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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
奇跡の真価
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⑹1セントの希望

 霖雨は、天岩戸の如く閉ざされた葵の部屋を見ていた。

 施錠の施された扉は開く気配も無く、霖雨には最早手の出しようが無かった。こんな時、和輝ならばその手が血に塗れても扉を叩き続けるのだろう。


 自分の発言が不用意なものだったとは、思わない。殺人を犯しても、罪悪感すら抱かない人間へ苦言を呈したのだ。

 だが、如何やら、この一件に関しては葵は正当防衛だったのだろう。彼が積極的に殺人を犯したような言い方をしてしまった此方に非がある。


 こんな時、何時も思う。

 神木葵と自分は、生きている世界が違う。命が危険に晒された時に、葵は警察への通報や身近な誰かへ相談するという手段が無いのだ。脅威には立ち向かい、情けを掛ければ寝首を掻かれると信じている。事実、彼の世界はそうなのだろう。


 果たして、自分は彼に何をしてやれる?

 消えて失くなりそうな透明人間を繋ぎ止めたヒーローのように、自分に出来ることがあるのだろうか?


 翌日、霖雨がスタジオへ行くと、入口の前でグレンが待っていた。

 苦渋を全面に押し出して、投げ捨てるみたいに小さく謝罪をした。解り易い奴だ。何故だか、急にグレンが可愛らしく見えて、霖雨は笑ってそれを受け容れた。


 俺も言い過ぎてごめん。

 そんな言葉一つで、和解出来る。


 既にスタジオで自主練していたらしい葵は、霖雨が到着しても目も向けなかった。まるで、彼の世界から追放されてしまったみたいだ。


 葵も、中々に解り易い人間だ。

 これが和輝ならば、社交辞令的な笑顔で迎え入れただろう。


 ボーカル不在のまま、三人で音を合わせる。

 和輝がいた頃に比べると円滑に進んでいるようだが、何となく味気無い。達成感すら感じない無味乾燥な練習は滞りなく終わった。


 ヒーローが進んで困難を選ぶ理由が解るような気がした。平坦な道は時間短縮になるが、何の感想も残らないのだ。

 だからと言って、壁を見付けては手当たり次第に体当たりしようとは思わない。


 練習の終わりに、グレンが言った。




「歌を書いたんだ」




 囁くような小さな声だった。

 グレンは薄汚れた楽譜を広げた。何度も書き直したのだろう。紙面はくしゃくしゃだった。だが、その強い筆跡は、一つ一つの音に思いを込めたのだと悟らせる。


 グレンは、宝物を拾い上げるように丁重な手付きで、エレキギターのストラップを肩に掛けた。


 空気を切り裂くようなカッティング、そして、アルペジオ。彼がファッションの一つとしてギターを弾いているのではないと解る。その背景で、彼は血の滲むような努力を重ねたのだろう。


