思わないよ。俺は死刑反対派ではないけど、殺人を肯定するつもりも無いよ」
霖雨は何かを考えるようにして俯いて、漸く冷蔵庫の扉を開けた。
両手にそれぞれ漬物と出し巻き卵の皿を持ち、肘で扉を閉じる。和輝は温め直した味噌汁と、炊飯器から保温していた白米を装った。
まだ眠る葵はそのままに、リビングのローテーブルに一人分の朝食を並べる。霖雨はいそいそと席に着き、手を合わせた。
葵は、まだ起きない。
和輝はその寝顔をそっと見下ろした。普段の猛烈な罵倒や毒舌も、刃のような鋭い眼光も無いと、何処か幼く見えた。
だが、彼は嘗てサイコパスと診断された異常者なのだそうだ。和輝は他人の評価に興味は無いけれど、まるで息をするみたいに簡単に人を殺す葵を見ていると、自分とは脳の構造が違うのだと思い知らされてしまう。
同じ、人間でありながら。
彼を助けてやりたいと思う。
葵は、簡単に人を殺す。だが、それは襲い来る脅威を退ける為に必要な行為だった。正当防衛は成立するし、証拠隠滅だって葵の手に掛かれば容易いのだろう。
それでも、その手が血で汚れてしまうことが、嫌だ。だから、これは和輝のエゴなのだ。
人を殺さなくても生きていける世界。
誰からも襲われる心配が無く、理不尽に傷付けられることの無い安全な社会。
和輝は、他人の命を奪わなくても、身を守ることが出来る。同じ場面に出喰わしたとしても、相手を殺すなんて考えもしなかったと思う。それは、自分が生命の危険の無い平和な世界を生きて来たということだ。
和輝が欧州に行っていた約一カ月程の間、或る女性のストーカーが過激化して、夜道で襲おうとしていた。
其処にグレンが出喰わした。彼は男に掴み掛かり、二人は揉み合いになった。そして、グレンが返り討ちにされそうになった刹那、偶々其処にいた葵が、男を殺した。
証拠は、無い。
透明人間の葵に対する目撃証言も無い。
ただ、グレンだけが知っていた。
和輝はそれを、グレンから聞いた。
霖雨はそれを、問い質した。
葵は、正当防衛を主張した。ーー多分、葵の言い分は正当で、罪には問われない。女性にナイフを振り上げていた男を殺したとして、過剰防衛にすらならないだろう。
男は首の骨を折られて即死だった。
葵は最低限の犠牲で、二人の人間を守った。
これは、罪か?
和輝には、解らない。
だけど、それは、嫌なのだ。
葵は全ての泥を被って、異常者のレッテルを貼られて、社会から追い出されてしまう。
人を殺してはいけない。このエゴを、葵に理解して欲しいと思っている。彼の手をこれ以上、汚させる訳にはいかない。
焼き鮭を突く霖雨を横目に、和輝は簡単に身支度を整える。
携帯電話と財布、家の鍵。鞄なんて無くても、ポケットに全て収まってしまう。
「何処かに出掛けるの?」
「うん、ちょっと」
悪いけど、皿を洗って置いてくれ。
和輝はそう言い残して、玄関を出た。
外は暖かな日差しが零れ落ち、春風が吹き抜けている。微かに感じる活力に満ちた新緑と花の香り。季節はもう、春だ。
霖雨や葵と出会って、一年が経つ。
出会った頃の霖雨は世界に諦念を抱いていたのか、酷く胡乱な眼差しをしていた。綺麗な外見に引き寄せられる異常者を回避する手段も持たず、まるで捕食し易そうな草食動物だった。
他人の意見を受け入れる柔和な優しさが仇となり、何時も物騒な事件に巻き込まれていた。
だが、何時しか彼は自己主張をはっきりと示すようになり、身の安全を図るだけでなく、友達を守る為に強くなった。
葵は美しい仮面の下で何を考えているのか、よく解らない人間だった。希薄な存在感と異なる価値観を持ち、幾つもの傷を抱えながら惰性で生きていた。
彼の周囲は地雷原で、近付くことすら儘ならない。吐き出す敵意と害意は、何時の間にか相手の身を案じる警告となり、少しずつ自身の内心を開示してくれるようになった。
和輝がこの国に来て出会ったのは、そんな如何しようも無く弱くて、愚かで、身勝手で、けれど、優しい友達だった。
だから、もうこれ以上、彼等には傷付いて欲しくない。
携帯電話の電源を落として、駅へ向かう。
ICカードなんて洒落たものは持っていないので、券売機で切符を買う。
向かう先は郊外の診療所だった。
ジェイドと呼ばれる青年医師の元へ向かうつもりだった。
殺されたFBI捜査官に残されたメッセージを覚えていた。背中に刻まれたJADEという言葉の意味を確かめたかった。
以前、ジェイドの働いていた病院は異常者に襲撃されて閉鎖となった。今は別の診療所で勤務しているらしい。
目的地に到着し、和輝は建物の前で小さく深呼吸をする。鬼が出るか蛇が出るかは解らない。何事も無いのが一番だけど、最悪の事態は想定して置く。
JADEーー和名は、翡翠。
翡翠とは、和輝が嘗て働いていた喫茶店の同僚で、友達だった。だが、その経歴は嘘ばかりで、彼は質量のある幽霊だった。
知的好奇心を満たすためなら、躊躇いなく人を殺す。そうして、葵を追い詰め、和輝もまた、殺されかけた。
あのライブの会場で、和輝は彼を見た。
熱狂する観客の群れから離れた薄暗い壁際で、薄ら笑いを浮かべてステージの上の自分達を見ていた。闇の中で光る緑柱玉の美しい瞳が、今も脳に焼き付いて離れない。
See you again!
