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透明人間の手記  作者: 宝積 佐知
奇跡の真価
35/68

⑸残響

 天才とは生まれ付き備わって、凡人の努力では遠く及ばない程の才能を示す。


 葵とグレンは二人きりで、小さな寂れたスタジオにいた。天井から照らされる白熱灯が風に揺れ、如何にも心霊現象が起こりそうな気配をしている。


 ドラムセットの前で自主練をする葵に、グレンは振り向かない。居心地の悪い空気はエアコンの唸り声に掻き消され、今にも崩れ落ちそうな天井から白熱灯がゆらゆらと揺れていた。


 スタジオには、他に誰もいない。

 正直なところ、メンバー二人が不在の中で練習を行う意味があるのかすら解らない。


 背中を向けたままのグレンは音を合わせようとはしない。何かに脅えるように背を丸め、僅かなきっかけでこの場から消え去りそうに見えた。


 葵はドラムスティックを弄びながら、その背中に声を掛けた。




「可能性の話をしてもいいか」




 グレンが、ゆるゆると緩慢に振り返る。

 寝ていないのではないかと思うくらい、両目は深い隈で彩られている。

 不眠症とは他人事ではないので、同情もするが、他人の疾病など興味も無かった。その男が呑んだくれて路上で凍死したところで何の不利益も無い。




「この歌って、誰が作ったの?」

「……俺が作った」

「歌詞も?」

「歌詞は、前の仲間が書いてくれた」




 ふうん、と適当な相槌を打って、葵は続けた。




「他人の歌詞を侮辱する気は無い。こういった先鋭的なものを喜ぶ人間もいるのだろう。だが、即席で組まされたバンドが、同じものを行なおうとすると、不具合が生じる」

「お前等の為に、変えろって、ことか?」




 何かが、グレンの琴線に触れたようだ。空気が重く張り詰め、今にも音を立てて千切れそうだった。

 だが、葵にとってこれは忠告なのだ。




「もしも、お前が和輝をボーカルとして使いたいのなら、歌詞は変えた方が良い」




 暫し逡巡し、グレンは顔を上げた。双眸には刃の切っ先にも似たするどい光りが宿っている。それは若者だけが持つ希望という名の狂気だ。




「歌詞は、変えない。俺は、俺の思いでこの曲を書き上げたんだ!」




 ああもう。

 葵は苛立って頭をくしゃくしゃにした。

 馬鹿な人間と話すと、疲れる。




「内容を変えろと言っているんじゃない。ーー和訳しろと言っているんだ」




 ぽかん、とグレンが間抜けに口を開いた。


 和訳?

 其処で漸く話を聞く姿勢を取ったグレンが、不思議そうに眉を跳ねさせて葵を見た。


 如何して自分がこんな役回りをしているのだろうかと思うと、頭が痛かった。




「和輝に英語の歌詞は理解出来ない。語学が苦手なんだ。歌詞に込められたメッセージを理解しようとしても、訳の解らない造語や口汚ないスラングを言語として理解出来ないから、音を外す。多分、あいつは音痴なのではなくて、言葉を知らないだけだよ」