 前奏の後、グレンが徐に口を開いた。

 霖雨は、驚いた。あのグレンが、歌っている。


 下手くそとは思わないが、耳に残る程に印象的な歌声でもない。ただ、照れ隠しみたいに掠れる声が、何かを真摯に訴え掛けている。

 其処には先鋭的な造語や、大衆受けするスラングも無い。有り触れた言葉で、特定の誰かの心に訴え掛ける、メッセージソングだった。


 演奏を終えたグレンが、沈黙する霖雨と葵を交互に見た。

 如何かな、なんて死んでも訊かないだろう。

 霖雨は黙って拍手を送った。


 素人にボーカルを押し付けてでも、自分はギターを弾く以外の選択をしなかった。それは彼のプライドだった筈だ。

 鋼鉄のように硬い彼の意地を折ったものは、何だったのだろう。


 彼が歌うというのなら、反対する理由も無い。

 むっつりと黙っていた葵が、言った。




「お前が歌いたいと言うなら、そうしたら良い。付き合ってやるから」




 他人との関わりを敬遠する葵らしくない言葉だ。グレンも驚いたように目を丸めていた。だが、霖雨も同感だったので、頷いた。




「お前がやりたいなら、やればいい。ーーでも、そうしたらボーカルが仕事を失くしちゃうね」

「隅で、タンバリンでも叩かせて置け」




 そうだね。それも、面白そうだ。

 タンバリンを用意して置かないとな。

 霖雨は、もうじき帰国するヒーローの姿を思い浮かべて、笑った。







 奇跡の真価

 ⑹1セントの希望







 ヒーローの凱旋を、霖雨は葵と出迎えた。

 細かった身体がよりほっそりして、目の下には深い隈があった。笑顔を見せてはいるけれど、疲弊していることは明白だった。


 そんな和輝は、土産だと言ってシュールストレミングを買って来た。リビングの机に置かれた赤い缶詰を見て、霖雨も葵も言葉を失っていた。


 ジョークなのだろうか。

 霖雨と葵が何も言えないまま、和輝は構わずに缶切りを持って来た。




「待て、止めろ。開けるなら、外にしろ」

「シュールストレミングが殺人的に臭いだなんて、迷信だよ」




 何故か自信ありげに和輝が言った。


 缶詰めに記載されている使用法では、開ける時は人気の無い屋外で、ポリ袋を被せるらしい。

 霖雨は葵と視線を交わし、阿吽の呼吸で和輝の手にある缶切りを取り上げた。


 喚く和輝を無視して、缶詰は一先ず冷凍庫に入れて保管する。

 鰊の塩漬けを発酵させた食品だ。常温のままにして置くと、ガスが発生する。


 何でわざわざ、こんな面倒なものを土産に選んだのだろう。


 開封を諦めたらしい和輝は、既に興味はバンドに移ってしまったらしく、楽譜を眺めていた。


 和輝は音符が読めない。だが、彼の手の中にあるのは、霖雨が書いた和訳の歌詞だった。

 英語すら解らない和輝が歌う為には翻訳が必要だった。だが、グレンの込めたメッセージを拾う為には直訳では駄目なのだ。楽曲に合わせた歌詞を作ることが、一番面倒だった。


 歌詞を読み終えた和輝は、今すぐにでもスタジオへ行きたいと言った。

 一ヶ月間の現場実習から和輝が帰還したということは、目標であるライブの日が迫っているということだった。


 猛烈な勢いで歌詞を読んでいた和輝の口元が綻ぶ。それはまるで、何かを許容し受け入れるような慈愛に満ちていた。




「この歌は、グレンが歌うんだね」

「ああ、そう」




 この一曲だけはグレンがギターボーカルを務める。よって、役割を失くした和輝は待機ーーもしくは端っこでタンバリンの演奏だ。

 それに不満も無いらしく、和輝は星を辿るように、指先を這わせて歌詞を追っていた。




「良い歌だ」

「うん」

「練習、楽しみだねえ」




 楽しみという感覚すら忘れていたことに気付き、霖雨は笑った。

 葵は話を聞き終えると、缶詰は開けないように念を押してから、自室に籠もった。鍵を落とす音が聞こえたので、霖雨は溜息を漏らす。


 流石に勘付いたようで、声を潜めた和輝が問い掛けた。




「葵と何かあった?」




 何と伝えたら良いものか解らず、霖雨は黙った。安易な嘘は看破される。




「葵の地雷を踏んだらしい」

「ああ、地雷原だからね」




 和輝は追求しなかった。

 納得したのか、見抜かれているのかは霖雨には解らない。




「締め出されちゃったし、お手上げだよ」

「もう、降参なの?」

「和輝なら、もっと上手く出来たんだろうね」




 意図してはいなかったが、皮肉っぽい言い方になってしまった。

 和輝は困ったように笑っていた。




「お土産にシュールストレミングを買って来ただろ?」

「うん。何で?」

「世界一臭いって言われているけど、俺は嗅いだことが無かったから」




 シュールストレミングの生産地はスウェーデンだ。和輝の現場実習は、其処だったのかも知れない。

 だからと言って、お土産に買って来るだろうか。彼はジョークグッズを進んで持ち込むタイプなのだろう。コンビニで新商品を試すみたいに。




「本当に臭いのか如何かなんて、開けてみないと解らないじゃない?」

「葵も?」

「うん」




 和輝が嬉しそうに頷いた。

 言っていることは解らなくもないが、シュールストレミングと同列に扱われるというのも如何なものだろう。