また会いましょう。
あの手紙の返事のつもりだった。
会場を出た時には、翡翠は幻のように消え失せていた。
受付で声を掛けると、ジェイドはすぐにやって来た。
金髪碧眼の美しい青年医師だ。
以前は未知の病に侵される患者の担当をしていたと聞く。その患者は今は殆ど完治して、世界中を旅して回っているそうだ。しかし、彼を研究材料と見做していた学会はジェイドの行為を許さず、結果として彼は僻地の診療所へ左遷させられた。
ジェイドは柔らかな笑みを浮かべて、和輝の来訪を喜んでくれた。
昼食がまだだと言うので、和輝は連れ立って近くにある飲食店へ足を運ぶことにした。
医療関係者であるジェイドと、医学生の和輝では、共通の話題は主に医療のことになる。
最近発表された論文や、現場実習のこと、話題は霖雨や葵のことにまで転がって、和輝は思い出を語るように出会った頃の二人のことを話していた。
「霖雨君も葵君も、精神的に健常な人間とは言えないね」
「そうですか?」
和輝は運ばれて来たペペロンチーノをフォークで巻き取りながら、適当な相槌を打った。
霖雨は嘗て、精神病を患っていた。しかし、それは現時点の科学では解明されない奇跡のような出来事を経て、変化したのだ。これは霖雨のプライバシーを侵害しているし、聞いても到底信じられることではない。だから、和輝はそれ以上のことは何も言えなかった。
葵のことも同様だ。
彼の過去を容易く口には出来ない。
ジェイドはグラタンを冷ましながら、そっと顔を上げた。
「PTSDって、知ってるかい?」
「心的外傷後ストレス障害のことですか?」
「そう」
グラタンを咀嚼し、ジェイドはそれを嚥下してから口を開いた。
「大抵の場合、凡そ三つの症状が一カ月以上続く場合、PTSDの診断が下される」
ジェイドは三本の指を立てた。
「精神的不安定による過覚醒状態。追体験と呼ばれるフラッシュバック。それから、関連する物事に対する回避傾向」
自分は葵ではないけれど、恐らく、全て当て嵌っていると思った。
葵は常に不眠状態で、アルコールやニコチンに依存している。偏食の上に少食で、栄養状態はお世辞にも良いとは言えない。
フラッシュバックについては葵が何も言わないので解らないが、今も過去の亡霊に縛られる様を鑑みると、有り得る話だった。
そして、関連する物事に対する回避傾向。
葵は過去に、親しい人を殺されている。家族は皆殉職し、友人は飛行機の自爆テロで亡くなった。だから、なのか?
だから、脅威が迫ると衝動的に殺すのか?
和輝が考え込んでいると、何時の間にかグラタンを食べ終えたジェイドが腕時計を見て言った。
「そろそろ、戻らないと」
「忙しいのに、ありがとうございます」
「いいや、俺で力になれるのなら、幾らでも。君には命を助けて貰ったからね」
悪戯っぽく片目を閉じて、ジェイドは伝票を持って立ち上がった。
いきなり押し掛けて昼食まで奢ってもらうなんて厚かましい真似は出来ない。和輝は追い掛けて財布を取り出した。
料金を払おうとして財布を覗くと、現金が殆ど入っていなかった。帰りの電車賃くらいしか無い。
その様を横目に見ていたらしいジェイドが、子供のように声を立てて笑った。
「此処は、俺の顔を立ててくれよ」
「ありがとうございます」
無いものは仕方無い。
次は自分が奢ると約束をして、和輝は飲食店の前でジェイドと別れた。