 論より証拠だ。

 葵は時差も忘れて、和輝に電話を掛けた。

 中々繋がらなかったが、二度三度と掛け直す内に、それは観念したように繋がった。




『もしもし』




 耳触りの良いボーイソプラノが、寝起きのように掠れた声で返事をした。

 昨日よりも疲弊しているらしい。和輝は、今は休憩時間だと言った。休憩時間の度に連絡するなんて、ホームシックみたいだ。


 葵は疲れているだろう彼に構わず、一方的に用件を告げた。




「今から歌ってくれ」

『此処で?』




 和輝は驚いたように声を上げた。

 向こうがどのような状況なのかは知らないが、休憩時間に歌う実習生なんて有り得ないだろう。

 それでも、彼がこの要求を呑むことは解っていた。


 僅かな沈黙の間に、葵はジャックを取り出して携帯電話をスタジオのスピーカーに繋いだ。

 小さな咳払い。そして、掠れる声が、した。


 天井のスピーカーから、声が降って来る。

 此処は室内の筈なのに、まるで雪の結晶みたいに、惜しげもなく、降り積もる。

 葵は声の中で目を閉じた。


 恐ろしいくらいに伸びやかで、鳥肌が立つ程に綺麗な声だった。amazing graceだ。その声と選曲が相まって、スタジオは聖域のような清浄な空気に包まれた。


 amazing graceは赦しの歌だ。

 大方、練習に参加出来ないことに罪悪感を抱えていたのだろう。


 メタファーは兎も角、グレンは魅入られたように聴き入って動かない。その歌が途切れるまで、微動だにしなかった。


 歌い終えた和輝は、休憩時間は終わりだと慌ただしく通話を終えた。

 静かになった携帯電話をポケットへ押し込み、葵はグレンを見た。




「安っぽい造語や口汚ないスラングじゃなくても、伝えたいと思えばやり方は一つじゃない」




 グレンは取り憑かれていたように見ていた天井のスピーカーから、ゆっくりと視線を動かした。




「ーー困っているから、協力して下さい」




 両手をぎゅっと握り締め、何かを堪えるようにグレンが頭を下げる。

 震える両拳に自尊心と夢が鬩ぎ合っているのが解る。


 嗾けた手前、協力してやるのも吝かではない。だが、問題は別にある。

 和訳くらいなら、葵にも出来る。だが、歌詞に込められたメッセージを殺さぬまま曲を変えずに置き換えるというのは、難しい。範囲外だ。

 馬鹿の和輝にも出来ないだろう。

 必然的に、選択肢は一つしか無かった。




「霖雨に頼んだ方が良い」




 そう言うと、グレンの顔が絶望に染まった。

 そういえば、叱られたばかりなのだった。今更、霖雨も腹を立ててはいないだろう。むしろ、言い過ぎたと後悔していたくらいだ。


 グレンの行動に歯止めを掛けるものは、結局、プライドなのだ。


 面倒臭い奴等だな。

 とは言え、間を取り持つのは自分の役割ではないので、葵は海の向こうへ思いを馳せた。







 奇跡の真価

 ⑸残響







 夜中になって、漸く和輝と電話が繋がった。

 ホテルに戻ってからも実習記録を書かなければならないらしい。眠るのは大体深夜二時頃で、起床は午前五時だと言う。

 丸一週間休みは無く、これは労働基準法に抵触しているのではないかと、葵は疑問に思った。


 和輝が歌う為には解り易い歌詞に替える必要があり、元々の歌詞に込められたメッセージ性を殺さぬ為には霖雨が必要だった。

 けれど、グレンは子供のような意地から中々謝れないらしい。酷い言葉をぶつけられたのは和輝の筈だが、既に当事者ではなくなっている。




『衝突して初めて埋まる溝もあるだろう。言葉で難しいのなら、歌で謝れば?』

「言い過ぎたから、ごめんって?」

『ううん、回りくどいね。霖雨には俺から言っておくから、ちゃんと顔を合わせて謝るんだよ』




 何だかなあ。

 葵は通話を切った。隣で聞いていたグレンが、何故だか奇妙な顔をしていた。

 まるで、届かないものを羨むような、眩しいものを見るような目だった。


 グレンとは明日の夜に再びスタジオで会う約束をした。それまでに和輝が霖雨に連絡を入れて、段取りを済ませて置くという間抜けな格好になってしまった。


 葵は、帰宅の途中、イヤホンを装着した。

 趣味でもない若者の有り触れたロックを聞き流す。オレンジ色の街灯の中に音階が色分けされるみたいに浮かび上がっていた。


 バラードはパステルカラー、ロックはモノクロ、ジャズはセピアに染まっている。その中で、スタジオで聞いたamazing graceが銀色の砂嵐みたいに蘇る。


 ドラムなんて無いのに、指先は自然とリズムを刻み、メロディを口ずさみたくなる。


 漸く帰宅すると、リビングには例の如く霖雨が項垂れていた。




「おかえり」

「ああ」




 霖雨の手には携帯電話が握られていた。

 恐らく、ヒーローからの連絡が入ったのだろう。葵の予測は外れていなかった。

 霖雨は携帯電話をぼんやりと見ながら、罪を告発する罪人みたいに言った。




「此処に和輝がいないことが、心底残念だ」

「その心は?」

「引っ叩いてやりたい」




 溜息を一つ零して、霖雨は立ち上がった。

 キッチンに入る様子を見るに、夕食は霖雨が用意してくれるらしい。彼は現在、飲食店のキッチンでアルバイトしているらしいので、そこそこ腕はあるのだろう。


 しかし、玄人顔負けの調理の腕前を毎日披露する和輝の前で、霖雨の出番は無かった。

 水盤で軽く手を洗い、霖雨は言った。




「さっき、和輝から電話があったんだ。グレンも反省してると思うから、許してやってくれって」

「あいつ、本当に何様なんだよ」




 溜息を零したくなる霖雨の気持ちも解るような気がする。