 和輝は、ぼんやりと閉ざされた扉を見ていた。開く気配も無いけれど、何かを見据える彼の目には、その向こうにいる透明人間が見えているのかも知れない。




「やってみなくちゃ解らないし、一度や二度の失敗で結果が見えるとも思わない」




 それを聞いても、霖雨は頷けなかった。

 彼は自己満足の為に、他人の心の繊細な部分まで土足で踏み込む。相手の気持ちなんて、考えないのだろうか。


 だが、すぐに理解する。彼は相手の嘘が解る。相手が嘘で躱せば、追求しないのだ。

 何処までもご都合主義だ。彼は正解だけを選び取って行くチートなのだろう。


 霖雨は、彼のようには生きられない。

 同じ生き方をしたいとも思わない。だが、少しくらいなら、共感してやってもいいと思った。




「グレンの真似をした訳じゃないんだけど、俺も歌を書いた」

「お前が?」

「うん。曲は、葵が作ってくれた」




 座学の壊滅的な和輝と、他人の心に共感出来ない葵の作った歌だ。

 ちょっと想像出来ない。

 和輝は、作った歌を開示するつもりは無いみたいだった。それはまるで、悪戯を思い付いた子どもが、内緒話をするみたいだった。


 翌日、スタジオに行くと、グレンが出迎えた。


 和輝の凱旋を知り、グレンは何かを堪えるように彼の肩を叩いた。まるで、共に死線を越えて来た戦友のようだった。


 グレンはギターとは別に、タンバリンを用意していた。和輝は不思議そうにしていたが、理由を聞くと大慌てだった。

 適当に合わせるということは出来ないらしい。

 タンバリンの練習をする和輝は真剣だったが、ロックバンドの音の中で明らかに浮いている。というか、五月蝿い。

 葵は、タンバリンではなくて、犬笛を渡せば良かっただなんて吐き捨てた。それじゃあ音が聞こえないじゃないか。


 和輝はタンバリンを片手に下げながら、昨夜言っていた楽譜をグレンへ渡した。

 グレンは訝しげに目を細める。楽譜を見下ろす様は、まるで品定めしているようだった。




「この曲、お前が書いたの?」

「曲は、葵が書いたよ。俺は音符が読めないから」




 グレンは心此処にあらずと言った調子で、楽譜を読み込むことに没頭していた。




「難しそうな曲だな。タイトルは?」

「1セントの希望」




 グレンは頭痛を堪えるみたいに顳顬を抑えた。霖雨もまた、頭を抱えたかった。

 そんな二人を無視して、和輝が胸を張る。




「俺にも夢がある。それはまだ叶っていないけど、絶対に叶えてみせると覚悟を決めたんだ」

「覚悟って、何?」




 それまで黙っていた葵が、横から口を出した。和輝は意味深な笑みを浮かべて、答えた。




「その夢の為に、何を犠牲に出来るか」




 和輝の声は、氷のような冷たさを持って、霖雨を貫いた。


 夢を叶える為には代償を払う覚悟がいる。和輝はそれを覚悟しているのだ。


 人は誰でも優先順位がある。取捨選択の末、和輝にも、切り捨てたものがあるのだろう。それが何故だか、酷く恐ろしいものみたいに聞こえた。




「グレンにとって、本当に大切なものって、何?」




 グレンは答えなかった。だが、その奥には何らかの答えがあるように見えた。

 練習に不参加だった和輝が、その遅れを取り返すように突然、歌い出した。




「希望の朝を目指して、闇の中を進むと決めたんだ。どんな時でも希望は失われない」




 彼のきれいごとが、メロディに乗って走り出す。霖雨は殆ど衝動的に、ベースギターを手に取っていた。


 ふと、ドラムの音が聴こえた。

 透明人間が、何時もの仏頂面でスティックを握っている。




「笑う人が何人いたら、その夢を諦める?」




 タイトルは、1セントの希望。

 この歌は、紛れもなく、グレンの為に作られた歌だ。


 体育会系特有の腹の底から響く声は良く通る。ぞっとする程に綺麗な声だった。

 多少、音程を外すが、ご愛嬌だ。外した音は掠れたハスキーボイスとなり、艶がある。リズム感は精密機械みたいに正確で、妙に人を惹き付ける。




「希望がある。希望がある。希望がある」




 夢を目指して現実と闘う彼等の背中を押す応援歌だ。グレンもついにギターを手に取った。

 背中合わせにいるみたいに、互いの呼吸すら聞こえそうな一体感だった。


 見えない糸が繋ぐようにして、希望の歌が紡がれる。


 彼はきっと、その希望が何度断ち切られても、闘うのだろう。

 葵の閉ざした扉を叩き続けたように、何度でも。


 印象的なギターのメロディで、演奏は終わった。

 暫しの間、誰も動けなかった。

 くるりと振り向いた和輝が、蕩けそうに笑う。グレンは足音も立てずに歩み寄り、互いに拳を合わせた。


 希望がある。

 和輝の座右の銘なのかも知れない。幾度と無く聞いて来たきれいごとだ。

 葵は、その言葉をどんな気持ちで読み、曲を作ったのだろう。彼の夢を、どんな思いで見ていたのだろう。


 振り向いた和輝が、霖雨と葵を交互に見た。

 透き通るような綺麗な瞳には、鏡のように二人の姿が映っていた。




「楽しいライブにしようね」




 少年みたいに笑って、和輝が言った。

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