 問題を起こしたのは和輝で、霖雨はそれを庇ったのだ。それが、何故か第三者みたいな顔で仲裁しているのだから腹も立つだろう。

 けれど、霖雨は中々に度量の大きい人間なので、今更不平不満を言いはしない。




「俺が大人気無かったよ。余計なことをした。あの時、グレンが何を言っても庇うべきじゃなかった。ーーだって、当の本人がちっとも堪えてないんだから」




 違いない。

 そもそも、彼だって頭に来れば何か行動を起こしただろう。霖雨のように大人ではないから、殴り掛かったかも知れない。

 だが、それでも良かったのだろう。衝突して初めて埋まる溝もあるのだ。きっと、彼等ーーグレン達だって、そうして築き上げて来た筈だ。


 他人の評価一つで揺らぐようなものを夢とは言わない。その程度の関係性だけで、やって行ける筈も無い。




「今日の夕飯、何?」

「カルボナーラ」




 胃が凭れそうだ。

 葵は今から胃が痛むような気がして、薬品棚から胃腸薬を取り出した。

 コンロの前に立つ霖雨が、失礼な奴だなと文句を言うが、聞き流す。

 ミネラルウォーターで粒状の漢方薬を流し込んでいると、背中を向けたままの霖雨が思い出したように言った。




「この近くで、人が死んだらしい」

「ふうん」

「女の人のストーカーだったらしい。襲われそうなところを、助けられたって。犯人は首の骨を折られて即死。誰が殺したのか解らないそうだ」




 手鍋に湯を沸かしながら、霖雨は問い掛けた。




「誰が殺したか、知ってる?」




 他愛も無い日常会話の色を帯びながら、鍋を握る霖雨の手が微かに震えていた。

 問い掛けていながらも、霖雨は既に答えを知っているようだった。ただ、その答えが不正解であることを祈っているように見えた。


 葵は察した。

 此処で嘘を吐いても、意味は無いのだ。確証は無いけれど、霖雨は正解を知っている。

 無駄な問答は早々に切り捨てるつもりで、葵は答えた。




「俺が殺した」




 びくりと、霖雨の腕が震えた。

 葵はくしゃくしゃの煙草を取り出して、火を灯す。換気扇の下、葵は壁に寄り掛かった。




「正当防衛だったし、証拠も残していない」




 何だか、言い訳をしているみたいで腹の据わりが悪い。

 霖雨は視線は鍋へ落としたまま、告げた。




「そういうことじゃ、無いんだ」




 霖雨が努めて冷静な態度を取っていることは、傍目にも解った。だが、彼が何に対して我慢ならないのか、葵には解らなかった。


 葵が殺したのは、社会的弱者を付け狙う犯罪者だった。更生の余地は無い。そもそも、葵が進んで殺した訳じゃない。

 ナイフを振り上げて、今にも女を殺そうとしている男に、通り過がりの自分が制止を訴えたところで、止まるだろうか。あの時、葵が無関係を決め込んでいたら、女も、考え無しに飛び込んだグレンも死んでいた。


 湯が沸騰している。

 霖雨は何か覚悟を決めるみたいに小さく息を吸い込んで、振り向いた。その相貌が、今にも泣き出しそうに見えて、葵は驚いた。




「この世は因果律に支配されている。与える者は与えられ、奪う者は奪われる。人を殺す者は、殺されるだろう」

「宗教的だな」

「俺は、それが、怖い」




 因果律。

 全ての事象が巡り巡るのならば、自分は何時か殺されるのかも知れない。だが、それこそ願ったり叶ったりだ。


 生きて行くということが、既に罰なのだ。

 縋る先も無く、救いも無く、過去に縛られて毎日を消費して行く。感情は欠落し、他人との交流を絶ち、まるで世界に独りきりでいるみたいに、生き続けなければならない。


 本当に、誰か殺してくれないかな。

 そんな廃退的な感情が泡のように沸き上り、葵は此処にいないヒーローの名前を呼びたくなる。




「葵のことを大切な友達だと思っている。だから、傷付いて欲しくない。危ないことは止めて欲しい」




 霖雨の言葉は、真摯な響きを帯びていた。

 だが、葵には、何一つ、響かなかった。



「俺が望んで人を殺していると思っているのか?」

「そうじゃない」

「世界が法律によって平和に保たれていると思っているなら、それは勘違いだ。此方が何をしてもしなくても、脅威は何食わぬ顔をして降って来る。避ける手立てが無いのなら、立ち向かうしか無いだろう」




 霖雨は、何かを言おうとして、止めた。

 伝わらないことに匙を投げたようにも、反論の言葉を見付けられなかったようにも見えた。


 沸騰していた筈の湯は冷えて、水面はゆっくりと凪いで行く。

 呆然とした顔で、霖雨が問い掛けた。それは風が吹けば断ち切れてしまいそうにか細かった。




「俺がお前に何かしてやれる事、ある?」




 その声が縋るような響きを帯びていたので、葵は容易く無碍にも出来なかった。けれど、果たして此処で告げた内容に対して、霖雨がどの程度向き合ってくれるのだろうか。


 一緒に死んでって言ったら、死んでくれるの?


 葵は、その言葉を呑み込んだ。心中願望は無い。少なくとも、霖雨に対しては。




「事件には巻き込まれるな。飛行機では死ぬな。助けに行けないから」

「飛行機?」

「俺の友人は、自爆テロに巻き込まれて飛行機の中で死んだんだ」




 ただ見ていることしか出来なかったあの日の虚しさが蘇り、葵は煙草を灰皿に押し付けた。




「お前の忠告は有り難く受け取って置く。俺は他人の気持ちが解らないから、もしも気を悪くするような受け答えをしていたなら、悪かった」




 食欲は失せてしまった。

 霖雨に短く謝罪を告げて、葵は全てを遮断するつもりで自室へ閉じ篭もった。

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